サラズム
Sarazm


国名 タジキスタン
分類 文化遺産
所在地 首都ドゥシャンベの北西およそ120km



審議歴
2000年 暫定リストに記載。
2004年 審議対象外 … 書類不備のため。
2007年 登録延期 … 遺産の価値や重要性に関する追加情報の提出や、遺跡の発掘地のすべてに保護地区を拡張することなどが求められた。


解説/文=収斂さん

中央アジア最初期の人類定住地

  タジキスタンでは5000年前から定住型農耕社会が存在していたことが知られている。ただし厳密には、紀元前1500年くらいの青銅器時代を起源と考えるほうが正しいという説もある。タジキスタンでは、金属器の発明以来、肥沃な土地ほど早くに耕作地や牧草地として開拓され、人々の定住化が進んだ。タジキスタンの青銅器時代の墳墓や住居跡の研究は1970年代に飛躍的に発展し、とくにソグド(ソグディアナ)地方(the region of Sogdian)やベシュケント渓谷(the Valley Beshkent)、ギッサール渓谷(the Valley Gissar)で大きな成果があった。これらの遺跡の発掘は、考古学者リトヴィンスキー(B. A. Litvinskiy)らが率いる調査隊によってなされた。
  サラズム(Sarazm)は、ペンジケント(Penjikent)から西へ15キロ行ったザラフシャンの渓谷(the Valley of Zeravshan)にある。山と峡谷で囲まれた防御に適した場所ということもあり、中央アジアの中でもとくに早くから人々の定住が確認されている遺跡である。サラズムの名は「大地の始まり:the beginning of the earth」という意味である。


面積1平方キロ。中アジア最大の農耕集落跡

  サラズムは1976年にイサコフ(A. I. Isakov)によって発見された。ただし最初にイサコフが発見したものは、サラズムの基礎となったと思われる新石器時代の定住住居の遺構だった。イサコフは、発見した彩色土器片がトルクメニスタン南東部地域の文化の影響を強く受けていることに注目し、この遺跡の重要性を早くから予見したが、彼のこの発見と鋭い洞察力によって、サラズムの発掘は始まったといってよい。
  これまでの発掘調査から、青銅器時代の住居群は約1平方キロにも広がっていることが確認されている。これは定住農耕社会の遺跡としては中央アジアで最大規模をほこる。また時代も新石器時代〜青銅器時代(紀元前4000-1000年)と長く、さまざまな文化の変遷を知ることができる点も重要である。
  出土する土器片の装飾や形状、武器と思われる斧や皿の形をした道具などから、遠くはバルチスタン(Baluchistan:現在のパキスタン南西部からイラン南東部)や、Seistana(※場所不明)とも交流があったことも判明している。ほかの文明との比較文化論的な考証研究は、さかんに行われているが、中東〜中央アジアにおける初期段階の農耕全般に関する研究はまだこれからであり、サラズムはその研究に大きな貢献をしている。


当時の技術や宗教を知る数々の手がかり

  サラズムの住居の特徴は、まず道や小路によって区画が整然と仕切られている点があげられる。日干しレンガづくりの住居は、たいてい2〜3の部屋があり、公的な建物を示すと思われる記号のついた建物も発見されている。穴のあいた円盤型の祭壇(disk-shaped altars)も見つかっており、当時の信仰や宗教を知る貴重な手がかりとされている。また、同時代にステップ地域に見られる文化様式と酷似した住居も少なからず存在する。
  住居跡のほかにも、拝火教(ゾロアスター教)の寺院跡、陶器職人や織物職人の工房跡なども発見されている。そこからは、当時としては珍しい多色塗りの土器や青銅製品が多く出土している。
  一般的によく見つかる金属製品は、ナイフ、短剣、槍の尖頭器、やじり、斧型の武器(axe-shaped weapon)などであり、武器が多いという特徴があげられる。裕福な商人の家と思われる住居跡からは、黄金や銅製のイヤリング、ペンダント、ブレスレット、青銅製の鏡など、宝飾品も見つかった。こうした多くの遺物から判断して、紀元前1500〜1000年ごろ(=青銅器時代)にかけて、タジキスタン南部に暮らしていた熟達した職人集団がサラズムの冶金技術に大きな影響を与えたという説が、近年有力になっている。ただし周辺で見つかる青銅製の斧は、紀元前2000年以前から紀元前1500年ごろまでさかのぼるものもいくつか見つかっている。


牧畜文化と農耕文化の交差点だった古代タジキスタン

  サラズムは、古代の中央アジア一帯の文明を知るうえで大きな手がかりを与えてくれる、きわめて重要かつ代表的な遺跡といえるが、サラズム以外にもタジキスタンには貴重な遺跡が多い。
  青銅器時代のタジキスタン南部には2つの基底文化・経済圏(two basic cultural-economic zones)があったと考えられている。ひとつは牧畜文化(cattle-breeding culture)であり、もうひとつは定住農耕文化(settled-agricultural culture)である。これらの文化形態は、古代バクトリア地域(Ancient-Bactorian region)、すなわち現在のアフガニスタン北部一帯で古くから見られる特徴といえる。牧畜文化圏の人々からベシケント(Beshkent)文化が派生し、これは後期サパリ(Sapali)文化や、古代バクトリアの農耕主体の文化であるヴァクシュ(Vakhsh)文化と関係が深いとされ、現在、この文化史研究がさかんに行われている。
  牧畜文化をもつ部族の墳墓群は、パンジ川(Panj)やアムダリア川(the Amu-Darya)の支流の低地域に多く見られる。主な墳墓は、ベシケント墓群、Jarkuli墓群、Makonimor墓群などである。また、青銅器時代終末期に、タジキスタン北部のステップ地域に住む部族が、南部タジキスタンの牧畜文化に多大な影響を与えたのは間違いないと考えられている。こうして生まれた新しい文化をアンドロノヴォ文化(Andronova)という。この文化の影響を強く受けた遺跡はベシュケント(Beshkent)周辺に多い。
  タジキスタン北部からアフガニスタン一帯にかけての墳墓から、青銅器時代の定住農耕文化圏の土器について類似した様式のものが多く見つかっている。例えばギッサール渓谷西部のTandyryulと、ヌレークから8キロ東のヌレーク墓(Nurek tomb)の土器は、きわめてよく似ている。ダンガリン(Dangarin)地方のテグザック(Teguzak)では、夏季放牧の間だけ利用された季節住居(seasonal settlement)の遺構が見つかっている。こうした遺構の特徴は、定住農耕文化とステップ文化の融合が認められる。

  現在、サラズムはタジキスタンおける青銅器時代の幕開けを告げる記念碑的な遺跡と見なされている。年代がエジプトやメソポタミアで古代文明が栄えた時代と重なるため、それらの文明との交流の歴史を研究する取り組みも活発に行われている。



参考ウェブサイト
http://www.afc.ryukoku.ac.jp/tj/tajikistanEnglish/B-bronzeage/Btop.html
http://www.sanat.orexca.com/eng/3-4-04/history_art1.shtml





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