2001-10
 



10/30(火)
 校長説明会が終了し、ホッと一息つけるかと思いきや、忙しさは加速する一方で笑ってしまいます。校長説明会なんて遠い昔の話のように思い出されます。でも考えたら、1週間しか経過してないのです。昨日はミーティングが5つ。本日は、評価面接、早実オープン後処理ミーティング引継ぎミーティング、正月特訓ミーティング、課のミーティング、横浜国際ホテル講演会ミーティング、部のミーティング、とミーティング5つと面接1つを消化しました。そのうち、私が主催のものも3つあり、準備が結構大変です。そして、そのスキマをぬって多種多様で結構な量の処理を進めながら電話対応などもしています。なかなか超人的な動きだと、我ながら感心しています。

10/29(月)
 「倒れそうなんで帰ります」と言って退社していった人がいました。確かに顔がひきつっていて、本当に倒れそうでした。そして実際に倒れた人、倒れている人もいます。口には出さないけど倒れるんじゃないかという人もいます。
 昨日で言う「人と接する態度」を上司と部下に当てはめると上司は当然「親の態度」を取ることになります。しかし、部下は「子供の態度」ではなく「大人の態度」を求められます。また、部下が信頼できるレベルとなれば上司も「大人の態度」を取るようになり、時に「子供の態度」も見せるでしょう。部下が「親」になることもあるのです。

10/28(日)
 人が人と接する態度は、大きく3つに分類できます。
@大人の態度:理性的な態度です。相手を信頼できるものとしてとらえ尊重します。
A親の態度:相手を批判的にとらえ、指導しようとします。また、批判だけでなく、褒めたりもしますが、それは根っからの賞賛ではなく、指導的意味合いを持ったものです。平たく言うと、上から見ている態度です。しかし、助けてあげよう、面倒を見ようという態度でもあります。
B子供の態度:感情をそのまま出す態度です。愚痴を言うのもこの態度です。
 相手によって、また、同じ相手でもTPOによって、この3つの態度を使い分けています。先日の「役割期待」と通じるところがあります。
 ここでは自分はこういう態度を取るべきで、相手はこういう態度を取るべきだ、と我々は無意識のうちに頭の中で考えています。自分がこう言えば、相手はこう考えてこういう態度を取ってくるだろうと、期待をして言動を行っています。初対面の人と接する時にギクシャクするのは、相手の考え方が読めないからであり、「自分がこう言えば相手がこう思うだろうから、自分はこういう言動を取ろう」という行動の決定がしにくいからです。
 「人と接する3つの態度」の話に戻りますが、「ここは大人の態度で話し合おう」としている時に、相手に「親の態度」で来られると「ふざけるな」と思いますし、「子供の態度」で本音を出し合おうと思っている時に相手が「大人」になってしまうと「いけすかない奴だ」となってしまいます。

10/27(土)
 久々に職場に緊張感がにじみ出ていた気がします。

10/26(金)
 今、ドール盛りだくさんフルーツにハマっています。
 夜の9時くらいに帰れるかと思っていたら急遽お仕事がやってきて、ようやく片付いたと思ったら次のものがやってきて、終電5分前にようやく退社できました。猛ダッシュで駅に到着すると、ホームはこぼれ落ちるんじゃないかという人ゴミでした。おしくらまんじゅうで何とか電車内に収まりましたが、その後、接続待ち山手線組が突入してきて、入り口側ドア近くにいた私が反対側のドアまで押しこまれました。深夜の0:20にこんな状態になるのは、日本広しと言え、埼京線だけでしょう。いえ、世界中を探してもこんなのないでしょう。花火とか何かイベントがあったわけでも何でもなく日常のヒトコマなのです。埼玉県民をなめきっているとしか思えません。何度も言いますが、私はブロイラーではない! 人間なのだ!
 私の隣に、お兄さんとは呼べそうにないおっさんがいましたが、そのおっさんの前にきれいそうな娘さんがいて、娘さんがおっさんの方を向いていたもんですから、その2人は「熱い抱擁」状態でした。1年ぶりに会った遠距離恋愛アツアツカップルでも、あそこまで熱い抱擁はできないでしょう。娘さんも体の向きを変えたくても、とても変えられない状態で、なんとかクチがつかないように顔を背けるのが精一杯のようでした。
 ということで、帰宅後、本日初の食事をようやくできました。落ち着くのもつかの間、洗濯が! アイロンが! 私を待ってます。もう2時を回ってますが、明日来ていくものがありませんので、4時までかかろうが仕上げねばなりません。昔は平気でアイロン飛ばしてシワクチャのシャツとか着ていったものですが(洗濯はさすがに、脱衣場から前着たヤツをひっぱってくるとかしませんでしたよ)、ここ4〜5年は睡眠を減らしても根性でやってます。社会人の自覚とでも言いましょうか。
 しかし、体の節々が痛い。

10/24(水)
 楽勝だと思われていた本日も、なぜかタクシーとなってしまいました。調子に乗って机の整理を始めたのが敗因です。せわしないのが普通なので、書類を整理してファイルしたりしていると「あれ、こんなことしている程、暇でいいのかな?」と思ってしまいます。整理、特に自分の机まわりの整理は私にとって非常に優先順位が低いのです。ただ、机に積み上げる「山」の中身がわからない程になってくると目的の書類を出すのに何十秒とかかってきて、さすがに業務に支障が出てきますので、そうなると整理に着手をするのです。「あれを出そう」と思ってから5秒以上かかると苦痛になってきます。整理できている、つまり出し入れが非常に高速である状態が望ましいのは当たり前ですが、その状態を保つために時間を取られ過ぎると、能率が悪いということになります。みんなが使うファイルとなると「何にもわからない素人でもわかる」状態にしなくてはいけませんが、自分だけが使うのであれば、自分が不自由なく使えれば良いわけです。人に読ませるための文字と、自分がわかれば良い文字を使い分けるのと同様です。整理にかかる時間と自分が検索するのにかかる時間を考えて、整理していけば良いことです。
 PCの最大の利点は膨大なデータでも検索が速いこと、人間には不可能な量を記憶できること、この2点に尽きると思います。ただ、多くのデータが紙でやってくるので入力に時間がかかるのが難点です。

10/23(火)
 「椅子が人を育てる」と言います。教務主任を始めて1年目は、上司から「存在感がない」だのボロクソ言われていましたが、2年目は「去年とは別人だ」と言われました。おそらく今年の私も同様に思われているのではないでしょうか。我ながら学習能力は高い方だと思っています。
 ただ、「椅子」の話は役割期待に関する記述です。自分が父親である場合は「こういう時は父親はこうするものだ」という行動規範にのっとって言動を決めていきます。先生である場合は「先生らしく」振舞うわけです。ですから、「周りに誰がいるか」「その集団の中での自分の役割」によって自分の出し方は大きく変わります。これは多重人格でも何でもありません。すべて自分の人格なのです。上司となったら上司らしく振舞うので、その判断・行動が自分のものとして身につき、自分の人格として取りこまれていくのです。
 1年目と2年目で私が大きく変わっていくのは、「知る知らない」より自信の部分が大きいと思っています。細かい実務は別として、1年目であっても大きいところに関しては私は結構わかっているのです。先日述べました通り、私の視点はかなり高いところにありますので、考え方は日頃から一歩上のところにあるのです。ただ、実際に自分がやるとなると、確信がないので迷っていて行動が遅くなったり遠慮しすぎて、結果後手後手となってもっと悪い状況に陥るという悪循環にはまってしまうのです。迷った場合も、90%以上が後から考えると私の想像通りの結果であり間違えてはいなかったのです。最初から自信を持って、または、勇気を持って私の思った通りに進めていれば、何も問題はなかったのです。逆に、少々浅はかであっても自信満々で事を進める人の方が最終的なアウトプットとして良い結果を残せるのです。また「頭でわかっている」のと「実際に行動として習慣化されて身についている」のは別次元ですから、その点は大きいと思っています。
 私の場合も「椅子」が私を育てているのでしょうが、根っこの考え方は何も変わっていないので、本来の意味では私に当てはまらないと思います。ただ、実際に行動に移して、それらしくなっていくという意味では当てはまっています。
 私の自己評価はそんなところです。

10/22(月)
 昨年よりもかなりスムーズにイベントは終了しました。正直、朝の全体ミーティングを終え部署ごとにミーティングを始めたあたりから「もう私がいなくても大丈夫だな」と感じていましたし、実際そうだったと思います。資料、段取り、打ち合わせと準備はかなり高いレベルで終了していましたから、当日その場での判断や連絡などは、トラブルに関わる程の事項はありませんでした。もうほっといても動き出している、そういう状況です。後はもう微調整をするのみでした。私としては校長が来なかったケースまで頭に入れていましたが、無事完了しました。でも、責任者をやっていると、そんなことまで心配になってくるのです。結構ドキドキです。
 私は仕事に関しては、石橋をたたいて渡るクチですから、常に最悪最悪のケースを想定して対処を考えていきます。「もう何が起こっても、問題なく完全にフォローできる」という見切りがある事項に関しては、余裕で構えてますので一見いい加減に見えるかもしれませんが、それは「いざ」という時にいつでも動き出せるしどうにでもできるという確信なのです。
 マイナスをなくすという点で確信が持てた時点から、今度はプラスを創出していくという思考に変わっていきます。守りの思考から攻めへと転換して行きます。このターニングポイントはとても楽しい瞬間です。

10/21(日)
 昼休憩の新聞でわかりましたが、ピッツバーグで墜落したテロ飛行機は、乗客が反撃をした結果とのことでした。私もテロ直後の日記で乗客の反撃について触れましたが、その通りだったようです。機内から電話交換手に、状況と、数人でテロに反撃をする旨を伝え、「いいかみんな、いくぞ」という言葉でその電話記録は途絶えていたそうです。奇しくも私と同じ年の男性です。飛行機で突撃するはずだった場所の人命を救った英雄的行為ととらえられています。朝日だったんですが、この記事を読んでちょっとピリッとしました。この「いくぞ」を想像すると鳥肌が立ってきます。
 早いもので2回目の校長説明会がやってきました。今日は朝から採点でしたが、夕方の6時半には滞りなく業務を終了し、2tトラックをレンタルしに出かけたあたりから気持ちは校長説明会100%になってきました。第1関門は荷物が全部積めるかというところでしたが、これはクリアしました。終電の1本前の電車で帰ってきましたが、昨年はそれくらいの時間から当日用レジュメを作り出したのを覚えています。朝の4時まで異様なハイテンションでした。

10/19(金)
 昨日は目や体中に疲労が出てきました。ほぼ1日中寝ていた気がします。でも、しっかりとプレステソフトを買ってきました。ガンダムです。挿入されているアニメは懐かしく面白いのですが、プレイそのものはあまり面白いとは言えず、目の疲労ばかりがたまり、途中でぐーすかと眠りこけました。ボトムズにしろ、ガンダムにしろ、今の子供の世代とは思えないものが発売されています。きっとプログラマーの趣味なんでしょう。また、それが売れるということは、きっと私みたいな30前後の人間がソフトを買っているのでしょう。昔だったら考えられないことです。

10/17(水)
 感想文で終電を飛ばしてしまいました。飛ばしついでに朝4時まで働いてしまいました。昨夜のマリナーズ戦はダイジェスト版ということで、朝まではやらなかったので6時間くらいは眠れましたが、それでもさすがに少々眠いです。家にたどり着いた今は5時です。
 終電時刻間際になると「出なくては」と少々キリキリし始めるのですが、時刻を過ぎると「あー行っちゃった」と脱力感に見まわれると共に、妙な開放感に満たされます。そんな状態で、同じく終電を飛ばしたと言うか元々終電なんて乗れると思っていないで働いている課長に声をかけてちょっと仕事を手伝ったんですが、かなり大変そうでした。

10/16(火)
 今日は、ヨダレがたれそうな程、眠い瞬間がありました。また、体もこっています。5時間睡眠が続いているので、そのせいでしょう。なんて書きながら背後ではマリナーズ戦をやってますから、今夜も朝方まで起きていることになりそうです。

10/14(日)
 新勧ということで宴会を行ってきました。何だか恒例と化してきましたが、人が集まるのは良いことです。1年半前は集まろうという雰囲気はなかったんですが、今回は集まるのが自然な感じでした。そういう雰囲気になってきたということであり、チームを形成しているということです。
 「仕事は仕事、プライベートはプライベート」という考え方もあり、それはそれで真理ですが、仕事とプライベートは完全に引き離せるものでもありません。生活の中に仕事がありプライベートがあるからです。「仕事に何を求めていくか」は人によって様々であり、全人格の中で決定されていくものでしょう。そこを考えずして、深い意味での仕事の話を人とすることはできないと思っています。
 「家庭に仕事を持ちこまない」とか「頭の切り替え」とか言われますが、仕事とプライベートを完全に切り離して考える必要がどこにあるのかよくわかりません。仕事だろうが、趣味だろうが、面白いものは面白い。「分けよう」という発想は、仕事を「耐えるべきもの」「つらいもの」ととらえる思想から来ている気がします。確かに仕事は耐えるところが多いんですが、耐える部分をコミで楽しいと思うのです。趣味だって、楽しいものは耐えますよね。時間にしろ、労力にしろ、出費にしろ、楽しいから耐えるわけで、耐えるから楽しいわけです。私は受験勉強を部活や趣味と同じようなものだと思っています。打ちこんで上達するしない、熱くなる熱くなれない、まったく同じであり、分けて考える必要はない。仕事とプライベートもそうではないでしょうか。
 「どれに、どれくらい熱くなろうか」というのは、個人差があると思います。ただ、起床時間の大半を占める仕事という部分を、「つまらないもの」としてあきらめてしまうのは、もったいない。自分で「面白いもの」にしていけば良いのです。「自分は何を面白いと感じるか」をよく考えて、やっていけば良いことです。趣味でも上達しなかったら面白くありませんし、楽しいと思っている部分は刻々と変化します。
 仕事に関しては、経営者的視点で参加するのが一番手っ取り早く楽しくなると思います。会社という組織は、そういう視点で動いているわけですから、そこに自分の視点が一致すればストレスなく楽しくなってきます。逆に、社員の視点がバラバラの場合は、もろい組織と言えます。自分の個人成績よりもチームの勝利が楽しい、と選手が思えるチームの方が強いのと同じです。

10/13(土)
 「マネーの虎」という新番組をやってました。出資して欲しい人が、起業家たちの前でプレゼンらしきことをして、最初に述べた欲しい金額まで出資額の合計が到達したら融資してもらえる。到達しなかったら1円ももらえないという企画です。資料を持ち込むわけではないので、プレゼンというよりは面接に近い。第1号は風俗のスカウトで、店舗というか事務所を構えて、パーティー形式で風俗店と働きたい人を合わせて仲介料らしき収入を得ようという企画でした。希望金額は650万。すでに街角スカウトは4年やっていて、お付き合いのある店舗も70あり、ネットも使って月900のアクセスを得ている。「大阪でやるなら」という条件で、途中で1人がポンと650万を出しました。受け取った本人は「うれしい。でも正直重いです。」とのコメント。若干23歳です。
 出資するかどうかは、最後は「人」で決めています。アイデア云々もありますし、どこまで青写真が描けているか、マーケティングはできているのか、あるんでしょうが、事務所で月いくら、人件費がいくらと調べてある、考えてあるなんてのは当たり前で、商売として成り立つかどうかは売上がどこまでいくかであり、どこまでやり通すかであり、これはもう意志の世界ですから、やってみないとわからないし、「その人に賭ける」つまりはギャンブル以外の何物でもない。
 私も仕事をする上で、基本は「起業するのが原則」みたいな考え方をしています。労働条件云々は、雇われている人間誰もが考えることだと思います。でも究極は「イヤならやめろ」であり、会社は企業家のものなのです。企業家がいなければ、その会社はないわけであり、企業家が人を雇いたいから、雇っているだけです。好きにして良いのが当たり前だと思います。
 人間関係だとか、瑣末な不公平感で会社を去るのは、私はつまらないことだと思います。仕事は与えてもらうのが当たり前みたいに思っている人がいます。しかも、その量や質に関して、自分のキャパに合ってないと不平を感じる人がいます。価値のある仕事を生み出すのも、その量や質がどれくらいで適切なのかを判断するのも、自分ですべきことだと思います。ただ企業家であれば、その責任を自分で負いますが、社員であれば社内責任を果たすにとどまります。
 ケネディの大統領就任演説で「国から何をしてもらうかを考えるのをやめなさい。国に何をしてやれるかを考えなさい。」というのがあります。国に限らず何にでも当てはまる論理ですし、会社にも当然当てはまります。
 以上は、雇われる側の視点です。

10/12(金)
 なんだか体がこってます。

10/11(木)
 陰陽師をテレビでやってました。私はかなり唯物論でありながら、実は霊魂の存在も否定していません。
 憑依とかは、自己暗示で説明できなくもない。ジキルとハイドのように、人間の無意識下での2面性もありうるわけです。フロイトは精神病の治療法として、抑圧された無意識を催眠により意識に上げるという方法を取っていました。幼少の頃の悲惨な体験を抑圧していて、その抑圧が度を越えていると何らかの精神病として発現してくるわけです。催眠によって思い出し自覚することによって、精神病としての症状はなくなるわけです。また、原因不明の不治の病で寝たきりだった娘が、看病疲れで母親が死んだとたんに、床を抜け出し元気になったという症例もあったようです。これも母親にかまっていて欲しいという無意識がさせたことですが、娘に自覚症状はないのです。症状が目立つと「病気」となるわけですが、私たちは多かれ少なかれ無意識によって相当影響されていると思います。
 話がそれてしまいましたが、霊体験の多くは本当の霊ではなく自己暗示だと思うのです。しかし、本物の霊も存在するのではないかとも思うわけです。

                  

10/10(水)
 ボサボサだった髪を切りました。いつものように爆睡、とはいかず、今日は仮眠程度でした。散髪に行って眠らない時はありませんが、なぜ床屋での寝起きはあんなに体が凝るのか、いつも不思議です。椅子のせいか、または、髪を切らせるので無意識のうちにも姿勢を保つために筋肉に妙な緊張を強いているのかもしれません。

10/9(火)
 またもや、気が緩んで小タクシーとなりました。小タクシーの時は、蕨まで電車で来てそこからタクシーに乗るのですが、蕨駅前で「バリューセット」を食べるのが私の習慣となっています。初めて「バリューセット」を見た時は笑ってしまったのですが、ここはうどんと牛丼を売っている「中卯」というチェーン店です。うどんと牛丼のセットを「バリューセット」と名づけているのです。おそらく吉野屋が値下げを決行した頃に始めた新商品?です。チェーン店ですから、きっと本部かどこかで商品名を決める会議か何かをしたことでしょう。どんな話し合いがされたのか、まったく想像できませんが、「バリューセット」を決定としてしまうのは、シャレ心があるというか何というか、笑ってしまいます。

10/8(祝)
 予想以上に疲労が大きく、今日は1日ボーっとしていました。

10/7(日)
 紅葉狩りに日光へ行ってきました。予想以上の渋滞に巻きこまれ、紅葉まっさかりのハズの現場に着いたのは夜でした。写真は渋滞中の車窓からとらえた秋のヒトコマです。人が集まるだろうなあ、とは思っていましたが、あんなに来ているなんて! 「連休+紅葉=日光」など、関東中の人の発想です。少しは外してくれればいいのに! 渋滞を承知の上でやってきているとしか思えません。「嫌いなものは?」の質問に、私は子供の頃から「ホコリと行列!」とためらいなく答えています。大人となって行列への忍耐力は少しは強化されましたが、とにかく子供の頃は待つのが大嫌いでした。せっかちで、待つ時間が無駄に思えてしょうがなかったんです。
 壮大な紅葉景色は逃しましたが、道端に小さな秋を見つけたので「ミッションクリア」です。日光まで行った、また、おいしいヤマメも食べたので、合格点です。
 ということを書きこんでいるうちに、私の背後ではテレビがアメリカ報復開始を伝えています。空爆を開始し、山岳部隊を送りこんだようです。

10/4(木)
 昼に起き、洗濯やらアイロンやら片付け、久々にステッパーを踏みました。最近は1日1食に短眠が続いていましたので、体の奥から不健康がにじみ出ている感覚です。
 だいぶ以前、朝方に床についた時、ふと「死」のことを考えたのを思い出しました。あまりにもゾッとしたので今でも覚えているのですが、とても孤独で想像するのも恐ろしい感覚にとらわれました。「死」というのはあまりにも非日常的ですが、仕事だの生活だの、普段あれこれ考えていることをすべて吹き飛ばす程の出来事です。シャレにならない程窮地に陥った時は「死ぬことはない」と開き直りで自分を落ち着かせたものですが、「死」そのものを考えると何ともゾッとします。
 小学生の低学年だった頃、家に帰ると兄姉が泣いているのです。「どうしたの?」と聞くと「お前、死んじゃうんだぞ。みんな、いつか死んじゃうんだぞ。」と兄が言うのです。どういう経緯でそういう話題になったのか、わかりませんが、母が兄姉に説明をして二人はショックを受けているようでした。その時の私のリアクションはキョトンとして(そんなの当たり前じゃん)というものでした。「お前、平気なのか? 死んじゃうんだぞ」兄は私のリアクションに不満のようでしたが、そんなことより自分の気持ちに整理をつけられずに泣き続けていました。姉は横の方で私のことなんか構ってられずに泣き続けています。2人がなぜあそこまで平常心を失っていたのか、私には今だ理解できないでいるのですが、それはさておき、小学生である自分にとって、あまりにも遠い話なので現実味のあるリアルな想像はできなかったのでしょう。「死」について考え始めるとよく思い起こす場面です。
 キリスト教では死後の世界があると信じているようです。死後の世界を本当に信じているならば、死ぬことは恐くもなんともなくなってきます。でも裏返せば、死への恐怖があるからこそ、死後の世界を信じようとしているのです。私はかなり唯物論ですから、死んだら魂も何も残らないと思っています。きっと夢を見ずに寝ているのと同じような状態なんだろうと思います。
 シャケは産卵をしたら死んでしまいます。あれだけ体をボロボロにしながら生まれ故郷に戻って行くわけですから、産卵への欲望と言うか動機の強さは、死への恐怖なんて問題にならないくらい強いのです。それを考えると、人間も子孫を残すことへの欲望の方が生への欲望よりも強いのかもしれません。死を考えると、必ず孤独への恐怖がつきまといます。女房や子供や孫に囲まれた状態になると、死に対する姿勢はだいぶ変わったものになるのかもしれないと思っています。

10/3(水)
 眠い! つい、気が緩んで朝の4時まで働いてしまいました。反省です。
 昨夜は、接待ではないんですが、業者の方とささやかな飲み会を催しました。「催した」と言っても私が主催したわけではなく、私は引っ張られて(仕事をぶん投げて)ノコノコついていったという風情でしたが、今だどういう趣旨の集まりだったのか、わかっていません。途中までは、ある程度気を使っていたのですが、どこらへんからか、ただ楽しくしゃべっているという状況でした。結局ごちそうになりました。

10/2(火)
 昨日の日記もそうですが、今年になっての私の日記発言は、なかなかの高ピー度でありタイトルの趣旨にかなってきていると満足しています。理想は高いので、行動が伴わずに苦しいことが多いのですが、そのへんが自虐的であると言えるとともに、自己に厳しく課題に事欠かないので、逆に楽しいわけです。目指すところを下げる、または特にどこを目指すわけでもないというのも、それはそれで行き方でしょう。でも、仕事だろうが趣味だろうが、克服してやろうという課題があるからこそ楽しくなってくると思うのです。

10/1(月)
 夜にちょっと持ちあがって終電飛ばしとなりました。本日は結局1食だけです。しかもタンメン単品です。こりゃあ、いけません。
 昨年、ある教室責任者に業務の依頼をした時に「そこで働くと今月休みが1日もなくなるから勘弁して欲しい」という返答がありました。その時私はキョトンとしたのです。月に休みが1日もないということは、その時の私にとってまったく何でもないことであり、事実私も1ヶ月以上休んでなかったのです。いつが休日で、設定が何時から何時までとか、そんなことは気にする必要のない出勤ぶりだったのです。朝一番に出社し、夜は一番最後に退社する。とにかく「いかに大問題を起こさず、無事に業務を終了させるか」のみに集中していました。
 私がミスると全社的に打撃がある、あと20分以内にこれを片付けて、45分後までにはあれを片付けないとミスる。そんなのがゴロゴロあったのです。1教室の単位ではありませんから、プレッシャーの度合いが違うのです。普段は平然とやってますが、YT採点を1日ヘマしただけで大問題です。合格チラシ1行を間違えただけで裁判沙汰まで発展しうるのです。何があってもミスるはずがない、という完璧さが求めらます。
 「頼んだし約束したから出来ているハズ」ではアマアマです。「あの人に、あれくらいの強さで念を押したけど、今あの人はああいう状況だから、トバす確率は30%」という見切りのもとに行動するのが普通です。当然トバされた後の行動は予定のうちです。トバされて本当に感情的になっているのは「甘い」の一言です。感情的になっている「フリ」をするのは、「あり」だと思いますが。ここらへんは授業と何ら変わりはありません。
 人のミスは当たり前であり、そのミスをフォローした上で、最終的にミスなく終えるのが仕事です。慎重になりすぎても時間の無駄であり、他の業務に支障が出てきますので、どれくらいまで切り捨てるも決めておかないと、どこか他で問題が生じてきます。これも授業と変わりありません。あとは自分がどこまでやるか、気力体力との相談です。
 そこらへんも含めて、より美しく事を進めていきたいと思っています。去年に比べれば、休日はかなり確保できていますし、かなり美しくなっているのではないかと思います。