ヤロスラヴリ市街の歴史地区
Historical Centre of the City of Yaroslavl


国名 - ロシア
分類 - 文化遺産
所在地 - 首都モスクワの北東およそ250km



審議年と結果
2004年 審議延期 ・・・2003年の時点で申請内容が不完全であるとされ、2004年の委員会では審議が見送られた。この時の推薦名はヤロスラヴリ市街の歴史地区/ロストフ城塞City of Yaroslavl city historical Centre / Rostov Kremlin)だった。
2005年 世界遺産登録!!


 



画像提供:漣さん
   
遺産略説(執筆:収斂さん)
  ロシアの精神文化や建築、 装飾、 芸術などの根源的文化遺産が残る歴史都市を賞讃する言葉として「黄金の環」という称号がある。 これはロシアがまだ小さな都市国家の集合体であったとき、 首都であった都市の多くが現在のモスクワ市周辺に集中しており、 こうした歴史都市を線で結ぶと環状になることから命名された。 この呼称はソビエト政府の観光宣伝用と政治的プロパガンダとして1974年から利用されたことに始まるが、 今でも観光キャッチフレーズとして多用されている。 主な「黄金の環」はキエフ、プスコーフ、モスクワ、ノヴゴロド、ウラジミール、 ロストーフ、スーズダリ、ニージュニー・ノヴゴロド、カザン、 それに、ロシアではないが、 文化的影響の大きかったコンスタンティノープルやヘルシンキも含まれる。 「黄金の環」都市には世界遺産になっている都市が多く、 今後も多くの都市が登録されるであろう。 ヤロスラーヴリやロストーフもこうした「黄金の環」の呼称を冠する歴史文化都市の一つである。


ヤロスラーヴリ歴史地区(Historical Center of Yaroslavl)
  ヤロスラーヴリの街の起源は、
ロストーフにいたキエフ公国の大公ヤロスラーフ賢公(978?〜1054)によって、 11世紀初頭に街が建設されたことに始まると考えられている。 なお、このヤロスラーフ賢公は、キリスト教を積極的に布教し、 キエフ・ルーシ時代の最盛期を築いたことでも知られる。
  13世紀になるとヤロスラーヴリはロストーフ・スーズダリ大公国最大の都市となる。
そして1218年にヤロスラーヴリ公国の首都として独立する。 しかし間もなくタタール人(モンゴル帝国)が侵入し、 およそ150年間、タタール人に支配される。 タタール人支配時代を「タタールのくびき」といい、 タタール人に対するしこりは今でも続いている。
  やがて1463年、
有名無実化していたヤロスラーヴリ公国はモスクワ大公国に自ら併合されることを希望し、 ヤロスラーヴリは一地方都市になり下がるが、 ちょうどそのころ周辺の強敵だったカザン・ハン国や アストラハン・ハン国が相次いで滅亡したことでボルガ川の交易利権を獲得し、 街は再び発展することになった。 1612年にモスクワがポーランド公国に支配された時期は、 このヤロスラーヴリが臨時首都として機能したりもした。
  その後、
ヤロスラーヴリはロシア有数の大都市として発展し、 19世紀中頃からはロシア有数の重工業都市としても発展し今に至っている。 また景観保護も活発で、 調和の取れた街並みが多く残っている。


ロストーフ城塞(ロストーフのクレムリン)(Rostov Kremlin)
  ロストーフが歴史書に最初に登場するのは862年で、
13世紀にはロストーフ公国の首都として、 タタール支配後の15世紀後半から17世紀にかけて最盛期を迎える。 ロストーフ様式という新しい建築様式が生まれたのもこの時期である。 17世紀に建設されたロストーフ城塞、 すなわちロストーフのクレムリンは、 当時ロシアで最大の城塞(クレムリン)であった。 この城塞の特徴は、 角に塔を持つ高い城壁で囲まれた空間の中央に中庭を配置し、 これを取り囲むように重要建築を配置し、 それらを回廊でつないでいることだ。 中庭周囲の主な重要建築としては、 17世紀に建設された鐘楼、 1698年建設の聖母オディギトリア教会、 1670年建設のヴォスクレセンスカヤ教会、 赤の邸宅、 ヨアン・ボゴスローフ礼拝堂、 そして宝座上救世主教会と白の邸宅、 サムイロフ棟が挙げられる。 ただし同じくらい重要な建築であるウスペンスキー聖堂(16世紀建設)が府主教区の外に置かれているのは面白いとされる。





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