福澤諭吉  2
福沢 諭吉をさらに書いてみます

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 ○独立自尊

明治34年諭吉諭吉の68歳の時の死去直前の「独立自尊迎新世紀」1901年に20世紀を迎えての書です。筆太の力強い筆ですね。諭吉は独立自尊の書を多く残してます。
諭吉の独立は封建制のもとで自由を奪われた人民がその習い性となり人間としての誇りを失って「目上の人に逢えば一言半句の理屈を述べることをあたわず、立てと云えば立ち、舞えと云えば舞ひーーー、」ただ衣食を求めるのに汲々としている状態を批判してます。そして、これが
「一国の独立」をも危うくするとして「一身の独立」こそ最重要課題である唱えた。封建制打破、帝国主義殖民地主義打破の思想です。なお諭吉の墓には「大観院独立自尊居士」の法名が彫られてます。


 中津奥平家

諭吉の殿様奥平家は、戦国時代長篠の戦いで、タニシを食べて籠城して徳川、織田の連合軍をまち武田軍を破ったのでその故事により毎年5月21日にタニシ祭を行う。八代将軍吉宗より徳川譜大名として京都宮津より小笠原氏5代の後に入封し10万石で、幕末まで続く。



 耶馬溪

福沢諭吉は耶馬溪の景色を大変好み、この故郷の景観と自然を保存するのに明治27年帰郷中に大変努力しました。確かに紅葉の時期になると大変すばらしい名勝です。この耶馬溪の有名な青の洞門の完成のために中津藩主は奉加帳をまわして寄付金をあつめ、僧禅海を援助してついに竣工させました。諭吉も洞門と紅葉を大切にしました。
○この写真は本耶馬溪.大分県のhp「見ちょくれアルバム」より



 諭吉と食

諭吉は明治3年大病、発疹チフスを患いましたが、牛乳を毎日飲みそれが非常に効果があったので、開化論、肉食の説などで、洋風の飲食物について、古来の迷妄を積極的に啓蒙しました。特に肉食を薦めていますが、天武天皇、歴代天皇が肉食の禁止をして以来日本人は牛肉は食べていません。しかし諭吉は大坂の適塾当時、牛鍋屋で食べ飲んだと書いていますので、鎖国から開国になると少数ながら日本でも肉食が始まったようです。明治天皇は、明治4年12月肉食の禁は謂れなしと宮中で定めました。翌5年1月自ら牛肉を試食されました。4月には僧侶の肉食、妻帯、蓄髪を許可する布告をだしました。これらの事は諭吉が書いたことが影響していると思います。死ぬかもしれない西洋への航海に諭吉が平気で行ったのも、英学西洋派もありましょうが、危険を恐れない武士の魂もありましょうが、意外と肉食が好きなことも有るかも知れませんね。
○写真は大分県のhp「見ちょくれアルバム」より


 「読史」 諭吉の七言絶句

史家の心匠 公平ならず  
片眼  唯だ看る 政と兵とのみを
兵事 政談 毎に蝶々するも
知らず 衣食の誰に頼りてか成るを

これは 七言絶句の漢詩「読史」ですが、ここでは書き下しました。
歴史家は、政治と軍人とのことばかり詮索しているようだが、大切なのは衣食を生産した者の事だ,それを忘れているのではないか、という意味です。
明治11年にこの詩を作っていますが,歴史を見るとき
庶民、平民の歴史も大切な事を言ってます。諭吉の観念的なものよりも、実学、技術重視がよくでてます。
○ 写真は函館の五稜郭、新撰組の土方歳三が戦死した函館戦争の城です。諭吉は家老の子息の奥平壱岐からベルの築城書を借り、無断で写しとり翻訳して緒方洪庵の適塾の学資の代わりにしてもらいました。    後に同じ適塾の大洲藩士武田斐三郎がこの諭吉の翻訳書を元に五稜郭を設計し初めて日本に洋式の城をつくりまし。 こんなとこは武士としての諭吉の顔がみえますね。 
福澤諭吉はこの無断で写しとりした為か、維新後奥平壱岐が生活が困った時に借りを返す意味でか援助してます。



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