-本稿は「隅田川」が世界遺産になれるかを考えるため、その文化的価値や保全状況などを、ICOMOS評価報告書(各国の推薦書類の簡略版)の形式にならって記したものです。
20世紀初頭、東京の交通中心だった隅田川と、それに合流する各支川の橋梁は、都市景観上極めて重要な位置にあるものと認識された。そのため復興橋梁は、土壌や地質などの自然条件に合わせて建造するだけでなく、美学的な要素を加えて設計され、さらに歴史や周辺景観を考慮して緻密に配置されたことで、川筋ごとに異なる橋梁景観が生まれた:隅田川では都市の中心としてすべての橋梁が異なる形式で建造され、陸上・水上いずれからも印象に残る景観が創出された;右岸では皇居を中心とした景観保全のためより多額の予算が当てられ、上部構造の少ない上路アーチ橋がつくられた;左岸では地盤の弱い低地帯であることや考慮すべき史跡がないことから、上部構造が目立つトラス橋などが多数つくられた;各支川の隅田川との合流点には外見を異にする特徴的な橋梁を設け、水上交通に対する道標とした。このような壮大な橋梁配置計画は、外国の都市にも見られないもので、計画論として非常に特筆すべきものである*1。また隅田川および支川の橋梁群は、従来の木造都市にごく短期間に膨大数の鉄橋を創設した点で、自然災害で壊滅した大都市(当時の人口およそ300万人)が、恒久性を求め改作された過程を示す顕著な例示であり、近代大都市の大規模な改造・再建事業の一例を示している。 一方、隅田川の両岸には江戸時代より300年以上にわたり、川や海と一体化した風致的に優れた建造物や庭園がつくられてきた。その一部は1923年の関東大震災後も残され、震災前の都市や河川の景観を今に伝える貴重な歴史資料となっている。特に隅田川流域にある庭園は特徴的で、現存する4園はすべて「潮入の池」の構造を有している。潮流による水位の変化を鑑賞するため、水路によって河川や海と結ばれたこのような池は、日本国内において江戸で特異的に発達した。造園上の一つの要として、庭園の中央にこれらの池を備えた大名庭園は、世界的にも稀な庭園の一形式を示すものである。(登録基準iv) 隅田川は文学、音楽、絵画、芸能の舞台となり、周辺には江戸有数の大寺院だった浅草寺や永代寺、江戸の象徴的存在であり画題としても好まれた日本橋などの史跡が点在する。また隅田川は歌舞伎で特異な一分野を占める「隅田川物」にも関係している。(登録基準vi)
日本の政治的な中心都市となった江戸には、17世紀以降、さまざまな建造物がつくられていった。中でも特筆すべきは大名庭園である。全国の大名が中・長期的に滞在したことから、江戸には彼らの居館や庭園が築かれたのである。現在にいたっても東京は、歴史的に重要な大名庭園が最も多い日本の都市となっている。このことは、京都に多くの社寺庭園が残されていることと好対照をなす。江戸の大名庭園の中には、隅田川と密接に関係したものも少なくなかった。その一例が清澄庭園で、これはもと豪商の屋敷だったものを、18世紀初頭に大名庭園に改造したものである。園内の大池はかつて隅田川から水を引いており、潮の干満によって水位が変化する仕掛けがあった。このような池を「潮入の池」と言い、隅田河畔に現存するすべての大名庭園(清澄庭園のほか、旧安田庭園、旧浜離宮庭園、旧芝離宮庭園)で見いだされる。 一方、庶民の信仰を集めた大寺院の門前には繁華街が形成されていった。なかでも江戸の二大門前町すなわち深川の永代寺門前と浅草の浅草寺門前は、いずれも隅田川に近く位置していた。このことからも隅田川は江戸の文化・社会の中心的存在といえ、事実数多くの文学や芸術作品がここで生み出された。また隅田河畔は江戸屈指の行楽地でもあり、浅草から続く墨堤の桜は今日もその姿を留めている。 日本では明治維新(1868年)後、西欧文化が大きく流入し鉄材による建築が行なわれるようになった。隅田川でも鉄橋の建造が進んだが、部分的に木材を併用したものが多く、また中小河川の橋梁は大半が木造だった。そのため1923年の関東大震災では、特に地震後に発生した大火によって多くが被害を受けた。震災後は橋梁再建から復興が試みられ、東京市街を中心に400以上が一斉に新築された。これらの中には特徴的な外観を有し都市景観上重要視されるものも多く、震災を乗り越えた既存の橋梁とのバランス、両岸の歴史・文化的特徴、隣接する橋梁同士や地域全体での調和、地形や地質などの自然条件を考慮して設計された。さらに復興にあたっては耐久性と不燃性が最も重視され、そのために海外から導入した当時最先端の技術をもって建造されたものもある。このような復興事業が、結果として日本の橋梁技術の発展に大きく影響したのである。
- 隅田川と橋梁群 隅田川の橋梁として最も重要視されているのが、当時の最下流地点につくられた永代橋と、その一つ上流の清洲橋である。永代橋は水上交通の盛んな地点に建造するため、長大な径間をもつ構造が必要とされた。同時に永代橋は、隅田川の入口に相当することから、雄大な外観をもつアーチ橋として建造された。他方の清洲橋は、上向き曲線を描くアーチの永代橋と相対する下向き曲線として、吊橋として建造された。両橋とも軟弱地盤に建設されたため、アメリカ人技師を招いてニューマチック・ケーソン工法によって建造された。(この永代橋と清洲橋の基礎工事を除いて、復興橋梁はすべて日本国内の技術と材料をもって建造された)。両橋の建造は、隅田川の橋梁群が景観を重視するだけでなく、交通や地盤など建造地点のさまざまな条件を熟慮して建造され、その結果多様な形態の橋梁が建造されたことを、最もよく表わしている。 隅田川の上流部につくられた白鬚橋は、永代橋に類似した意匠を施すことによって河川全体の景観を整え、調和を保つように設計された。白鬚橋のさらに上流に架かる千住大橋は、20世紀初頭に日本各地で建造された鋼アーチ橋の一つであり、中でも当時最大級だった。千住大橋は隅田川橋梁としてよりも、むしろ陸路幹線の橋梁として重要な位置にあり、市街地の最北端にある郊外との境界をなすものとして意匠された。 隅田川の中流域に建造された連続する4橋のアーチ橋は、すべて異なる外見である。これらのうち最も上流にある吾妻橋は、両岸の地層が異なり地質も弱かったため頑強な橋台を建造し、上路式の三連アーチの橋として完成した。この下流にある駒形橋は、両側径間が上路式、中央径間が中路式という変則的な三連アーチ橋である。これは両岸のごく近いところを幹線道が通っていたため、盛土を施さずに低地同士を結ぶ方法として、両側径間を小型アーチで支え、それを補う大型アーチを中央径間に据えたのである。駒形橋の下流にある厩橋も同様の理由で路面位置が低くなり、全長にわたって下路式アーチ構造で建設された。しかし当時通行者を圧迫するとして嫌われていたトラス構造とならないよう、努めて軽快な外観に設計された。厩橋の下流の蔵前橋も変わった外見である。この橋は西側の三径間が鋼アーチ桁、東側の一径間がコンクリートアーチ桁となっている。地盤が良好だったため路面を高くする構造が可能となり、両岸に所在した病院などの公共施設と調和するよう慎重に設計されたのである。 震災復興事業からおよそ10年後の1940年に完成した勝鬨橋は、復興計画によって進歩した日本の橋梁技術を示す顕著な作例である。この橋は永代橋のさらに下流に、可動橋(双葉跳開橋)として建造された。このような重厚な橋が建造されたのは、永代橋に代わって新たに隅田川最下流の橋をなすためという景観上の理由と、水上交通が盛んだったという産業上の理由による。 -
隅田川右岸の支川と橋梁群 震災復興計画では、各河川の最下流部、すなわち隅田川への合流地点では景観上特別の配慮がなされた。つまり、隅田川の橋梁と調和し、かつ、各河川の目標となるべく形式的な意匠が施された。神田川の最下流にある柳橋(1927年)、日本橋川の最下流にある豊海橋(1927年)、亀島川の最下流にある南高橋(1904年/1932年移築)がその遺例である。 旧浜離宮庭園の入口には、1926年に重厚なコンクリートアーチの南門橋が建造され、歴史遺産と見事に調和している。左岸地域は地盤が安定しており、またこのような歴史遺産が多かったため、路面を高く保ち、かつ、橋梁構造を下部に隠すための上路式橋梁が積極的に建造された。 -
隅田川左岸の支川と橋梁群 左岸は全域が低地帯だったため、路面と水面の関係からゲルバー桁橋や下路式トラス橋が圧倒的に多く建造された。各河川の最下流部には、右岸地域と同様の注意が払われ、意匠を凝らした橋梁が建造された。その代表例が1929年に完成した萬年橋であり、近接する隅田川の清洲橋と対照的なアーチ構造を有する。 - 社寺 本堂の西に建つ六角堂は1628年に建造された。六角形の平面をもった特異な建築物で、意匠的にも優れている。 浅草神社は浅草寺の東側に位置し、隅田川で観音像を発見した漁民を祭る聖地として、13世紀までに創建された。現在の拝殿、幣殿および本殿は1649年の再建によるものである。本殿は三間社流造で、前面に拝殿が付属し、さらにその前に拝殿がつくられ、当時の一般的な権現造りとは異なる様式である。建物はすべて朱塗りで、長押の要所に極彩色の文様が施され、鴨居には空想上の動物が描かれている。また細部の彫刻などの装飾は江戸時代初期の神社建築の特徴をよく表わしている。 - 庭園等
推薦対象の橋梁を含む河川のうち、広範にわたる景観保全がなされているのが、隅田川、神田川および日本橋川である。これらは東京都景観条例の第16条に基づく景観基本軸に指定されている。指定範囲はいずれの河川も最上流点から河口部までの全域にわたり、河岸部は隅田川では両岸50メートル以内、神田川では両岸30メートル以内、日本橋川では両護岸が規制の対象になっている。この指定地域内では、景観を損ねるような新築、増築、改築または移転が制限されている。そして東京都は必要に応じて、建築や土地開発、都市計画などを行なう事業者、自治体、企業、住民などに助言を与え、歴史的・文化的な景観の維持に誘導する。
隅田川の支川である中小河川は東京都建設局が管理し、主に水害対策と景観対策の2点から整備を行なっている。特に右岸の河川網(江東内部河川)や左岸の日本橋川・亀島川では河川流域連絡会が設立され、行政と流域住民との連携によって河川利用や緑化策などが講じられている。同様の連絡会は隅田川にも設けられている。隅田川は日本国の国土交通省が管理しているが、両護岸の整備は国の補助金をもとに東京都が行なっている。1980年代以降は堤防が大々的に改修され、河川両岸部を埋め立てて遊歩道が整備された。これらの遊歩道は東京都の管理下にある。 橋梁の場合は道路所有者の管理となる。推薦対象のうち、日本国の国土交通省の管理となっているのは日本橋と千住大橋の2橋である。その他は、都道であるものは東京都建設局、区道であるものは各区の建設や土木関係の部課(千代田区環境土木部、中央区土木部、江東区土木部、墨田区土木部、墨田区都市計画部)が管理し、唯一の私道にある練兵橋(江東区登録史跡の大横川に架かる)は所有企業の管理下におかれている。しかしどのような場合であれ、橋梁は重要な道路上の構造物として日常的に維持・管理がなされている。
推薦対象に含まれる木造建築や庭園には、1923年の関東大震災と1945年の東京大空襲(第二次世界大戦)で大きな被害を受けたものが少なくない。焼失した木造建築は不燃性の鉄材やコンクリートで新たにつくられたが、被害のなかった建物については文化財指定するなどして保全されている。現存する古建築のうち、浅草神社は1649年の建立以来度々補修され、近代に入ってからは1961年から1963年にかけてと、1994年から1996年にかけて修復された。浅草神社と並び隅田川との関連が深い浅草寺は、戦災によって二天門などを除く9割以上の建築物を焼失した。現存する浅草寺天祐庵は建立以来二度の移築を経て1958年に現在地に復元された。移築に際して改築された箇所は、1990年に完了した修理によって旧態に復元された。六角堂は境内改修にともなって1996年に現在地へ移築され、2004年より修復が開始された。 4箇所の庭園では、旧安田庭園が関東大震災の被害を特に強く受け、当時これを管理していた東京市によって迅速に復元された。旧浜離宮庭園と清澄庭園では第二次世界大戦の戦火や後代の老朽化などによって付属建築が失われ、また劣化したものもあった。これらの修復や復元は東京都が行ない、場合により文化庁と協力し、旧態を維持している。 しかしこれらの庭園で特に憂慮されるべきは、周辺環境の変化による影響である。4園とも園内の池に外部から水を取り入れて水位の変化を見せる構造をもっていたが、清澄庭園と旧芝離宮庭園ではすでに失われた。旧安田庭園でも水路が途絶えたことで一時的に失われたが、現在では地下貯水槽をつくって人工的に再現することを可能としている。これは庭園を所有する墨田区によって実現され、1971年に完成した。旧浜離宮庭園は4園中保存状態が最も良く、水門によって海水の流出入を行なっている。 隅田川および支川の橋梁には国道や都道といった主要幹線が通っているものも多く、すべて創建以来保存されてきた。必要に応じて耐震補修や部材の新調、塗装や舗装の変更が行なわれ、現在も定期的にメンテナンスが続けられている。 推薦対象として隅田川に架かる橋梁のうち千住大橋を除く8橋は、東京都による長期的な「生活都市東京構想」の一環である著名橋の整備事業により、1980年代から1990年代にかけて整備された。この事業は、隅田川に架かる橋のもつ意義を再度認識し、そのすぐれた形態と空間を復元し、また保全し、都市にゆとりある快適な空間を創造しようとするもの*2だった。これにより創建当初の姿に合わせた橋灯、親柱、高欄、橋台敷(橋詰広場)などが復元整備された。 支川の橋梁群で特筆されるのは江東区のものである。江東区は所有する全橋梁のうちおよそ40%が1923年の関東大震災直後の築造であり、老朽化や輸送の大型化の中で維持管理を進めている。江東区では先述の東京都の事例とは異なり、一括化された保全ないし修復の管理プログラムが組まれたことはない。つまり区道の橋梁として日常のメンテナンスを行ない、必要と判断されたものから順次整備を行なっているのである。その過程で、高欄や親柱などの付属構造物が創建時の姿に復元されたものもある。
現存する貴重な遺構は文化財として保護され、真正性が保たれている。特に社寺や庭園は真正性の水準も高い。 橋梁は一般の文化財と異なり、真正性を保つのは困難である。交通量の増加や輸送の大型化への対策、国家の安全基準の変更にともなう補強や改修築などが繰り返されている。代表的な改変が落橋防止装置の設置である。ほかにも例えば吾妻橋では、歩道部を外側に張り出し拡幅する工事が行なわれた。歩道と車道の分離柵の設置や、夜間照明用器具の設置なども各橋で行なわれている。しかし橋梁のもつ本質的な構造と特徴は維持されている。周期的な塗装にあたっては、旧来の色を受け継ぐとは限らない。これは何十年も前から同じである。最近は従来よりも派手な色彩が多い。けだしこの傾向は、橋梁自体が目立ちにくい存在となった現代の東京において、橋を都市景観の要とした復興計画と必ずしも一致しないものではないと思われる。 河川景観では大規模な変更点が認められる。護岸工事、堤防の建造、水門の新設のほか、特に重大な変更要素が新橋の架設である。ただしそれぞれの新架設に際しては、隅田川や周辺河川の景観を損ねないように細心の注意が払われる。そのため隅田川と周辺河川の景観は、大都市圏にあるものとしては日本国内でも比較的良好に旧態を留めている。 推薦対象のなかで過去もっとも大きな変更があったのが墨堤の桜である。ここでは1971年に高速道を架設するためにすべての桜並木が取り除かれ、その後現在の姿に再植栽された。この並木にはソメイヨシノ品種が多く植えられている。品種の一般的な寿命が60年であることを受け、2004年より長期的な保全事業が開始された。これは墨堤の桜が所在する区立隅田公園の整備計画とも関係する。保全事業では密な植栽の間引きや土壌改良が計画され、桜1本1本が健全に大きく育ち、長生きできる環境づくりを行なう*3。
・上記以外 |