オルホン渓谷の文化的景観
Orkhon Valley Cultural Landscape


国名 モンゴル
分類 文化遺産
所在地 首都ウランバートルの西およそ300km



審議年と結果
2003年 審議延期 ・・・委員会は申請物件の境界が明確になるまで、この物件の審議を延期するとした。広範な文化的景観としての提案は、文化的価値だけでなく自然面での保護も必要とする。また委員会は申請国に対し、カラコルムに計画されているビジターセンターに代地を考慮するよう促した。
2004年 世界遺産登録!!


遺産略説(執筆:収斂さん)

  モンゴルは、 社会主義時代の文化財破壊で壊滅的な打撃を受けており、 現在、 寺院の修復作業があちこちで行われている。 そのため、 まとまった文化財が残る場所は少ないのが実情である。 その中でオルホン・セレンゲ両河流域には、 石器時代からモンゴル帝国の時代までのさまざまな歴史的文化財が多くのこり、 モンゴルの中で最も貴重な遺跡が密集している重要な場所である。 このオルホン・セレンゲ両河流域に遺跡が多いのは、 ここが昔から豊かな草原が広がる肥沃な土地だったためである。 そのため北アジアの遊牧民族国家(匈奴、突厥、ウイグル、モンゴル)は必ずここを本拠地とした。 ただしまとまって遺跡があるというよりは、 石碑や石人、 岩壁画といった文化財が点在しているといった感じである。 なおモンゴル帝国首都のカラコルムもこの場所にあるが、 当時の遺構で現存するものはほとんどない。 むしろオルホン・セレンゲ両河流域の遺跡(遺物群)では突厥時代の碑文の方が重要視されている。 なおカラコルムは暫定リストには記載されていないが、 今後単体で世界遺産化される可能性もあるだろう

  カラコルムは「オルホン渓谷の文化的景観」の一部として、世界遺産に登録された

<岩壁画>
  オルホン・セレンゲ両河流域には岩壁画が多く、
その多くが狩猟生活や豊穣を表したと思われる岩壁画である。 古いものは旧石器時代後期まで遡り、 青銅器時代、鉄器時代、突厥(とっけつ、テュルクはトルコの正しい音訳でトルコ族)時代、 ウイグル時代、 モンゴル時代までさまざまである。

<鹿石・石人>
  北アジアの青銅器文化を象徴する遺物で、
長さ1〜4メートルの石を墓石のように立て、 表面に短剣、円紋、帯状紋を彫り込んでいる。 鹿石の名は、 表面にくちばしのような細長い鼻の形の鹿文様が描かれていることから名づけられた。 製作年代は主に突厥からモンゴル帝国までとされる。 現在、 鹿石・石人は草原に点在しており、 充分な保護がされているものは少ない。

<突厥の時代の考古遺跡>
  突厥は552年に柔然を破って興った大遊牧国家で、
第三代ムカンの治世(AC 553-572)において絶頂を迎え、 東は満州・渤海から西は中央アジアのアラル海にまたがる北アジア遊牧民族最初の統一国家を建設した。 しかし6世紀末に内紛が起こり、 隋の文帝はこの内乱を利用して部族同士の離間をはかったので、 583年に突厥は、 モンゴル高原の東突厥と中央アジアの西突厥に分裂した。 そして7世紀半ばには東西の突厥は唐に滅ぼされた。
  突厥は草原のあちこちに碑文を建設した。
初期の代表的な碑文であるブグド碑文(現在この碑文はツェツェルレグの民族学博物館に移管)は、 ソグド文字で書かれており、 突厥に固有の文字が存在しなかったことが判っている。 その後、 突厥は唐から再び分離独立し、 これが第二突厥帝国(682)といわれている。 特にオルホン河流域の遺跡、 遺物の秀作は、 この第二突厥帝国時代のものが多い。 代表的なものはウランバートルの東50キロのところにあるトニュクク遺跡である。 ただし遺跡といっても、 碑文、石人、バルバルという列石が残るだけである。
  オルホン河東支流東岸を40キロ程北上したところにあるホショー・ツァイダム遺跡は、
第二突厥帝国最盛期の王ビルゲ・カガンと、 その弟のキョル・テギンを記念した葬祭遺跡である。 この碑文はホショー・ツァイダム碑文とかオルホン碑文といわれ、 第二突厥帝国時代の碑文としては最高傑作とされている。 そのため1997年からこの碑文を保護する、 日本・モンゴル合同のプロジェクトが開始された。
  すぐ近くのキョル・テギンの記念碑(キョル・テギン遺跡ともいう)は、
東西67m×南北28mで東側に門があり、 そばに石の羊、 石の亀があり、 ほかに石人がいくつか散在している。 この碑文は一面が漢文、 もう一面が突厥語で書かれている。 なお突厥文字は19世紀末にデンマークの言語学者トムセンによって、 北方遊牧民族の最古の文字であることが判明している。 この遺跡には、 東門から真東に直線的に約3000mも続くバルバルも現存しており、 125個の列石が確認されている。
  またキョル・テギンの記念碑から南におよそ800メートルの場所の、
王ビルゲ・カガンの記念碑(ビルゲ・カガン遺跡ともいう)も有名である。 この遺跡も、 東北東に直線的に約3000mも続くバルバル(現存数未確認)と、 廟、石羊、石獅子、石人を有している。 さらにキョル・テギンの記念碑の北にも、 長さ1250m(現存72個の列石を確認)、 700m(現存数未確認)のバルバルが発見されている。
  このようにバルバル、石人、廟こそ第二突厥帝国時代の葬送遺跡の特徴であり、
後のウイグル時代の葬送遺跡ではこの特徴が無くなる。 そのためホショー・ツァイダム遺跡、 およびその周辺の遺跡群は世界遺産登録の可能性が極めて高いと考えられる。 しかし残念なことにこうした遺跡の保存状況はひどく、 早急な修復が必要とされている。

<ウイグル時代の考古遺跡>
  ウイグルは、
第二突厥帝国のビルゲ・カガンが没した10年後の744年に、 第二突厥帝国の部族の中から誕生した遊牧国家で、 草原の各地に石碑を建設したが、 葬送儀礼は第二突厥帝国と全く異なっている。 このウイグル王朝の文化的特徴は、 北〜中央アジアの遊牧国家の中で最初の都城を建設したことで知られている。 例えばセレンゲ河畔のボイ・バリク遺跡、 オルホン河西岸のカラ・バルガスン遺跡、 ホショー・ツァイダム遺跡とオルホン河を挟んだ対岸にあるオルドゥ・バリク遺跡が有名である。 ただカラ・バルガスン遺跡もオルドゥ・バリク遺跡(420m×340m)も、 現在は崩れ落ちて土塁だけのようになった城壁が草原に残っているだけである。 本格的な調査もまだされていないようで、 突厥文字ウイグル語、 ソグド文字ソグド語、 漢字漢文の3言語で書かれた石碑(カラ・バルガスン碑文)が発見されているくらいである。

<カラコルム>
  カラコルムは1235年にモンゴル帝国第二代皇帝オゴデイが、
オルホン河に建設したモンゴル帝国最初の首都である。 遺構は南北1500m、 東西1000mもあるが、 現在この場所には当時の面影を伝える遺物はほとんど残っていない。 唯一残るモンゴル時代の遺物では4つの亀石が有名である。 そのうち一つは未完成品であるが、 もともとこの亀石はその上に碑文を立てる台座として作られたものだった。 現在ではこの亀石が信仰の対象になっているという。
  カラコルムには有名なチベット仏教寺院エルデニ・ゾーがあることで有名である。
エルデニ・ゾーは石の城壁の上に108基の仏塔を有する寺院で、 16世紀に建設された。 そのときモンゴル時代の石碑の多くが堂宇の礎石に利用されたことが最近の調査で判明し、 寺院の礎石を本格的に調査すると貴重な発見が多くあるだろうと期待されている。 実際、 ペルシャ語の碑文なども見つかっている。 カラコルムは、 クビライが首都を大都に遷都した後も、 14世紀半ばまでは繁栄した。





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