−絆− 7

きょうも快晴。よしよし。
荷台に往診カバンを放り込み
駅の方向に自転車を走らせる。
勤務先の駅前クリニックまでは、自転車でわずか10数分というところ。
我が家の目の前のバス通りはいつのまにか「緑地通り」と命名されていて
軽井沢を思わせるような緑のトンネルの下を風のように走り抜けるのは、
なかなか気分がいい。
あの通勤地獄から解放されただけでも、
そして少しでも長く家族と同じ時間を共有できるだけでも
やっぱり我が家を仕事場に選んでよかったと思っている。

由加も自分も、2人とも未来を保証することのできない職業を
選んでしまった。

俺たち夫婦が周囲に<脱・サラリーマン宣言>をしたのは、
結婚してまもなくのことだった。
いずれ東洋医学の道に進んで開業するつもりであること。
夜学の学校に通い、会社は退職するつもりであることも
初めて周囲にうち明けた。
職場では、本社採用の幹部コースを順調に歩んでいただけに
上司からはその後も何度「本当にまだ気は変わらないのか」と
ことあるごとに尋ねられ…。

たしかに、2人ともまだ若かった。何もかも。
将来のことや経済的なことなんて、まあなんとかなるさ…と
本当に簡単に考えていた。
その気になれば、何をやったって食べていける。
どんなに困ったって、死ぬことはないだろう…ぐらいにしか、
考えていなかった。

大樹が産まれるときに、
由加は迷わず出産退職の道を選び、子育てに専念したいと俺にうち明けた。
これには、ちょっと意外だった。
それまでの彼女の職場での猛烈な働き方を毎日見ていただけに、
こいつはきっと一生働き続けるキャリアウーマンタイプだな…と
勝手に思っていたのだが。

俺は俺で、周りの人間が度肝を抜くような選択をした。
大樹が産まれた翌日から2ヶ月間、
育児休職をとったのである。
もちろん、男では初めてのことだし、
日本でもまだ男性の育児休職は2人しか例がないという時代だった。
「なんでまたいったい……」と言われる一方で
「お前らしいよ……」と妙に納得されてしまったっけ。

「本当にいいの?」何度も何度も、由加はしつこく聞いてきた。
いいんだってば。本人がそうしたいんだから、好きなようにさせてくれ。
もともと、会社に骨をうずめるつもりはない。
たった2ヶ月だけれど、
何も考えずに女房子供のことだけを考えて過ごせる日々なんて
もうこれが最初で最後だと思っていた。
最高の贅沢かもしれない。

男だからこうあるべきだ。
女だからこうでなければ。
もともと、俺はそういう規格からははずれた人間なのかもしれない。
家事や育児にこだわる男がいてもいいだろうし
国際政治や経済を熱く語れる女がいてもいいじゃないかと思うのだけれど。

洗剤の選び方一つから、料理の素材の選び方までこだわり、
子育てサークルの集まりにも、オトコの癖に平気でホイホイ顔を出す。
由加の方がハラハラして
「男の癖に…って、会社の人に思われてるかもよ。本当にいいの?」
「全然気にならないの?」
何度も聞く。
俺は、由加の家事や子育てを手伝ってやってるつもりはないのだ。
こんなにドキドキしてスリリングな仕事を
なんで母親だけが独占するんだ?
こういうことは2人でやるもんじゃないのか?

すると決まって
「やっぱりあなたは変わりモンだわ…」
とため息をつく。
お前に言われたかないね。

我が妻も自分も、大の本好きである。
週に一度は、大きな本屋に行って思い思いの世界に浸るのだが、
由加は決まってまっすぐにビジネス本や政治経済のコーナーに引き寄せられていく。
自分はというと、なぜかいつも育児書や教育のコーナーばかり見ている。なぜだろう?
なんておかしなカップルだろうと ずっと思っていたが、
案外これはこれで、ベストカップルなのかもしれない。
俺がもし女に生まれていて、由加が男だったら、
恐らく由加はほとんど家には戻らない会社人間になっていただろうし、
俺はひたすら家を守ってつつましく生きる、なんだか典型的な古くさい家族になっていただろう。
ああ、なんてつまらない人生!

俺は、言っておくが いわゆる<フェミニスト>ではない。
女性はやはり柔らかくて、
優美さと優しさをまとって生まれてきた存在であるし、
男は力強さや智慧、勇気といったものを持って
生まれてきているように感じる。
誰がなんといったって、それは動かしがたい事実なのだ。

男も女も等しく働きながら生きていくということが、
もし女性に男性化することを求めているのだったら
そんなのは我々男どもの驕り以外の何ものでもない。
由加が母親であることや女性らしさを捨てずに
自分らしい生き方で、いつまでもずっと働き続けられる道。
そして、俺もまた1人の職業人として働きながら
父親として夫として、家族とともに同じ時間を共有しながら育ってゆく道。

由加と一緒になってからのこの10年間は、
いろいろなものをあきらめて、妥協して、捨ててきた10年だと思ったこともあったが、
結局のところ、2人とも
本当に欲しかったものをすべて手にしているような気がする。



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