高句麗古墳群 Complex of Koguryo Tombs
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| 遺産詳説(執筆:収斂さん) 朝鮮に現存する最古の公式な歴史書である「三国史記」(1145年)によれば、 高句麗は、 紀元前1世紀頃に現在の中国遼寧省桓仁県に最初に都を置いたことが記されている。 さらに「三国史記」によれば、 高句麗は3世紀に現在の中国吉林省の集安に、 国内城という都を作り、 平壌に置かれていた漢の楽浪郡を313年に滅亡させ、 現在のソウル近郊まで領土を広げ、 427年に平壌に遷都したとも記している。 その後586年に、 高句麗の首都が平壌城から同じ平壌城近くの長安城へ遷都するのだが、 唐と新羅の連合軍によって668年に攻められて滅亡するまで、 平壌は高句麗の都として栄えた。 平壌にはこうした高句麗王朝時代の遺跡が数多く点在しており、 高句麗壁画古墳とは別件で世界遺産運動が進められている。 注)三国史記はもともと新羅の歴史書なので、 新羅を三国では最古の国として記述しているが、 この点は信憑性を疑問視されている。 一般に高句麗の古墳といえば壁画古墳が最も有名であるが、 このタイプの古墳が登場するのは4世紀中頃であって、 その前までは積石塚とよばれる古墳が一般的であった。 また壁画古墳はあくまで石室をもった古墳の一つの形態にすぎないのであって、 横穴式石室を有する古墳全体を指して、 封土墳という分類が用いられている。 封土墳の名は石室の上を土で覆っていることに由来し、 玄室や羨道の有無等の形態によって5〜6種程度に細かく分類されている。 注)この分類方法は、 韓国・朝鮮の考古学上での分類方法であって日本や中国の古墳とは異なる分類方法である。 壁画古墳の出現は、 安岳3号墳からといわれている。 この古墳は最初期の高句麗壁画古墳としてあまりに有名で、 歴史的にも芸術的にもその意義は大きい。 こうした初期の高句麗壁画古墳は中国のものと極めてよく似ており、 中国の影響の大きさが判る。 それは当時、 中国(晋)で王朝が滅亡し、 大小さまざまな小国が中国全土を割拠した時代であったからで、 そうした混乱を避けて高句麗に逃れてきた漢人らによって高句麗壁画古墳が築かれたと考えるのが一般的である。 実際、 中国では前漢時代から無数の壁画墓(壁画古墳に相当するが規模ははるかに大きい)が造営されてきた。 つまり初期の壁画古墳の被葬者は漢人系の貴族であるというのが通説である。 だから最初期の壁画古墳には、 高句麗壁画古墳の特徴ともいうべき四神図(朱雀・青龍・白虎・玄武)はまだ存在せず、 四神図が最初に登場するのは4世紀後半の遼東城塚麻線1号墳からである。 そして四神図が普及するのは5世紀から、 壁画の中心的画題にまで発展するのは6世紀からである。 ちなみに壁画に四神図のみが大きく描かれるのは、 江西大墓のような7世紀前半の古墳であって、 これは時代としてみれば高句麗王朝末期にあたる。 このように四神図の大きさや描かれ方によって、 その古墳の築造年代がおおよそ識別できる。 注)集安には広開土王の碑文(好太王碑文)があることであまりにも有名である。 広開土王治世下(広開土王:高句麗の第19代王(在位391〜412年))において高句麗は最も強盛を誇り、 領土が最大になった。 集安は現在では中国領であるが、 北朝鮮領とは国境の鴨緑江を挟んで数キロしか離れておらず、 もしここが北朝鮮領土であったなら、 間違いなく集安を世界遺産に登録する運動が起きていたであろう。 付け加えるならば、 韓国政府による積極的な整備がなされる前の慶州の遺跡は、 そのほとんどが崩壊寸前であった。 だから現在の集安の遺跡のほとんどが瓦礫の状態で放置されているとしても、 きちんと整備をすれば、 見違えるくらいすばらしい遺跡遺産都市になるであろう。 集安が慶州に匹敵する歴史都市であることは間違いない。 そのほか、 広開土王の碑文の内容によれば、 当時、 倭国が朝鮮半島南部で新羅や高句麗とたびたび交戦したことが克明に記されているが、 反日感情が加わって、 これは旧日本陸軍の捏造ではないかという説が30年くらい前から叫ばれている。 しかし三国史記、日本書紀、広開土王の碑文には、 共通した歴史事実を記述したと思われる事例があまりに多いのは事実である。 立場も書かれた年代も全く違うのに記述が偶然一致するとも思えないので、 早急に調査をし、 正しい歴史認識を共有することが必要であろう。 事実、 広開土王の碑文は表面の劣化が深刻で、 保存対策の必要性が叫ばれている。 <主な壁画古墳による築造年代と変遷> 4世紀中頃:安岳3号墳 4世紀後半:遼東城塚麻線1号墳、山城下322号墳 5世紀前半:徳興里古墳、薬水里古墳、将軍塚1号墳 5世紀中頃:舞踊塚、角抵塚、長川1号墳 5世紀後半:双楹塚、天王地塚、三室塚 6世紀:五かい塚4号墳、五かい塚5号墳、真坡里9号墳(旧真坡里1号墳)、通溝四神塚 6世紀後半〜7世紀前半:湖南里四神塚、江西大墓、江西中墓、高山洞1号墳、高山洞9号墳、内里1号墳 <主な壁画古墳の略説> 安岳3号墳 高句麗壁画古墳の最初期の壁画古墳であり、 最も重要な古墳として位置付けられている。 この古墳の大きさは一辺33m、 高さ6mの方墳(方台形墳丘)で、 羨道、羨室、前室、後室が直線的に並び、 南に入り口がある。 1949年の発掘当時、 黒漆の木棺が4つ発見されたので、 被葬者は4人いたと考えられている。 この古墳は平壌近郊に築かれているが、 築造当時はまだ高句麗が楽浪郡を中国から奪回して間もない時期であった。 また初期の封土墳の多くが、 当時首都であった集安に集中していることを考えると、 なぜ最古級の壁画古墳が平壌近郊に築かれたのかについては興味深い問題である。 高句麗壁画古墳のうち、 被葬者の名前や築造年代が記されているものはそれほど多くない。 安岳3号墳には、 前室西壁に7行68文字の墓誌が記されている。 それによると357年に冬寿という人物が69歳で死去したことを伝えている。 この冬寿という人物について、 文中で用いられている年号は東晋の年号であること、 また中国の歴史書の資治通鑑によれば、 336年に遼東からトウ寿(トウは「にんべん」に「冬」)という人物が高句麗に亡命したことなどが判明しており、 亡命年と没年が近いことなどを考えると、 この安岳3号墳の被葬者の冬寿は、 ほぼ間違いなくトウ寿であり、 ほかの被葬者はトウ寿の親族であると考えられている。 安岳3号墳の被葬者を王族と考える説もあるが、 もしそうなら王陵は当然、 集安に築かれねばならないので、 被葬者は王族でないことはほぼ間違いない。 古墳には、 西側の側室に幔幕中に座っている被葬者、 即ちトウ寿と思われる男子が大きく描かれ、 側室南壁には彼の夫人が描かれている。 側室に墓主が描かれている点など考えても、 この安岳3号墳の被葬者が王なんかではないことは容易に推測できる。 この古墳には華麗な壁画があり、 前室に鼓笛男子像・舞踊女子像・角抵(相撲)をする人物像が、 東側室には車・小屋・厨房・井戸・召使達の調理風景が描かれている。 また東側回廊から北側回廊にかけて250人以上の人物が描かれた行進図がある。 この行進図は数ある高句麗古墳の壁画の中でも屈指の傑作である。 行進は、 墓主の乗った牛車を中心に、 多くの騎馬隊が取り囲み、 さらに鼓笛隊、 甲冑で重装した歩兵達など、 当時の様子が極めて克明に、 写実的に描かれている。 また後室と西側室には蓮花文も描かれている。 こういった安岳3号墳の壁画部分の面積は81平方メートルにもなり、 高句麗古墳中最大である。 ただし、 のちの高句麗壁画古墳で一般化する四神図は全く描かれていない。 それから、 安岳3号墳の近くには安岳1号墳、 安岳2号墳もあり、 共に壁画や人物像で有名である。 安岳1号墳は4世紀末、 安岳2号墳は5世紀末の古墳と考えられており、 安岳3号墳とは直接の関係はなさそうである。 注)北朝鮮の考古学者は、 安岳3号墳を高句麗故国原王の王陵であると主張しており、 これは韓国、中国、日本が考える説とは大きく異なっている。 しかし壁画における墓主の描かれた位置や状況証拠、 考古資料、 歴史書などを総合的に判断すると、 安岳3号墳の墓主は高句麗に亡命した漢人貴族のトウ寿であると考えてほぼ間違いない。 |
徳興里古墳 徳興里古墳は平壌の西南20kmの南浦市江西区域徳興里の丘陵地にあり、 1976年に発見された。 この古墳は、 墓主の名前が墨書された数少ない古墳で、 安岳3号墳とともに被葬者の特定が可能な古墳として極めて貴重である。 また古墳の構造も独特で、 天井が5〜6段の多層持送を有する穹窿天井という古い形態をしており、 そのような部屋が複数あって、 通路で連結されている。 そして天井を含め内面全体に漆喰を塗り、 その上に精緻な壁画を施している。 古墳後室北壁と前室北壁西側には、 幔幕中に座っている被葬者と思われる男子が描かれており、 通路入り口の上方に14行154文字の墓誌が記されている。 この墓誌によれば、 被葬者は幽州刺史の鎮という漢人系の人物で、 409年に77歳で没したことを伝えている。 また鎮は釈迦文佛の弟子とも記されており、 仏教が既にこの一帯に普及していたことを裏付ける貴重な考古資料とされている。 そのほかにも壁画の内容は多彩ですばらしい。 後室の四面には墓主のほかに馬射戯図、高床倉庫、蓮花文、七宝行事図で埋め尽くされており、 天井には星宿図が描かれ、 また彩色された火炎文や蓮花文が周囲を飾っている。 また前室にも墓主像のほかに13郡太守図、 鎮の家臣図があり、 それぞれに官職名が記されている。 ほかにも騎馬行列図も描かれている。 また、後室と前室には四隅などに柱や梁を壁画で描いており、 古墳を小さな宮殿として扱っていたことが推察できる華麗な古墳である。 遼東城塚麻線1号墳・長川1号墳 高句麗古墳では、 四神図は最初、天井などに小さく描かれる。 それがやがて壁に描かれるようになり、 次第に墓主と同じくらいの大きさで強調して描かれるようになる。 そして後期の壁画古墳では墓主や人物像は描かれなくなり、 四神図のみが描かれるようになる。 四神図が最初に登場するのは遼東城塚麻線1号墳からである。 この壁画古墳の築造年代は4世紀後半〜4世紀末と考えられている。 ただし遼東城塚の四神図には朱雀が欠けていた。 四神図の壁画で、 四神が全て揃うのは長川1号墳からである。 長川1号墳は5世紀中頃の壁画古墳と考えられている。 遼東城塚麻線1号墳も長川1号墳も四神図が描かれた最初期の古墳であるため、 まだ四神図は隅に小さく描かれているに過ぎない。 しかしこれは美術史上画期的なことであることは確かである。 将軍塚1号墳 高句麗が最初に都を置いたとされる卒本は、 現在の中国遼寧省桓仁県と考えられており、 高句麗王朝初期の遺跡が多く残っている。 そうした遺跡の中には古墳も多く、 高力墓子古墳群や米倉溝古墳群には、 基壇石槨積石塚から封土墳までの多様な古墳が集中している。 こうした古墳の中に壁画古墳が1基だけ確認されている。 それが米倉溝古墳群にある将軍塚1号墳である。 米倉溝古墳群は桓仁から南に約9kmのところにあり、 将軍塚1号墳は周長150m、高さ8mの大型方形墳で、 玄室と羨道の両側に小さな側室を持つ横穴式石室で天井は四段並行持送である。 また四壁面には孔がいくつか穿たれており、 一部には銅釘が刺さったままの状態であったことから、 石室内に幕を張っていたことが判明している。 壁画は四壁面全体、天井、両側室、石門に漆喰を塗りその上から蓮花文と王字流雲文が描かれている。 また玄室には2基の棺が見つかり、 銅製品や鉄製品の副葬品も見つかった。 こうした副葬品や墓の構造的特徴から5世紀前半の壁画古墳と推定されている。 将軍塚1号墳は現在、 中国領にあるため北朝鮮の世界遺産には該当しないであろう。 しかし貴重な文化遺産であり、 世界遺産級の価値がある高句麗壁画古墳である。 |
舞踊塚 築造年代は5世紀中頃と考えられている。 四神は天井に描かれ、 後室の奥壁に墓主が描かれている。 舞踊塚・角抵塚の発掘は1935年に池内宏氏や浜田耕作氏ら日本人考古学者によってなされた。 双楹塚 築造年代は5世紀後半と考えられている。 これも日本人考古学者を中心に発掘調査されてきた代表的な高句麗壁画古墳の一つである。 この古墳は、 ちょうど四神が天井から壁に描かれるようになった過渡的な壁画古墳として位置付けられている。 後室の奥壁に墓主と並んで玄武、後室天井に朱雀、前室の側壁に青龍と白虎が描かれている。 そして墓主と並んで描かれている玄武の大きさは墓主よりもずっと小さい。 五かい塚4号墳 (かいの字は上が「灰」、下が「皿」) 築造年代は6世紀後半と考えられている。 四壁に四神図と蓮花文を描いた最初期の壁画古墳である。 6世紀頃になると、 壁画古墳は単室を巨石で築造するように変化してくる。 江西大墓 高句麗王朝末期の7世紀前半に築造された、 高句麗壁画古墳の最後を飾るにふさわしい最高傑作の古墳である。 それまでの高句麗壁画古墳は、 もともと中国の壁画古墳の影響を強く受けたものとして発展してきたものであるが、 四神図を強調し、 蓮花文などを組み合わせた江西大墓の出現によって、 高句麗壁画古墳は完全に高句麗独自の芸術に昇華している。 江西大墓は直径51mの大型円墳で、 一辺3.1mの花崗岩切石を積み上げた正方形玄室を持ち、 両袖式横穴式石室と分類されている。 石室の数は、 多室を有するほかの封土墳・壁画古墳と比べると少ないが、 墳丘と石室の規模は最大級であり、 590年に没した平原王の王陵であると考えてほぼ間違いない。 また壁画水準も他の高句麗古墳を圧倒しており、 高句麗壁画古墳の最高傑作である。 この古墳では、 壁画は切石表面を水磨きした石の表面に直接描かれ、 漆喰を用いていない。 また四神図は壁一面に大きく描かれており、 一部に陰影も認められ、 写実性に富んだ彩画表現がなされている。 また天井は平行持送と三角持送を併用し、 忍冬文、飛天・神仙・山岳、忍冬蓮花文、麒麟を描いている。 |
このページ内の画像は、『福岡県
桂川町 王塚装飾古墳館パンフレット
コダイム王塚』pp18-19(福岡県桂川町教育委員会、平成7年3月)より引用いたしました |
<平壌周辺の壁画古墳一覧(高句麗研究会1997年報告資料参考)> (平壌市) 和盛洞古墳、 青渓洞1号墳、 青渓洞2号墳、 内里1号墳、 魯山洞1号墳、 鎧馬塚、 南京里1号墳、 南京里2号墳、 湖南里四神塚、 高山洞1号墳、 高山洞7号墳、 高山洞9号墳、 高山洞10号墳、 高山洞15号墳、 高山洞20号墳、 安鶴洞7号墳、 安鶴洞9号墳、 嵋山洞古墳、 長山洞1号墳、 長山洞2号墳、 平壌駅前二室墳、 伝東明王陵、 真坡里9号墳(旧真坡里1号墳) (南浦市) 水山里古墳、 江西大墓、 江西中墓、 徳興里古墳、 肝城里連花塚、 薬水里1号墳、 普林里1号墳、 台城里1号墳、 台城里2号墳、 保山里1号墳、 大安里1号墳、 大安里2号墳、 双楹塚、 龍岡大塚、 龍興里1号墳、 牛山里1号墳、 牛山里2号墳、 牛山里3号墳、 狩猟塚(梅山里四神塚)、 星塚、 龕神塚 (平安南道) 天主地神塚、 遼東城塚、 龍鳳里古墳、 東岩里古墳、 慶新里1号墳、 雲龍里古墳、 青宝里古墳、 徳花里1号墳、 徳花里2号墳、 加庄里古墳、 八清里古墳、 大宝山里古墳、 麻永里古墳、 桂明洞古墳 (黄海南道) 伏獅里古墳、 鳳城里1号墳、 鳳城里2号墳、 安岳1号墳、 安岳2号墳、 安岳3号墳、 安岳邑古墳、 坪井里古墳、 路岩里古墳、 漢月里古墳、 月精里古墳 (黄海北道) 御水里古墳 <積石塚について> 積石塚は、 その名の通り石を積み上げた墓で、 封土墳以前の高句麗の埋葬形態である。 積石塚は石の積み方によって多くの種類に分類でき、 石をそのまま積み重ねただけの単純なものから、 切石で基壇を設け丁寧に石を積み上げたものまでさまざまである。 この積石塚は、 少なくとも紀元前1世紀には造営が始まり、 都が集安から平壌に遷都された5世紀前半頃に造営が終焉し、 封土墳にとって代わった。 積石塚の出現をもって高句麗の建国時期を推定することができるので、 積石塚は考古学上極めて重要である。 もう一つ大切なことは、 高句麗の古墳とは決して壁画古墳だけはないということだ。 むしろ積石塚などの埋葬形態が先にあって、 それが封土墳や壁画古墳に受け継がれていったという事実を忘れてはならないだろう。 <百済・新羅・加耶の壁画古墳> 高句麗壁画古墳は現在までに約100基ほどが知られているが、 同じ朝鮮半島でありながら、 百済や新羅、加耶には壁画古墳がほとんどみられない。 百済はもともと現在のソウルに王都があったが、 たえず高句麗の攻勢にさらされてきた。 しかし百済が度重なる高句麗の攻撃にも持ちこたえることが出来たのは、 漢江一帯が朝鮮半島でもっとも肥沃な土地であったからであって、 475年に王都を公州に遷都してからは、 急速に弱体化してしまい、 538年に扶余に遷都するも660年には唐と新羅の連合軍によって滅亡した。 百済の壁画古墳は現在まで2つしか発見されていない。 その一つが公州の宋山里6号墳で、 もう一つが扶余近郊の陵山里古墳群にある東下塚である。 宋山里6号墳は磚築墳で、 ブロック表面に粘度を塗り、 それに胡粉で四神図を描いている。 陵山里古墳は6世紀後半〜7世紀の築造で、 後期の高句麗古墳によく似ており、 水磨きされた切石で横穴式石室を作り、 四神図と蓮花文や飛雲文を描いている。 新羅の古墳は高句麗の封土墳とは全く違う形で進歩してきたが、 慶尚北道栄豊郡の邑内里には、 明らかに高句麗の影響で築かれたと思われる壁画古墳が2つある。 時代は6世紀と考えられている。 加耶諸国のうち、 盟主的役割を果たしてきた大加耶の都があったとされる慶尚北道の高霊に、 加耶で唯一の壁画古墳がある。 この古墳は古衙洞古墳といい、 天井に蓮花文がある。 注)宋山里6号墳の壁画剥落防止の工事中に偶然発見されたのが、 韓国の暫定リストにも記載されている武寧王陵である(1971年)。 盗掘を免れたこの古墳は宋山里6号墳同様に磚築墳で、 墓誌も記されてあった。 この内容が三国史記の内容と完全に一致したことで、 韓国考古学史上画期的発見とされた。 この古墳から発見された遺物は膨大で、 そのほとんど全てが韓国国宝に指定されている。 <高松塚古墳およびキトラ古墳(収斂の意見)> 高松塚古墳およびキトラ古墳は、 数少ない日本の壁画古墳です。 また、 壁画はありませんでしたがマルコ山古墳も壁画古墳に加えてもいいかもしれません。 明日香でしか見つかっていないこうした古墳は、 発見当初から高句麗壁画古墳の影響を受けた古墳で、 被葬者は高句麗からの亡命貴族ではないかという説があり、 ご存知の方も多いでしょう。 これに対して、 高句麗の文化的影響を受けて作られたのは事実だが、 被葬者は皇族の墓であるという説や、 四神図は高句麗の影響ではなくむしろ中国の影響であるという説などもあり、 これについても、 きっとご存知だと思います。 この高松塚古墳やキトラ古墳が築造された時代は7世紀末から8世紀初頭とされています。 一方、 日本に仏教が伝来した時代が6世紀中頃、 聖徳太子が仏教の導入に積極的だった時代が7世紀初頭、 大化の改新が645年などを考えると、 古墳による埋葬は既に日本では時代遅れであって、 当時の多くの人は既に仏式で埋葬されていました。 法隆寺も7世紀に建設されたものです。 それにもかかわらず全く新しいタイプである壁画古墳の築造様式を、 日本が中国や高句麗からわざわざ取り入れたとはどうも考えにくいように思います。 壁画に関しても、 高句麗系とする説と中国系とする説の両方にそれなりの根拠がありますので紹介します。 まず高句麗系であるとする説では、 高松塚古墳に描かれた女性の衣装に注目します。 スカートがラッパ状に開いた状態の描き方は、 高句麗古墳にはあっても中国の壁画墓には無いらしいのです。 また四神図を壁面の中心に据える構図は典型的な後期高句麗古墳の特徴です。 これに対し中国系であるとする説は、 古墳築造時期に注目します。 高松塚古墳・キトラ古墳が共に築造された時代は高句麗滅亡から30年以上も経っていることや、 7世紀の高句麗古墳では、 四神図のみが最も強調され、 高松塚古墳のように人物像が四神図と共に描かれるようなことはないことなどを挙げています。 キトラ古墳の朱雀を見ても判るように、 あの壁画に日本的な表現が加味されているのは間違いないでしょう。 おそらく制作者のほとんどは日本人だったはずです。 歴史的背景を考えず、 ただ単純で常識的に考えてみても、 こういった全く新しいタイプの古墳が、 古墳時代終末期に突然作られ、 忽然と作られなくなくなるのはやはり不自然です。 むしろ渡来人のために特別に築造された古墳であると考える方が自然だと感じます。 日本書紀の記述は、 それが書かれた8世紀初頭から100年くらい前の出来事なら、 かなり正確に記載しています。 それによると高句麗から多くの渡来人が明日香一帯に移住し、 大和朝廷は彼らに数年間の税免除など恩恵を与えたことが書かれています。 ですから明日香一帯に住んだ高句麗系渡来人は、 当然自分達独自の方法で葬祭を行うことが出来たはずなのです。 ですから私は、 高松塚古墳・キトラ古墳の被葬者は、 白村江の戦いで帰還する日本軍と共にやって来た高句麗系貴族の墓ではないかと昔から感じています。 築造方法を伝えたのも高句麗であって中国ではないのでしょう。 もし中国渡来なら、 日本の古墳時代早期はもちろん、 弥生時代(前漢・後漢時代)など、 もっと早くに壁画古墳が伝来すべきでしょう。 北部九州の装飾古墳群を壁画古墳と関連させる説も活発ですが、 私は似て非なるものであると感じています。 また、 もし高松塚古墳やキトラ古墳が天皇一族の墓だったなら、 亡命渡来人、 それも高句麗系の亡命王侯貴族はどこに、 どういうふうに埋葬されたのか説明できなくなります。 以上の理由から私はこの高松塚古墳やキトラ古墳の被葬者を高句麗系の高位の人物で、 古墳は特別に作られた例外的なものと考えています。 もし高松塚古墳・キトラ古墳が高句麗壁画古墳の直系の壁画古墳だとすれば、 安岳3号墳によって始まった高句麗壁画古墳の歴史が、 思ってもいないような運命の悪戯で、 日本で最後の輝きを遺して消えてしまったということになり、 しみじみ興味深いです。 なぜなら朝鮮半島の三国の中で最強だった高句麗が、 まさか新羅のような小国に破れ半島の統一を許すことになるとは、 当時は誰も考えなかったはずだからです。 また、 日本には当時多くの渡来人が来ていたはずなので、 そういう人たちが住んだ場所に、 未発見の壁画古墳があってもおかしくないと私は今でも考えています。 裏世界遺産バックナンバー目次へ |