−絆− 9

あっという間に、冬は駆け足で去っていってしまった。
新入学だ、進級だと、ただでさえあわただしい4月。
SOHOな妻を持ってしまった哀れな亭主に追い打ちをかけるような出来事が!
何と由加は、小学校のPTA役員になってしまったのだ。
それが本人は、案外嬉しそうに、PTAの仕事をこなしている。
役員をお願いしたいという電話がかかってきたとき、
二つ返事で承諾した、ときいて、なんだかイヤな予感がした。
イヤな予感は、的中した。
家の中は、以前にも増してひどい状態になった。

PTAだけではない。
地元の商店会にも入った。
商店会の夜中の会合にも、楽しそうに出かけていくようになった。
地元の祭があれば、ほいほい手伝いに行く。
SOHO養成スクールの講師もはじめた。
外の世界と繋がりたい、というこれほどまでの欲求が、彼女にあったとは。



出会ったころの由加は
人とふれあうことをおそれて
ひとりになりたい、繋がりたくない、と
いつもこころで叫んでいた。
他人が自分の領域に踏み込んでくるのを、決してゆるそうとはしなかった。
何にそんなに疲れてしまったのかは知らないけれど
少しひとりでいるといいよ、と
一緒に暮らすようになってからも
由加がゆっくりと<ひとり>を味わえるようにと
彼女の世界を踏み荒らすまい、としてきた。
少しずつ、こころをゆるして、中の世界を見せてくれるまで。

私も何か仕事がしたい、と言い始めたとき、
俺はふっとこんなことを言ってしまった。
由加は、きっと森の中にこもって
ひとり静かにものを書くような仕事をするような気がして。
ひとと繋がらずに、ひとりでできる仕事があるよ。
好きなところに住んで、好きな時間に好きなだけ
ひとりの世界を踏み荒らされることなく
仕事をしてみないか、と。

パソコンという魔法の箱。
ひとと繋がることでそんなに疲れてしまうのなら
この魔法の箱で何かものを書いてみないか、
そんな仕事もあるよ、と、思わず言ってしまった。

出会ったころは
<ひとりが一番ほっとする><他人には興味がない>
と言っていた由加が、今はどうだろう。
まるで乾いたスポンジが水を吸い上げるように
今は外へ外へと繋がろうとしている。
人と会うのが怖いといっていた由加が
今では300人の聴衆の前でも、けろりとして平気で話をしてくる。
人の集まるところには、ほいほいと出かけていって
仕事をとってきたり、新しい友達をつくって帰ってくる。
俺と話す時間より、メル友と話している(書いている)時間のほうが絶対に長い!
誰かがネットで叩かれているとかいいながら
助けに飛んでいって、返り討ちに遭って帰ってきたりする。
ご苦労なことである。

「バトル」だとか「返り討ち」といっても、まあネット上の言葉のやりとりに過ぎないから、
実際に危ない目に遭ったり、
身に危険が及ぶわけではないわけで。
放っておくと平気で危険なところに飛び込んでいってしまう
10代の頃の武勇伝は、それとなく耳にしているので、
ネット上の仲裁やトラブルぐらいでおさまっているのは、
由加にしては上出来。

一緒になってからも、何度か
周りが見えなくなって突っ走りそうになるのを、
何度引き留めたかしれない。
地下鉄サリン事件のときには、
出産直後の床上げするかしないかっていう時期だというのを忘れて、
上九一色村へ産まれたばかりの翼を抱いて行こうとした。

(何しに行くんだ?)
(支援者のデモに加わるの)
(外は吹雪だぞ!翼は新生児だぞ!?)

まあ、ここに書けないのは残念だけれど、
もっと危ない目にはイロイロ遭っている。
相手が過激派だろうがなんだろうが、
許せないものが目の前にあると、由加は何もかも忘れて
すっ飛んでいくタイプなのである。
もう夫も子どももいるのだから、危ないことだけはやめてほしい。
ネットの中でなら、所詮は文字のやりとりに過ぎない。
今までの彼女を知っているだけに、
ネット上なら仲裁、相談、あれこれ、何でもどうぞ。
はり倒そうが返り討ちだろうが、もうなんでもござれ!
好きにやってくれという気分なのである。

パソコンというこの魔法の箱のおかげで、
誰かのトラブルに立ち会うために、由加が実際にどこかへすっ飛んでいったり、
俺がまたそこへ呼び出されたりということはなくなったわけで
(…いや、完璧になくなったわけではない。しかし激減したことは確かだ)、
バーチャルな世界だけであらゆる仲裁も相談もすべて済んでしまうようになった。
これだけでも、非常にありがたいことである。



それにしても、10年も一緒に暮らしていて、
これっぽっちも気づかなかった。
外の世界と、こんなに繋がりたがっていたなんて。
結局、俺にはやっぱり何も見えていなかったのだろうか…と、
ときたま思う。

ひとりが好き? 他人には興味がない? とんでもない。
夫や子どもの世話は二の次で、ネット上の見知らぬ他人のピンチには
何をおいても助けにいくではないか。
そんな日には、うちの夕飯はどうなる?



HOMEへ戻る        前へ      次へ





Naturalidentity