イラクの暫定リスト
イラクの世界遺産候補地6箇所+1
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現在ユネスコ世界遺産センターのウェブサイトでは、戦火にさらされているイラクの文化財について特集記事を組んでおり、2000年に提出された暫定リスト記載物件に関する情報が公開されています。(暫定リストとは、その国が近い将来世界遺産に登録しようとしている物件の一覧表で、いわば公式の世界遺産候補)。ここではその記事を参考に、イラクの暫定リスト記載物件を簡単に紹介します。これらの物件は、イラクに無数に存在する貴重な文化財のほんの一部ですが、日本ではあまり紹介されることのない「歴史の国」としてのイラクの姿を教えてくれます。(作成協力:収斂さん)
イラクの暫定リスト記載物件所在地図
アッシュール (2003年、世界遺産登録)アッシュールはアッシリア帝国の最初の首都であるとともにその宗教的中心地でもあり、バビロンやアテネ、ローマ、テーベのような古代都市と並び称され、人類の歴史に多大な影響を与えてきた。
アッシュールの成立は古く、シュメール人初期王朝時代(紀元前2800年)にはすでにアッシリア人が居住していたと考えられている。ここが帝国の首都となったのは紀元前14世紀のことで、アッシリアの国家神であるアッシュールのいる場所として、その名をとどろかせていた。紀元前9世紀に首都がニムルドに移ってからも、アッシュールは宗教・文化の中心としてその重要性を維持し続けた。アッシリアの王達もここで戴冠式を行ない、そしてここに埋葬されたのである。
これまでに発掘されたのは遺跡全体のほんの一部に過ぎないが、建築学的、美術工芸的遺物とともに、楔形文字の書かれた膨大な文書資料の集積・解読によって、特に中期〜新アッシリア時代において、アッシュールの宗教や学問に関する指導的役割を証明することが出来るだろう。
しかし現在、アッシュールの遺跡はダム建設による水没の危機に瀕している。ダムは長期の干ばつ対策からフセイン政権が建設を開始したもので、2006年に完成する予定である。そうなれば遺跡が水没する可能性があり、ダムに替わる水源の確保や、遺跡を守るための堤防建設などが提案されてきた。ユネスコの世界遺産センターもアッシュール遺跡の危機を憂慮しており、2003年7月の委員会において、イラクから18年ぶり2件目の世界遺産として登録された。
古代都市ニネヴェ古代都市ニネヴェは、バグダッドの北400キロのチグリス河畔にあり、現在のモスルの対岸に位置している。ニネヴェは古代メソポタミア文明の都市国家の中で最も重要な都市の一つであり、聖書にもたびたび登場する。現在、この一帯にはいくつかの土塁(マウンド)が現存しており、その中で最も有名なのものがクユンジックの宮殿である。
ニネヴェは紀元前7世紀前半、アッシリア王に就いたセンナケリブが、先代の王都ドゥル・シャルキンにかわる新たな宮殿を築いたことで絶頂期を迎えた。現存する考古学的遺物のほとんどがこの時代のものであり、周囲12キロの城壁の一部や、素晴らしいレリーフのついた壮大なセンナケリブ宮殿などがそうである。特にセンナケリブ王や彼の息子のアッシュールバニパル王が建てた二つの図書館にあったレリーフ、および多くの楔形文字が書かれた平板の中には、19世紀にルーブル美術館と大英博物館に収蔵されたものもある。なおニネヴェは紀元前7世紀後半、メディアと新バビロニアの連合軍の攻撃を受け破壊された。
ウハイダルの城塞バグダッドの南西約100キロのところに、774〜775年にかけてイーサ・イブン・ムーサが建設した「砂漠の宮殿」ウハイダルが残されている。この宮殿は176×146メートルの長方形をしており、城壁、広間、中庭、複数の建造物、モスクなどを備え、謁見室やイーワーン(アーチ門)、召使達の部屋が多く現存している。なお、この宮殿は当時の最新の技術が随所に見られる傑作であり、後のイスラム建築の発展に大きな影響を与えてきたといわれている。
湾岸戦争当時、ウハイダル宮殿のすぐ近くには弾薬保管所があった。そのため、1991年1月20日と2月13日の深夜に、2回も空爆されている。幸いこのアッバース朝時代の宮殿に被害はなかったようであるが、それ以降UNSCOM(国連大量破壊兵器廃棄特別委員会)のチームが保管所を(2003年1月を含め)数回査察している。
ウル古代都市ウルは現在テル・アル・ムカイヤルという名で知られ、ユーフラテス川下流域のナシリーヤの街の近くにある。紀元前3000年から1000年以上にわたって、ウルは小さいながらも豊かな帝国の首都であり、シュメールの月の神であるナンナや、聖書のアブラハム一族(創世記 12:4−5)が住んでいた街としても名高い。また聖書では紀元前900年頃にこの一帯に住んでいた人々をChaldees人として触れている。
ウルの土塁遺構は北西から南東に1200メートル、北東から南西に800メートルにも及び、土塁の高さは周囲の平地より20メートル以上高くなっている。また壊れた小さな土塁が、ウルの遺跡から1500メートル以上も北北東に延びている。土塁に囲まれた城内の北西には、紀元前2100年に建造されたジグラト(神殿)の廃墟が、今も20メートルの高さにそびえている。
ウルの遺跡はイギリス領事であったJ.E.テイラーによって最初に発掘された。このJ.E.テイラーはジグラトを一部発掘したことでも知られている。しかし、その後古代都市ウルの遺跡は、1920年代から1930年代初頭にかけてC.L.ウーリーが発掘するまで、150年以上もの長い間、考古学的な調査が行なわれなかった。
このウルの遺跡でもっとも素晴らしい発見は、紀元前2600年の王墓であろう。ここからは金、銀、青銅製の宝飾品や宝石が多く見つかり、さらに無数の粘土板が見つかった。その中にはギルガメシュ叙事詩に関するものもあった。
ワーシトワーシトはイラク南部の都市で、現在のクートの街の南東にある。ワーシトは西暦701年に、イラクの統治者であったアル=ハジャジ・ビン・ユスフ・アル・タカフィによって建設された行政上の中心であり、クーファやバスラに代わる守備隊の駐屯基地でもあった。また後世、ワーシトはウマイヤ朝に対し反乱を起こしたことでも知られている。
1936〜1942年にかけて、及び1985年の発掘調査によって、マドラーサ(神学校)の遺構や複数の居住施設、さらにミフラーブ(メッカの方向を示す窪み)の無い初期のモスクが二つ折り重なった状態で発掘された。これらの発見により、このモスクがイスラム教の最初期のモスクであり(おそらく紀元703年)、最初の凹面ミフラーブは、707年〜709年にかけてワリード1世によってメディナのモスクにもたらされたことが確かめられた。
ワーシトは13世紀にモンゴル帝国の、14世紀にはティムール帝国の侵攻をうけ壊滅し、さらにチグリス川の流れの変化によって衰退した。そして以後この街が商業の中心都市として栄えることは無かった。
ニムルドニムルドはモスル南のチグリス川に面した遺跡都市で、アッシリア帝国時代には帝国屈指の大都市であった。この街は、一般的な古代メソポタミアの都市とは異なり、紀元前13世紀の中頃、アッシリアの王シャルマネゼル1世によって新しく建設されたものである。そしてアッシュルナシルパル2世治世下の紀元前879年に、ニムルドはアッシリア帝国の首都になった。なおその後、紀元前710年頃に首都はドゥル・シャルキン(現在のコルサバード)に移り、次にニネヴェに遷都している。
ニムルドの街の面積は約200ヘクタールで、北西隅にはジグラトがそびえている。遺跡には街の守護神を祀るニヌルタ神殿や、書の神を祀るナブ神殿、また、それらに連なる宮殿群の遺構があり、長さ8キロの城壁がニムルドの都市遺跡全体を取り囲んでいる。こうした寺院遺構の中で最も重要なものとされるのが、アッシュルナシルパル2世によって建設された北西宮殿である。これは寺院群の中で最も大きく、日干し煉瓦でできているものの、壁面・床面を覆う楔形文字や壁画、レリーフなどの装飾が見られる。そして彫刻された象牙でできた家具の一部も見つかっており、宮殿内の井戸からはエジプトやトルコで制作された象牙細工が出土している。また最近の発掘調査によって王の墓が3基発見され、おびただしい宝飾品が出土した。
サマッラー (2007年、世界遺産登録)サマッラの遺跡はチグリス川の土手沿いに40キロ以上にも及んでおり、おそらく世界で最も広範に考古遺跡が眠っている場所である。現在のサマッラ新市街一帯は、ちょうどアッバース朝時代の街の中心地にあたる。アッバース朝の首都はもともとバグダッドであったが、836年にカリフのムータシムが首都をサマッラに移したのである。(この遷都に反対したバグダッドの民衆が、ムータシムの軍隊と小競合いをしたという話も伝わっている)。以後サマッラはアッバース朝の首都として大いに発展し、8人のカリフがここで政治を執り行った。しかしサマッラ遷都からわずか56年後の892年に、首都は再びバグダッドにもどっている。
サマッラの建築のほとんどは日干しレンガや粘土で出来ているが、大モスクやthe Bab al-Ammaのような重要な建築は焼成レンガで出来ている。また宮殿や住居にはスタッコで装飾されたものもあり、これは現存するスタッコ装飾としては最も古い例である。ただしサマッラの宮殿を飾っていたであろう壁画やモザイク画は、今日、全く現存していない。
カリフの宮殿の真東にあるのが、サマッラの大モスクである。このモスクは世界最大のモスクの一つとされ、イスラム建築の最高傑作の一つである。モスクの広さは240×160メートルもあり、現在は近代的な建築資材で再建されているものの、もともとは大理石の柱が建物を支えていた。このモスクには中庭の中央に大きな噴水があり、また、あの有名な螺旋形のミナレットも付随している。このミナレットは、初期メソポタミア文明のジグラトから影響を受けたものと考えられている。
(参考)
ユネスコ世界遺産センターhttp://whc.unesco.org/nwhc/pages/news/main2.htm
『世界の大遺跡4メソポタミアとペルシア』講談社(1988)
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