猿虫

 とあるところに一時間ほど車を停めて、戻ってみると屋根に異物が乗って
おりました。

 おやおや、鳥のウンピーかなと思ったら、こやつ、動くんです。
よーく見たら、生きものでした。驚くなかれ、猿なんです、猿。

 いや、哺乳類の猿じゃございません。足が六本ありますし、大きさも小指
の爪くらいなんです。

 しかし、これがどう見たって猿なんです。高崎山でリンゴを食ってる猿の
姿とそっくりなんです。

 この世に生を受けて42年。ワタクシ、こんな虫は初めて見ました。
「頭でけーなー」と見とれていたら、「うっせーな。見るなバカ」という感
じで尻をむけましたのでムカツキました。

 だから、ポケットティッシュの袋に包んでつかまえてやりました。
車に乗ってジックリ見たら、やはり猿なんです。六本足の猿で口からストロー
みたいなまっすぐな管を出しております。「出せ、バカヤロ」と騒いでいま
したが、もちろん出してあげませんでした。

 家にもどってクワガタムシの水槽に入れておいたのですが、三十分後に見
たときには逃げられてました。

 女房に、「猿虫が逃げた」と訴えたのに相手にしてくれません。
 娘にも、「猿虫が逃げた」と訴えたのに相手にしてくれません。

 ただ、息子だけが「え? サルなの、サル? 見たい見たい見たい」と騒
いでくれました。

 息子に、猿虫がいかに猿であるかを説明したら、「すごいすごい」と感動
してくれました。

草の花

 わたしが現場に駆けつけたとき、すでに運び去られていたあなた。
こんど生まれ変わるときがあったら、その火の熱さを覚えていてください。

 愛されたいと思うから、愛されなかったあなたは自分の身体に火をつけた
のですね。

 草の花は、誰に愛されなくても、自分のために咲いていることに気がつい
たらよかったのです。

娘へ

 キミが生まれた日、おとうさんは友達に電話を繋げようと必死でした。
でも、受付の女の子が「ただいまTは会議中で電話に出られません」と繰り返
すだけです。「急用なんです、どうかお願いします」となんど頼んでもダメでした。

 それまで冷静でいようと思っていたお父さんですが、「血がいるんだよ! 
オレの血じゃダメなんだよ。Tを出してくれよ!」と叫んでしまいました。

 待合室にいる人たちが、いっせいにお父さんを見ました。

t  お母さんは重い妊娠中毒にかかり自然分娩は無理と判断され、キミはまだノ
ンビリしていたかったのかもしれないけれども、こちらの事情で十二時二十四
分に帝王切開で生まれてきたのでした。そのあといろいろあったけど、とにか
くキミは、いま元気です。お父さんは幸せです。

 誕生日おめでとう。

 「そりてて

 ずっとむかしの誕生日。わたしとしては珍らしく忙しかったのであります。いつも夕
飯どきにはテレビを見たり夕刊を読んだりしてゴロゴロしているのですが、そ
の日はまだ急ピッチで仕事をしておりました。やたらと暑くて汗が出て、なん
ともハヤの状態でイライラしていたようです。

 階下から豚児の泣き声が聞こえ「うるさいなー」と思っていたのですが、それがいつ
までたっても泣きやまず、だんだんと耳障りになってきて、仕事を中断して怒
こりにいったのであります。

 男の子がいつまでもメソメソ泣いているんじゃないと、わたし自身泣き虫
だった少年時代を棚にあげて息子を叱ったのであります。けれど、よほど悲し
いことがあったのか、それでも泣きやみません。

 どうしていつまでも泣いているのだと鬼のように怒りましたら、もっと泣き
ました。

 「理由をいえ理由を!」 と、わたくし怒り狂ったのでありますが、息子は
泣きじゃくりながらしゃべるものですから、意味がほとんど聞き取れません。

 「おとうさんがドーシタコーシタ」というようなことをいっております。

 「これ以上泣くと、おまえは蔵に入れてネズミの餌にしてやるぞ!」と怒り
に任せて叫びましたら、ようやく黙りました。

 静かになったところで、もういちど「どうして泣くのだ」と聞きました。
息子は涙を溜めたまま、泣きださないように息をゆっくりと吐きながら、

 「お父さんにね、お誕生日のプレゼントをあげようと思ってね、作っていた
んだけどね、まちがったの」といいました。

 指さしたところには、お菓子の箱を切ってセロハンテープでとめたものがあ
り、そこには「すたーと」「ひでぞう」「ごみばこ」などと書かれてあり、
真ん中に「そりてて・・」と書かれた場所がありました。

 「ソリティア」と書こうとしたけどまちがって「そりてて」と書いてしまっ
て、それを修正ペンで消そうとしたのだけれど見つからず、悲しくなって泣い
てしまったようです。

 「お父さんにね、パソコンをプレゼントしようと思ったのだけれどね、まち
がってしまったの」と再び泣きだしたのですが、もうわたしは怒れません。

 「あのなー『そりてて』でもいいんだぞお」と息子を抱いて二階にいき、息
子がよく遊んでいる「ソリティア」を「そりてて」にリネームしたのでありま
す。

 「こんなもん、どうだって替えることができるんだから、もう泣くな」


 というわけでいま、お菓子の箱で作ったパソコンが、机の上に乗っているの
であります。画面のまんなかで「そりてて」が大威張りしておりました。


ディルーム

 身重の妻への電話を終えて、この部屋に戻ってきたら泣いている母娘がいた。
 初老の婦人とその娘は下を向いてハンカチを口にあてていた。娘が何か話そ
うとするのだが、泣き声になってしまい言葉に出来ないでいた。 
 僕はその母娘に面識はあったが、すぐに視線を逸し、自動販売機からコーラ
を買い椅子に腰掛けた。
 テレビはナイター中継をしている。
 この部屋の他の人達は泣いている母娘を無視して、めいめいに雑談したり、
テレビのナイターを観戦したりしていた。
 本当はこんな所で泣いていたら迷惑なことは彼女達も知っている。
誰もの気が滅入っているのだから。しかし、この建物の中ではあの母娘の泣け
る所はここしかない。だからみんなが見て見ぬふりをする。
 ナースが入ってきた。そして泣いている母娘のところへ行って一言二言ささ
やいた。二人はうなづいて彼女の後について部屋から出て行った。僕は目だけ
で見送った。

 僕の隣にいたテキ屋の鈴木さんが言った。
「駄目だったんだな」
「たぶんね」と僕は答えた。
「あの二人、Dさんの家族だよ」
「うん」
 それ以上、何も言わなかった。一週間ばかりDさんの姿が見えな
いことは知っていた。

 この部屋は『ディルーム』という名前がついている。どんな意味なのかナー
スも知らなかった。「さあ? 日があたる部屋って意味なのかしらねえ」
彼女たちは、名前の意味を考えているほどヒマじゃないのかもしれない。

 椅子が十八、テーブルが四つ、灰皿が三つ置いてある二十畳程の部屋。たぶ
ん灰皿は健康な見舞い客のために用意されているのだろうと思うが、入院患者
も有効に利用しているようだった。

 鈴木さんともここで知り合った。

 五時に出る夕飯を速攻で食べ、自動販売機から野菜ジュースを買いディルー
ムに入ったら先客がいた。中年男がヤクルトを飲みながらタバコを喫っていた。

「どこが悪いんだい?」
それが最初の言葉だった。八十の爺さんみたいな声だった。まさか目の前の中
年男の声じゃあるまいと思って声の主を探してしまった。

「なあアンタ、どこが悪いんだい?」
 こんどは動かしている口が見えた。
「えっと、ああ、胆のうがちょっとイカレまして」

「若いのに胆のうガンかい?」
「いや、ガンじゃなくって、胆のうの皮が厚くなっちゃったから切っちゃった
んですね」
「そうか。そう聞かれているんだな」
 どうもボクのことをガンだと決めつけているみたいだった。もっとも、病院
の名前が「ガンセンター」だからガン患者がウロウロしているわけだけれど。
ボクの場合は、前ガン症状というヤツで、本物のガン患者と比べればずいぶん
と気楽なのだ。

「奥さん身重だよな。そんな病気なのに子供を作るなんて根性あるねえ。だい
たいアンタ何歳だい。まだ若いんだろ」
 臨月の女房が見舞いにくるとなにかと目立つ。まわりの人は、手術したボク
のことには無頓着で、女房にばかりねぎらいの言葉をかける。
 いや、たしかに女房はたいへんだったのだ。

「べつに根性入れて子供を作ったわけでもないですけどね、できちゃったんです」
「どのくらい前から入院しているんだい。だいぶ前からいるみたいだな」

 入院している人間はみんな病人なわけで、病名から聞いていくのが無難な挨拶
だった。年中快適な室温に保たれている建物の中で禁足処分を受けている僕た
ちに、天気の話題は意味がないのだ。見舞い客に教えられて、はじめて外に雨が
降っていることを知るくらいなのだ。

「かれこれ一か月になりますね。胆のうを切って四日目に腹膜炎になってしま
いましてね。それが傑作で、医者が盲腸とまちがって手術してみたら腹膜炎だ
ったんですよ。脊髄麻酔で意識があるから、医者の慌てている様子がよーくわ
かりました」
「あははは」
本当は笑い事じゃないのだが、すぎてしまったことは笑うに限る。
「盲腸のつもりで手術したから応急手当しかできなくて、それからまた一週間
後に再々手術になったんですわ」
「おりゃまあ難儀だなあ。で、盲腸も切ったんか?」
「せっかく腹を開けたのだから、ついでに切ってもらいましたよ」
「そういうときには手術費も割引になるのかいな」
「さあ」
「値切らにゃダメだぞ」

「おたくさんは、なんの病気なんですか」
こんどはボクが聞く番だ。
「喉頭癌」
「ガンですか」
「そう」
「なのにタバコ喫ってもいいんですか」
「そりゃとうぜんよくないだろ」
「よくないですよね、やっぱり」

 僕の、三度目の手術が終わったのは夜だった。目を開けた時、辺りは暗闇だ
った。ベッドのまわりをカーテンで仕切られ、天井しか見えない場所は恐かっ
た。このまま死んじゃうんじゃないかと思えるくらい恐かった。口に当てられ
た不味い酸素を、生きるためだと思って一生懸命に吸った。このまま目をつむ
ったら二度と開けられなくなるのじゃないかという恐怖に襲われていた。その
日から夜がこなければいいと思うようになった。 それまでは夜って昼間より
も好きだったのに。

 動けるようになってからの僕は、ディルームに入り浸るようになり、誰か他
の患者と馬鹿話をしたり、テレビを見たり、本を読んだりすることで、恐怖を
紛らわしていた。
 夜中の三時に目が覚めて、もう眠れなくなってしまったときがあった。夜の
九時に寝せられてしまうから、三時ごろ目覚めてもじゅうぶん睡眠が足りてし
まっているのだ。

 消灯十分前の時間を告げるチャイムを聞いた僕は、コーラの空缶を握りつぶ
して、塵箱に捨てた。一人、二人とディルームから出て行く。吸っていたタバ
コも短くなり、それをもみ消し、僕も立ち上がった。

 「すまんが、立たせてくれないかなぁ。」
黄色い栄養点滴を胸につなげている老人が僕に言った。手を取って立たせてあ
げた。その手は意外と暖かだった。
 手を頭まであげて、老人は言った。
「あぁ、また夜が来た。部屋に戻って寝なけりゃならん。」
 ため息が聞こえた。
 少し考え、そして僕は精いっぱいの笑顔をつくって言った。
「大丈夫、すぐに眠れますよ。そしたら、じきに朝がきますから。明日またこ
こで会いましょうよ。」
 老人は、にこりと笑い、僕の顔を見て、うなづいた。     
 僕もつられて、にこりと笑った。すこーし、夜がまた好きになるかもしれな
い予感があった。

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 けっきょく鈴木さんはわたしよりも早く退院しました。その後、わたしも退
院し、懐かしさでディルームを訪れたら、パジャマ着た鈴木さんがタバコ喫っ
てました。わたしはなんといっていいのかわからずに、声をかけずに帰ってし
まいました。