香の道/ネゲヴの砂漠都市群
Incense Route / Desert Cities in the Negev


国名 イスラエル
分類 文化遺産
所在地 イスラエル南部



審議年と結果
2004年 審議延期 ・・・遺跡全体のための考古学的な計画、的確な調査、非破壊記録、安定化と修復の研究方法などを定めるように求められた。またこの時の推薦名はネゲヴの香と香料の道ならびに砂漠都市群The Incense and Spice Route and the Desert Cities in the Negev)だった。
2005年 世界遺産登録!!


遺産略説(執筆:収斂さん、好古学のすすめさん)
  ネゲヴ(Negev)はイスラエルの南部地方を指す。 現在の年間降水量はたった100〜300mmの乾燥した地域で、 聖書時代はともかく、 中世以降は遊牧民が放牧生活などをして暮らしてきた。 現在このネゲヴにはベドウィンと呼ばれるアラブ系の遊牧民が暮らしているが、 開拓という名のユダヤ人入植地も多く建設されている。 ネゲヴの土壌はもともと多くの塩分を含むため、 生育できる植物は限られており、 聖書にも記されているアカシアやギョリュウ(Tamarix:ギョリュウ科ギョリュウ属で、 邦語ではそのままタマリスクともいう。 世界では54種類あるがパレスチナには7種類のタマリスクがある) くらいしか育たない。 またネゲヴの土壌はチョーク質なので、 水が土に沁み込む速さが極めて遅く、 雨季にはちょっとした雨でも簡単に洪水を引き起こす。 聖書にもこの「ネゲヴの洪水」を扱ったものがある。

  ネゲヴは旧約聖書の中でもたびたび登場する地名である。 最初に登場するのはハランに住むアブラハム一族が神のお告げでハランを出てネゲヴを訪れたものの、 そこで飢饉にあい、 苦労してシケム、ゾアン、ベエルシバに移ったという内容で、 これについては旧約聖書の「創世記」に詳しく書かれている。 ちなみにアブラハムはユダヤ教の神を「天地創造の唯一絶対神」と定義し、 ユダヤ教の基礎を打ち立てたことで知られている。 彼が神の啓示を受けるまで暮らしていたというハランは現在のトルコのハルランで、 今となっては遺跡らしいものは何も無い荒涼とした砂漠であるが、 当時は月神シンを崇拝する神殿があったという。 アブラハムの父は、 現在のイラクのウル(世界遺産ではないが、 今後の登録はほぼ確実)の「ユーフラテス川の向こう」の出身で、 この月神シンの神殿の神官であった。 シケムは「樫の木の廃墟」という意味で、 エベル山の西に位置し、 当時、「カナンの国」の中心地であったと考えられている場所である。 シケムからは紀元前4000年頃の村の跡が発見されており、 紀元前18世紀のアモリ人の神殿遺構も見つかっている。 アブラハムが訪れたという「シケムの所」(創世記12・6)はこの神殿であったと考えてほぼ間違いない。 ゾアンはエジプトのヒクソス王朝の首都で、 ベエルシバは以下に記す。


ベエルシバ
  ベエルシバはヘブライ語でベエルシェバともいい、
ベエルは「井戸」、 シバは「誓い」または「七」を意味する。 旧約聖書の創世記ではアブラハムはベエルシバでネゲヴの民と契約を結び、 ギョリュウを植え、 七つの井戸を掘ったという。 ベエルシバはヘブロンからエジプトへの交易路と、 アラバから地中海沿岸への通路の交差する要衝で、 聖書時代からビザンチン時代まで栄えていたが、 十字軍遠征で壊滅し、 1948年にイスラエルが建国されるまで人が住めない砂漠の荒野だった。 この街が再建されるきっかけは、 テルアビブ大学の調査隊が聖書時代の城壁と、 深さ40メートルの井戸を発見したからである。 聖書の記述通りに井戸が見つかったことは、 当時大きな反響を巻き起こした。 これまでの調査で、 この井戸の年代は紀元前12世紀とされている。 井戸の発見以降、 多くのユダヤ人入植者がベエルシバの街の再建に取り組み、 現在では人口12万のネゲヴ地方最大の都市になった。 ちなみに街の街路樹はほとんどがギョリュウである。


香と香料の道(Spice and Incense Route)
  世界史で一般的に「香と香料の道」(Spice and Incense Route)といえば、
ローマ人やギリシア人といった地中海沿岸の富裕階級の人々が求めた香料を商人が運んだ道のことを指し、 インド、中国、アラビア半島南部を結ぶ多くの交易路が存在していたが、 「香と香料の道」と言えば、紀元前960〜925年頃に、 アラビア南部のイエメンにあったとされるシバの女王の国から ソロモン王のもとへ黄金と香料が贈られたという記述にもとづく、 伝説的な道が思い当たる。 イスラエルでは、 香は神への捧げ物やなどに使われる貴重な必需品であった。 ただし実際のアラビア半島南部の「香と香料の道」を指す場合、 この道の起点の一つに、 紀元前3世紀から紀元後2世紀に古代ナバテア人(the Nabateans)が建設したペトラ遺跡も含まれている。 そのためネゲヴ地方に限定した「香と香料の道」の世界遺産化は多少無理があると思われる。


ネゲヴの砂漠都市群
  推薦遺産は、
ナバテア人(注)の隊商ルートと隊商都市遺跡で、 次の4つの部分からなる。 1)ペトラから地中海岸のガザまでを結ぶルートのうち、 モア(Moa)からアヴダット(Avdat)までの約50キロ、 2)このルート上でアヴダットより北(ガザ側)にあるハルザ(Haluza)、 3)このルートの西側にあるシヴタ(Shivta)、 4)ぺトラからダマスカスを結ぶルート上にあるマムシット(Mamshit)である。

(注)アラビア北西部にいたアラブ系遊牧民。隊商貿易で財をなし、前2世紀から後1世紀に王国を築いた。その首都ペトラの遺跡は1985年に世界遺産に登録された。

  このうち、
1)のルート上にある砦跡や隊商宿跡などを除き、 比較的規模の大きい都市遺跡について説明することとする。 なお、 都市名は最初に現在のヘブライ語名、 次にビザンティン時代のギリシャ語名の主なものを記す。

(1)アヴダット(Avdat)、オボダ(Oboda)
  現代のベールシェバからエイラート方面に向かう40号線を南に50kmほど行った、
ネゲヴ地方の北部高地と中央高地の間の丘の上にある遺跡。 さらに南に約20km行くと現在のミツペ・ラモンの町がある。
  アヴダットは、
紀元前4世紀に隊商宿として築かれた。 町の名は、 この地に葬られ、 神格化されたナバテア王オボダス3世(Obodas III、在位前30〜前9)にちなむ。 次のアレタス4世(Aretas IV Philodemos、在位:前9〜後40)の時代に一大隊商都市となり、 ローマ時代にも繁栄したが、 4世紀半ばの地震で大きな被害を受けた。 ビザンティン時代にキリスト教都市として最盛期を迎えたが、 631年の地震で破壊されたと考えられている。
  町の北側にはナバテアの寺院が建てられたが、
ビザンティン時代の5世紀に教会に建て替えられた。 6世紀には要塞が建てられた。 町の南側の教会は6世紀のもので、550年から617年の刻文がある。 西側の斜面からは、 約600棟の住居跡が発見されている。
  ナバテアは高度な製陶技術を持っていたことでも知られるが、
この遺跡では窯跡が発見されている。 また、農耕の遺跡も発見されている。 このほかビザンティン時代のぶどう搾り場の跡がある。
  1807年に発見されたが、
最初の発掘調査は1959-61と1975-77のヘブライ大学のA.ネゲヴ(Avraham Negev, 1923-2004)によるものである。 現在は国立公園として整備され、 ガイダンス施設や売店などもある。

(2)ハルザ(Haluza)、エルサ(Elusa)
  現代のベールシェバ市の南方約20km、
222号線沿いのネゲヴ砂漠北西部、 移動砂丘地帯にある。 「アラビアの独裁王」と呼ばれたナバテア初代の王アレタス1世(在位:前169〜前145)のために築かれたことを示す碑文が発見されているが、 出土土器から起源は紀元前4〜3世紀に遡ると考えられ、 紀元前2世紀に都市として発展したのであろう。
  この町の名は、 2世紀のプトレマイオスの「地理学」に記載があるほか、
ローマ時代の道路地図であるポイティンガー図にはエルサレムとエイラートを結ぶ道路沿いに記載されている。 ビザンティン時代には、 ネゲヴ地方の中心としてキリスト教の主教座が置かれ、 またシナイ山への巡礼の宿泊地として栄えた。 マダバのモザイク地図では市壁や塔のある大きな都市として描かれている。 イスラム時代の8世紀に放棄されたと考えられている。
  遺跡の大部分は砂に覆われているが、
これまでにA.ネゲヴによって劇場と教会の一部が発掘されている。 劇場は、ナバテア時代、1世紀後半に建てられ、 少なくとも6世紀頃まで用いられた。 教会は6世紀頃のものである。

(3)マムシット(Mamshit)、マンプシス(Mampsis)
  現代の主要道25号線沿線に1950年代に建設され、 原子力施設で知られる新興都市ディモナ(Dimona)の南東5kmにある。
  この遺跡はアラブ人によってクルヌブ(Kurnub)と呼ばれてきたが、
プトレマイオスの「地理学」ではMaps、 3〜4世紀のエウセビオスの著書やマダバの地図などではMampsisと記載されている。
  マムシットは、
北西にベール・シェバやガザ、 北にヘブロンからエルサレム、 南にエイラートに通じる交通の要衝であった。 交易が衰えたローマ時代には、 アラブ種の馬の飼育で栄えた。 3世紀後半のディオクレティアヌス帝時代に市壁が築かれ、 ビザンティン時代には辺境防備のために維持されていたが、 636年のイスラムの侵攻により放棄された。
  マムシットは規模派大きくないが、
ナバテア時代に遡る遺構が残っている。 ナバテア時代中期の塔が残っているほか、 後期の建物も中期の遺構の上に建てられているものが多い。 2階建、3階建など、優れた建築技術を用いた建物がある。 このほか、隊商宿や浴場、市場、貯水槽、市壁などがある。 ビザンティン時代の4世紀後半には2つの教会が建てられた。 市壁の外にはこの時代の墓地もある。
  このほか、
マムシットの遺跡のある丘の下のワジ(涸れ川)には、 雨期の雨水を利用するために設けられた堰堤(ダム)が残っている。
  マムシットの遺跡は、
1806年にドイツ人のゼーツェン(Ulrich Jasper Seetzen, 1767-1811)が訪れて後、 幾度か踏査が行われてきたが、 本格的な発掘調査は1965-67、71-72年にA.ネゲヴによって行われた。 現在は国立公園として整備され、 遺跡の一部は修復・復元されている。 利便施設としてはレストラン「ドゥシャラ」があり、 イギリス騎馬警察が建てた建物を転用したものである。

(4)シヴタ(Shivta)、ソボタ(Sobota)
  現代の211号線から約8キロ南に離れた場所にある。

  古代においても主要な隊商路から離れており、
交易より農業の比重が高かったようである。
  後に教会に転用された石材にアレタス3世(在位:前87-62)の名が刻まれていることから、
ナバテア時代に築かれた都市であることがわかる。 また、居住区からはナバテア土器が、 市外からはナバテア人の主神ドゥシャラが刻まれた石が発見されている。
  遺跡にはローマ時代の遺構もあるが、
主としてビザンティン時代の遺構が極めて良く残っている。 市壁はないが、 最も外側の建物がいずれも内側を向いており、 防壁の役割を担っていた。 4世紀に市の北部の修道院と南部の教会が建てられ、 5-6世紀に中央にも教会が建てられた。 中央の教会の近くには、H.D.コルトが1934-36年の調査の際 「総督の家」(the Governor's House)と名付けた建物があり、 2階部分が残存している数少ない例である。 修道院付属教会のモザイクの床には、 この建物の建てられた年代(517年)や、 埋葬された修道僧や司祭の名とその年代(679年まで)がしるされている。 南教会の内陣には、モーゼやエリヤやキリストの変容を描いた6世紀の壁画の一部が残っている。
  6世紀のはじめの地震で大きな被害があった。
イスラム時代の9-10世紀の間に放棄されたものと考えられている。
  最近ではA.ネゲヴらによって発掘調査が行われた。
現在は国立公園になっているが、 整備は行われておらず、 入場料も不要である。


  ところでネゲヴでは、
近年の入植者達によって開発された最新の開拓地や実験農場も見られる。 それらは古代の水利技術を利用したものであり、 ネゲヴの特徴的な文化の一例として、 それについても紹介する。
  まずイスラエルの建国の父、
初代首相のダヴィド・ベングリオン(David Ben-Gurion)は、 晩年をネゲヴの緑地化に捧げたことでも有名で、 彼の墓はアヴダット近隣にある。 その緑地化のとき参考にした例が、 先述のとおり紀元前にネゲヴ一帯を支配した古代ナバテア人の灌漑技術であった。 彼らは雨季の氾濫を利用した貯水池や石造りのダムをいくつも建設したことで知られ、 当時の技術をそのまま活かした灌漑技術がいくつも試された。 例えばアヴダットの実験農場(1959年創立)は古代ナバテア人の遺構をそのまま利用している。 また有名なキブツやモシャブといった集団農場も、 ネゲヴを始め国内に数百箇所も建設され、 乾燥地帯でありながら驚くべき生産量を誇っている。 こうした農業技術は世界最高水準であり、 塩害や乾燥地帯での農業への指針を提示している。
  なお「ベングリオンの墓所」と「アヴダットの泉(Ein Avdat)」は国立公園になっている。


本稿にあるうちベールシェバは「聖書のテル群」として、2005年に世界遺産に登録された。





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