要塞化歴史都市ハラール・ジュゴル Harar Jugol, the fortified historical town
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| 遺産略説(執筆:収斂さん) ハラール(Harar)はときどき “Harrar” “Harer” と記述されることもあるエチオピアの歴史都市で、 首都アディス・アベバ(Addis Ababa)から500キロメートル離れたエチオピア東部にある。 ハラールは標高1800メートル以上の高地にあり、 古くからこの地方の商業の中心だった。 また、エチオピアを経由しアラビア半島とアフリカ東端部の “アフリカの角(the Horn of Africa)”地域を結ぶ隊商ルートにも位置していた。 なお、この街は古くから「都市」(the City) を意味する言葉として “Gey” という言葉が使われてきた。 ハラールが建設されたのは7世紀から11世紀の間だといわれているが詳細は不明である。 というのも街の歴史を示す文献資料が乏しく、 最初に資料に登場するのはイスラム教の布教の度合いを記述した外国の文献だからである。 この資料中でハラールはアフリカ東端部のイスラム勢力の中心と記述されている。 なお、当時のハラールはまだエチオピアに服属せず独立を保っていた。 1520年にはイスラム教主体の国家の首都にもなっている。 16世紀に “Gragn the Left-handed” としても知られる Ahmad ibn Ibrihim al-Ghazi は、 周辺のアビシニア・キリスト教徒帝国(the Abyssinian Christian Empire)に対して戦争を行った。 そして彼の後継者で首長でもあった Nur ibn-Mujahid は、 首都ハラールの周囲を5つの城門を備えた高さ4メートルの城壁で取り囲み、 強力な城塞都市に改造した。 この城壁はジュゴル(Jugol)と呼ばれ、 今でも現存し街のシンボルになっている。 この壁が建設された16世紀がハラールの最盛期であった。 現在のエチオピアでもハラールは地方色豊かな独特の文化が多い場所とされている。 当時、ハラールには、詩人など文化人が多く住んでおり、 そうした詩や文学は今でも伝わっている。 ハラールは19世紀までなんとか独立を維持したものの、 1875年にエジプトに征服された。 10年後の1885年になんとか再度独立を果たすもわずか2年後に、 今度はキリスト教徒エチオピア帝国(the Christian Ethiopian Empire)のメネリク2世(Menelik II)に支配される。 その結果、ハラールの住民は、キリスト教徒、イスラム教徒、 さらには出身部族ごとのいくつかのグループに分かれて暮らすようになった。 そうした中でHarariという勢力が台頭してくる。 Harariとは、自分達を Gey Usu、つまり街の人(People of the City)と呼んだSemitic人のことで、 もともとはアラビア半島南部からアフリカに移住してきた人々のことである。 現在でもハラールの街ではHarariの影響が大きい。 なおHarariの言語はもともとはアラビア語に準拠したものと考えられているが、 近年になってアルファベット表記に変わりつつあるという。 |