ローマ帝国の国境線 Frontiers of the Roman Empire ※世界遺産「ローマ帝国の国境線」は、1987年登録の連合王国側「ハドリアヌスの城壁」と、2005年に追加登録されたドイツ側「リーメス」からなります。本稿はそのうち「リーメス」に関する説明です
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| 遺産略説(執筆:収斂さん、好古学のすすめさん(BBSの投稿をもとに収斂さんが執筆)) リーメスとは、紀元1世紀末にローマ皇帝ドミチアヌス帝が築造を始めた長城遺跡で、 東はドナウ河畔のレーゲンスブルグ上流から、 西はライン河畔のコブレンツまでの全長584キロにも及ぶ長大なものである。 「ヨーロッパの万里の長城」ともいえるこの国境防衛施設は、 五賢帝のトラヤヌス帝とハドリアヌス帝の時代にさらに強化され、 160年ごろアントニヌス・ピウス帝の時代に完成した。 現在では、ロマンチック街道沿いにある街ディンケルスヴュールの東南7キロの一帯に、 結構保存状態がよく残っている。 なお日本語ではリーメスではなく、リメスと発音する人もいる。 もともとリーメスの建設の動機は、 紀元9年のトイトブルグの森の戦いでローマ軍がゲルマン人に大敗したことによる。 この戦いでウァールスを司令官とするローマ帝国軍第17、18、19の3軍団が、 アルミニウスに率いられるゲルマン人に全滅させられた。 この敗北はローマ帝国最初の大敗北であり、 以後のローマ帝国の軍団番号でそれらの番号が欠番になったという逸話さえ残っている。 なおゲルマン人についての記述は、 カエサルの書いた「ガリア戦記」や、 タキトゥスの「ゲルマニア」に詳しい。 ゲルマン人の名は、 今のドイツやフランス北部をローマ人がゲルマニアという呼称で呼んだためで、 実際には数十の部族を指す。 ゲルマン人は体格がローマ人よりはるかに大きくて、 一対一の戦いになったらローマ兵に負けなかったと言われている。 トイトブルグの森の戦い以後、 ローマ帝国は軍を数回ゲルマニア地方に侵攻させているが、 いずれもライン川〜ドナウ川の川を国境とし、 沿線に8万の軍を駐留させた。 このときの駐留地点だった場所から、 後のマインツやボン、ケルン、コブレンツといった都市に成長したものも少なくない。 しかし紀元260年ごろになるとローマ帝国も弱体化し、 ゲルマン民族一派のアレマン族の進入によってリーメスの防衛線は崩壊し、 以後ローマ帝国領はドナウ川上流とライン川を結ぶ線辺りまで後退してしまう。 またローマ帝国滅亡後は、 このリーメスの存在自体が人々の記憶から忘れ去られ、 中世にもなると、地元の人はこの土塁を「悪魔の城壁」というあだ名で呼んだ。 この言葉は今でも使われている。 リーメスの構造は、 空掘を掘ってその土を土塁として積み上げたもので、 土塁の上には木柵があった。 そしてローマ軍駐留部隊は適当な距離を置いて国境を防衛した。 こうした遺構は近年ザールブルグという街で復元されている。 ここにはローマ時代の城塞を完全に復元した遺構や浴場遺跡、 古代の発掘品を納めた博物館があることで有名である。 現在、 バーデン・ビュルテンブルク、バイエルン、ヘッセン、ラインラント・ファルツの4州が 2000年3月からリーメスの世界遺産化に取り組んでいる。 長大な遺跡であるため、保存上の困難が山積しているが、 世界遺産登録はほぼ間違いないであろう。
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