−絆− 3
そんなことをつらつらと考えながら、1枚1枚根気よく、皿を洗っていく。
そろそろ翼を起こして、朝食にかかる時間だ。
「翼、朝だよ。ほら、幼稚園遅刻するよ」
別にまだ遅刻するような時間でもないのに、なぜか毎朝、こう言って翼を起こしてしまう。
朝から脅して起こすのは、やはり良くないかな。
「つ〜ば〜さ〜、おはよぉぉーっ!」
まあるい瞳の大樹が、翼を布団の上からタックル!
三日月のように細い翼の瞳が、まぶしそうにゆっくりとこちらを見る。
同じ兄弟でも、大樹と翼は本当に何から何までまったく違う。
大樹はそれこそ太陽に向かってまっすぐに伸びる大きな樹のように、明るくて屈託がなくて、素直である。
いわゆる優等生タイプというか、世話好きというか、
多少小ずるいところはあるが基本的に単純明快。
兄弟姉妹のリーダー格としての責任感もあり、
ある時には親のような態度で弟を「指導」しようとしたりもする。
ストレートに感情表現をしてくれるので、どちらかというと「何を考えているか、よくわかる」子どもである。
一方、翼は本当に何を考えているのかわからない。
いや、一瞬先に何をしでかすのか、予想もできないことがある。
大樹とは違って繊細な神経の持ち主で、まだ6歳だが、内面の葛藤を深いところに沈めてしまうので、よく見ていてやらないと、すぐに親の目の届かないところへ行ってしまいそうな気がする。
まだまだ甘えん坊で、母親や父親のところへすぐに寄ってきては、ぴったりと寄り添って幸せそうな顔をしている。しかし、表面的にはとにかく明るい。
うるさいぐらいによくしゃべる。
いつもにこにこ笑っていて、笑うとその細い目が一層細くなっていくのが、またなんとも可愛らしい。
大樹は、間違いなく母親の気質を受け継いでいる。
熱血漢で情が深いところも。
そして翼は、父親の俺の血を受け継いでいる。
体質や顔立ちはもとより、ちょっと屈折して神経質なところは、
本当に小さいころの自分とこわいぐらいに生き写しである。
さて、翼を起こしたついでに、ここで初めて母親に声をかける。
翼の弁当をつくらなければならないので、かわいそうだがそろそろ起きてもらおう。
由加は、いつもベッドから起きあがるのに30分はかかってしまう。
少し血圧が低いのかもしれないが、少しずつ声をかけて徐々に起こしてやらないと、すぐに偏頭痛の持病が出てきてしまう。
一度、徹夜に近い状態の彼女を、大声で突然揺り起こしたら、その日一日、激しい発作に見舞われることになり、その不作法な起こし方を何日間もねちねちと責め続けられたものだ。
時計を見ると、もう7時半。
とりあえず翼は起きたので、これからの1時間が勝負だ。
「翼ッ、早く着替えろ」
彼は、毎朝言われなきゃ、絶対に着替えない。
親がいちいち言うから自分でやろうとしないのだ…なんてよく言われるけれど、翼は言わなかったら本当にパジャマで幼稚園に行ってしまう。やりかねない。
大樹は、今たたんだ自分の洗濯ものを自分の引き出しにしまっている。
ダイニングのパン焼き器の中から、昨夜のうちに焼き上がったパンを取り出した。
本当は朝焼きたてのアツアツを食べるのが一番美味しいのだけれど、
焼きたてはどうしてもうまく包丁が入らないので、夜のうちに焼き上がるように時間をセットしている。
ああ…そういえば、いつの間にかパン焼きも俺の「担当」になったのかな。
毎日、昼間のうちに粉とバターと塩、砂糖を内釜に入れて、スイッチを押すだけ。
炊飯器感覚でパンが焼ける時代。
こんなのは邪道だと思いつつ、でもなかなかの味なので毎日日課として続いている。
「お母さん、前はよくいろんなパンを焼いてくれたよね…」
大樹は、そんなこと覚えているのか。
子どもの記憶力っていうのは、大したもんだな。
つい3年前ぐらいまでは、彼女が焼くいろいろなパンが毎朝食卓をにぎわせていたものだ。
俺はどうしてもマニュアル通りの決まったことしかできない。
できないというより、パン焼きのバリエーションなんて考えたこともないし、そんな余裕もないし、
とにかく毎朝手製のパンを焼いてくれる父親なんてそういないと思うぞ。それだけでも表彰状ものだ。
「毎朝食パンなんて、もう飽きちゃった…」
翼は、やっぱり正直もの。
大樹は父親の毎朝の奮闘ぶりに一応配慮して、面と向かって「飽きた」というような無神経なことは言わない。
言わない代わりに、母親をダシにして古きよき時代を回想させるという手を使うようになった。
「お母さんのつくってくれるパンってさ、いろんなものが入ってたよね。何かのタネとか、もみ殻みたいなのとか」
ヒマワリのタネや雑穀パンのことか?胚芽や全粒粉もよく混ぜていたっけな。
「あとさ、くるくるって丸いの。ロールパンとかクマの形のとか、スコーンもあったよね」
スコーン…という言葉を聞いたときに、プンとバターの香りが立ちこめたような気がした。
(懐かしいな…)
バターと粉と塩・砂糖をビスケットのように固めて型で抜いて焼くだけのシンプルなスコーンだったが、
週に1〜2回は朝食にのぼる定番メニューだった。
この先、スコーンのあのバターの香りを再び嗅ぐことはあるんだろうか。>由加サン
「おとーさああああーん」
ああ…! せっかく甘い思い出にひたっていたのに!
一番ちっこいくせに、家の中を走り回る音は、人一倍けたたましい。
遠くでバタンと、寝室のドアを閉める音がした。
やたら回転数の早いドタドタした振動が、イノシシのように真っすぐにキッチンへ向かって突進してくるのがわかる。
「オハヨ!おとーさぁん!」
15年たっても、こうやって抱きついてくれるかな?>愛
「おはよう。お母さんは?」
「まだねてゆ〜」
口のまわらない2歳児だ。
さて、これで母親を除いて全員集合した。
あとは大樹がすべてのことをやってくれるので、俺は愛の身支度に専念するとしよう。
「お父さん、コーヒー、紅茶?どっちがいい?」
「ミルクティー。みんなと同じでいいよ」
大樹がさっきスライスしたパンを、トースターでさっとあぶり、皿にとりわけている。
時間があれば、目玉焼きまでついてくることもある。
やかんで湯をわかし、家族全員の(まだ1人は半分夢の中だが)チャイを入れ(シナモンとミルクも忘れずに)、それらを並べるのは翼の仕事だ。
パンに塗るジャムや練りごまを冷蔵庫から出し……。
愛はちゃっかりもうベビー用の椅子によじ登って、皿が出てくるのをお姫様のように待っている。
「いっただっきま〜す!」
ハイ、全員きれいに声がそろいました!
さて、女王様はもうそろそろ起きるころかな。
いや、もう起きていて、リビングの隅で着替えをしているのかもしれない。
とにかくいつものことだが、由加は忍者のように足音一つたてずに歩く。
起きてきても、いるのかいないのか、気配すらしない。
クローゼットはちょうどダイニングから死角の位置にあって、4人が座っている特大のテーブルからはまったく見えないのである。
声をかけてみようか。
「お母さん、おはよう!」
そこにいるんだろう?さすがに無視はできまい。
「おはよう」
「あーっ、お母さんだッ!」
起きてきたなら、まずこっちへ来て声をかけてくれと毎朝行っているのに、絶対やり方を変える気はないらしい。
「だって、着替えを済ませる前にそっちに出ていったら、もう愛が膝にのっちゃって何もできなくなるもの…」
俺はまだパジャマなんだぞ。
こっちは由加より先に仕事に行かなきゃならないのに、自分は家族への挨拶よりも先に着替えか?
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