−水戸一高第二校歌−
「正義の歌」物語
水戸一高(茨城県立水戸第一高等学校)には校歌が二つある。
通常歌われる第一校歌は、日露戦争勝利からまもない明治41年(水戸中学時代)に、
新任の菊池謙二郎校長(事務取扱)によって制定された。
なかなか勇ましい歌詞・曲なのだが、軍国調が強い、として戦後は長年論議の的になっている。
一方、本題である第二校歌「正義の歌」(BGM)は、大正10年に起きた「ある事件」の中で生れた。
それは当時水戸中学校4年生だった塙義幹により作詞された。
作曲はなかったが、当時の旧制一高寮歌「キの空」の旋律を借りて歌ったという。
それが今日に歌い継がれている旋律である。
(BGMは、イントロ8小節、5番繰り返し、最後8小節繰り返し)
以下は、この歌が生れる背景となった、その「事件」の顛末を、
主に当時の新聞報道から拾ったものである。
◆菊池校長 舌禍事件
(以下敬称略)
◇「今東湖」校長の 舌禍問題起らん◇
大正10(1921)年、田舎町水戸で起きたその騒動は、
とうとう中央の新聞にも報道されるまでに波紋が広がっていた。

大正10年2月2日 東京日々新聞

菊池謙二郎
(大正5年、49才、水中校長時代)
水戸中学校の菊池謙二郎校長は、藤田東湖研究、水戸学派の第一人者として名を馳せていた。
その菊池校長が前年の暮れに水戸市内で行った、「国民道徳と個人道徳」と題した講演が、
ごく一部の間で物議をかもしていた。
年が明けて大正10年1月10日、地元いはらき新聞社主催による小会合において、
請われて“暮れと同じ演題”で再び講演が行われた。
この日は少数の地元名士相手とのこともあって、前回より噛砕いたざっくばらんな論調になった。
ところがその講演筆記が、後日数回にわたって同新聞に連載されたことから、
問題は一気に広がった。
菊池講演が活字となって巷に頒布されるのを待っていたかのように、
真先に反応し批判したのは茨城神道団だった。
それは、
『我国の祖先崇拝、家族組織、忠君孝道の諸徳に対して批判を下し、
自己を根本にして行動すべきを説き、なお性欲問題にも言及しその
自由を唱え、旧道徳とは全く背反する演説をした』(上掲記事から) .
というもの。
元来堅物学者だったはずの菊池校長が、1年の外遊から帰朝したら、
「蓄妾蓄男」を奨励するかのような妄言を発し、「危険思想家」に一変した、
と糾弾するものだった。
誤解とはいえ、思わぬ反応に菊池は当惑する。
菊池講演の内容とは、当時主流であった国民道徳論に対し、
「私の議論も未だ十分洗練されては居らないが…」
と断った上で、若干の批判を交えた持論を展開したものだった。
その中で二三学者の説に異を唱えはしたが、道徳論の根幹を否定した訳ではなかった。
国際世情を広く見据え、国民道徳論をより洗練しようとする内容だったのだ。

講演筆記全文(危険視せられし道徳論と辞職顛末より)
なのに、これが茨城選出の政友会代議士、小久保喜七の耳に入るや、
「水戸学派を奉ずる者から見れば一刀両断に値する」(同)
とばかり怒り心頭に発する。
直ちに中橋文相に対して断固たる処分を建言、それから事態が拡大し始める。
文部省は突然の展開に情況が掴めず当惑しながらも、
『菊池校長は生一本の人で、かつて村上普通学務局長が訓示をした時、大声に
馬鹿野郎呼ばりをやって、当時の校長連の度胆を抜いたことがあった。今度の
事などは半分は口から出任せというくらいの程度のものかも知れん』(同) .
と、この時点ではまだ菊池校長にやや同情的であった。
しかしこの一連の動き、実は小久保や茨城県庁幹部の扇動であったことを周辺は知る由もなかった。
◇知事の苦衷を察し 菊池校長辭職す◇
菊池は釈明に努める一方、水戸市教育団は菊池擁護運動を展開。
しかし在京茨城県人会からも菊池排斥の決議が出され、中央からの圧力も強まるに至って、
処分には慎重であった力石茨城県知事は窮地に立たされる。
県当局から出された質問7項目に対し、
2月6日、菊池校長は堂々健気の答弁書を返すが、好転せず。
とうとう菊池は力石知事の苦衷を察して、7日急転、県に辞表を提出。
その直後、辞表撤回要求の揺れもあったが、
この辞表は9日文部省に受理され、校長職を離れることになる。
懲戒処分ではなく依願免職の形にしたことは、知事側のせめてもの配慮であったのだろうか。
ところが、これで「一件落着」というわけには行かなかった。
この騒動はすでに「教育界の大問題」として国会で取り上げられるまでに膨れ上がっていった。
・・・・
そのころ別の紙面では、そろそろ水戸名物の梅が咲きはじめたこと、
しかし不景気で、観梅列車の運行が危ぶまれていること、などを報じていた。
◆同盟休校(全校ストライキ)
◇校長の袂別に 八百の學生起つ◇
菊池謙二郎校長の周辺で渦巻く不穏な動きを懸念していた水中生達は、
校長の免職決定を知るや、その理不尽な成り行きに対する憤りが一気に上り詰めた。
2月12日に執り行われた告別式(辞職説明)において菊池元校長は、
「かつて『尽忠報国』を掲げ訓導した自分が、今“不忠の臣”として職を辞さざるを得ぬとは・・・」
と、無念の思いを切々と語った。
その後、雨天体操場(柔道場)に集まった生徒たちは、
校長復職を求める決議文を認めた連判状に、次々小指を切って血判を押す。
要望が聞き入れられない場合は全生徒が退学をも辞さない構えで同盟休校を宣言した。

五年生の連判状(血染めの決議文)
このとき、県知事の実子、本校2年生であった力石巌は、泣きつ、進んで血判に加わった。
その行動は、彼の立場を察する学友たちの感涙をさそった。
◇水中生総退學 知事の懇諭も効なし◇
◇復職は成らぬと 力石知事峻拒す◇
こうして2月14日、ついに同盟休校(全校ストライキ)に突入する。
生徒代表5名は県庁に赴き、力石知事に決議文と陳情書を手渡す。
力石県知事は、菊池元校長を敬慕する生徒の心情を理解しつつも、復職は拒絶。
知事は重ねて学生の本分を諭し、復校へ説得を試みたが、
飽くまで菊池元校長の復職を求める水中生側と、復職を拒否する知事とでは、
論議相容れる余地はなく物別れとなった。
このように一丸となって菊池校長の復職運動に立ち上がった生徒たちは、
同時に、水戸市民に向けて賛同を訴えるべく、1万枚のビラを撒く活動も展開した。
◇水戸中學の 運動u々猛烈◇
膠着状態のまま、翌朝未明、生徒800余名は市内の常磐公園に集合した。
この時、世の不条理に団結して戦いを挑む思いを訴える、一つの歌が披露された。
それが4年生塙義幹の「正義の歌」(冒頭詞、BGM)であった。

常磐公園における決起行動
生徒たちは、「至誠一貫」、「盡(尽)忠報國」等の標語を大書した幟旗を掲げ、
「正義の歌」を合唱し、その後、谷中の藤田東湖の墓に参詣、意志の貫徹・成就を祈願した。
同盟休校は続いた。
この間、水戸市長、県会議長、議員等からの説得も続いたが、
水中生たちの結束は俄然固かった。
生徒代表はこの日いよいよ先の決議文を、
時の総理大臣原敬をはじめ、中原文部大臣、小久保代議士等へ差し出した。
◇水戸中學退學生 梅林中で自習會◇
そのころ他の生徒たちは、
学生の本分である勉学は一日たりも疎かにはできぬと考え、
梅香がほの漂う常磐公園梅林に参集し、先輩を教師に仕立て自主学習など行った。

(大正10年2月17日 東京日々新聞)
一方、打開策に窮した当局側は、
この期に及んでは、復校の説得は菊池元校長自身に委ねるしかない、と結論した。
事態の成り行きに心を痛め当局の依頼を諾した菊池は、
主だった生徒たちを菊池宅に召き、復校を促すべく説諭を行う。
菊池は、自分のために生徒たちが身を賭して戦っていることに謝意を表しながら、
過ぎ去ったことにこだわり事態を混乱させることの無為を諭した。
◇水中生の登校に 警官を繰り出す◇
◇高壓手段に 一倍昂奮の學生◇
水中生に対する復校の説得は父兄、卒業生たちからも行われた。
しかし、校長復職には賛同しつつも復校を説得する卒業生達に対しては、
「菊池元校長の復職を支持するならその証拠を示せ」
と、血判を迫る勢いに、OB達も引き下がらざるを得なかった。
菊池元校長の復職を願う思いは生徒のみならず、父兄、卒業生も同じだった。
しかし、校長復職の可能性を探りつつ、出口の見えない騒ぎに陥っている情況に対して、
文部省は止めを刺す。
「菊池前校長は自ら辞職を願い出で…、従って当局は菊池氏の復職は断じて許さぬ方針…」
であると。
また県当局側は、出校しようとする生徒が妨害を受けないよう、
通学路の要所に制服警官を配置した。
そんな中、菊池元校長自身による復校説諭は、その後も数日にわたって繰り返された。
◇冴えぬ顏で澁々と 七十八名出校す◇
県当局は2月19日を限って出校しない者は退学処分にする旨通告した。
「自主退学」と「退学処分」とでは180度異なるが、そんな当局側の高圧姿勢よりも、
目的者たる菊池元校長自らの説得には、さしもの生徒たちもこれ以上強気を通すことはできなかった。
軟化した一部生徒たちが19日、父兄に引率されたりして出校に応じた。
その中には力石巌なども混じっていたが、未だ盟休を続ける大部分の学友の手前、
誰一人として冴えた顔はなかった。
父兄たちの依頼により、出校期限は21日まで延期された。
◇悲壮な釋明演説◇
−何れの點を否定するやの辯明に滿場涕涙−
20日、菊池擁護の立場であった市教育委員会の主催により催された、
講演釈明演説会場は、立錐の余地がなかった。
菊池元校長は、あらためて持論の「国民道徳と個人道徳」について詳述した上で、
一体これの何が「危険思想」を問われるのか、と会場に判断を乞うた。
満場声なく静寂の中、すすり泣きの音のみ止まなかった。
この釈明演説会をもって生徒一同復校を決議し、一連の騒動は収束に向う。

今を去る八十余年前の熱き出来事であった。
(完)
◇◇◇
※1)その寮歌の旋律は、尾崎紅葉の「金色夜叉」のテーマにも使われたという。
確かに出だしの4小節だけは「貫一お宮」の曲にそっくりなのだ。
しかしそのあとに続く旋律は全然というほど異なる。
(正義の歌 楽譜)
さて原曲はどんな曲だったのだろうか?
菊池謙二郎先生の墓
富士の頂きを西方間近に望みつつ菊池先生は眠る。
(昭和20(1945)年2月3日没 享年78歳)

菊池家の墓(背後より富士を望む)
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(塚原健次)
<参考文献>
「東京日々新聞(東京版、茨城版)」(1921)
「東京朝日新聞(東京版)」(1921)
「危険視せられし道徳論と辞職顛末」菊池謙二郎(1921)
「水戸・市制80年写真集」 水戸市(1969)
「菊池謙二郎」森田美比(耕人社 1976)
「水戸一高百年史」 同編集委員会(1978)
「茨城の思想」小林三衛・武井邦夫編(茨城新聞社 1998)
「知道会会員名簿」知道会(2002)
2004.11.14-2005.7.4
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