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豊前奥平家の下級武士の諭吉のページです。武と文の両方について。
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諭吉の「天」 |
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は福沢諭吉の有名な文章ですが、学問のすすめの冒頭に出てきます。諭吉は下級武士として上級武士より何かと差別されるのに憤慨して人間の平等を高らかにうったえた彼自身の肌身から出た言葉のようです。この「天」は神様でなく「自然の法則」と思います。諭吉はあまり宗教には熱心でなかったので神様とは思えません。同じく下級武士の西郷隆盛は「敬天愛人」天を敬い人を愛すを信条としていました。この二人は会ったことがないようですが、諭吉は戦死した西郷隆盛に同情しています。その同情はこの「天」を思想の中心にしていることや同じ九州出身の下級武士で有った事からかも知れませんね。参考 大分県先哲叢書、福沢諭吉 写真は東京上野の西郷隆盛の銅像です。明治22年に隆盛は反乱の罪を解かれ名誉回復したので、薩摩の友人らが広く寄付を募り銅像を建てました。高村光雲作です。明治31年に除幕式が行われた時、出席した隆盛の奥さんは「うちの宿の人はこんな人じゃなか」と言ったそうです。隆盛は写真嫌いで写真も写実の肖像画も残っていません。この銅像のある上野で彰義隊の戦があり、諭吉は鉄砲の音を聞きながも慶応義塾の講義を続け学問を塾生にうえ付けました。隆盛は総大将で指揮をとり彰義隊を攻撃してました。 ○写真はwww.14.big.or.jp/より。了解済み |
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諭吉と海舟 |
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福沢諭吉と勝海舟は安政6年威臨丸で一緒の使節団でアメリカに行きました。つてを蘭学の医師の桂川に頼んで、軍艦奉行の木村摂津守の従者としてでした。海舟は後に西郷隆盛と江戸城を開城の談判して歴史に名を残したがその時は艦長であった。海舟は艦のことは奉行の木村より腕が上と上司を余り立てなかったようで、それで木村の従者の諭吉は海舟に良い印象を持たなかったらしい。木村摂津守とは終生恩義を感じて 交際したが、海舟とは全くつき合っていない。後に明治新政府の任官の要請を何度も断っています、譜代大名中津藩士、又幕府の翻訳方で幕臣となった諭吉は、新政府の高位高官となった海舟を許しがたった。その為か海舟の進退に関して批判の書を発表している。同じ威臨丸で荒海を渡った二人も維新後は全く違った道を歩いています。興味ぶかいものて゛す。 ○写真は咸臨丸の模型。蒸気軍艦咸臨丸はオランダ製で全長49.7m、幅8.5m100馬力でした |
幕臣 旗本の諭吉 |
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諭吉は自伝で述べているように「足軽よりは数等よろしいけれど、士族中の下級、今でいえばまず判任官の家でしょう」の下士の中小姓格でした。禄高は13石二人扶持でした。一人扶持は一日五合の支給です。赤穂浪士では前原伊助が同じ中小姓でしたね。でも遣米使節と、次に遣欧使節に従って行くうちに外国奉行支配翻訳御用と幕臣となりますと、禄100俵で勤役中は50俵の足高となり計150俵、約60石取となり、そして直参旗本になったと自伝にも書いています。本人の能力と努力も有りましたが、幕府は幕末には人材登用制度で譜代大名の下級武士を採用するほど革新的な面がありました。「門閥制度は親の仇でござる」とまでいった諭吉は以外と門閥の本家徳川幕府の中に中津藩よりもいこちの良い所を見付たものですね。 ○写真は皇居坂下門です。諭吉の仕事先の外国奉行所は西の丸にありました。今の新宮殿、宮内庁あたりになり坂下門から諭吉は登城した。そして300〜400通の幕末の外交文書を翻訳しました。 |
諭吉の旧宅 |
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写真は豊前中津藩城下現在の中津市の福沢諭吉の旧宅( 国の指定史跡) です。 旧宅はお城から遠くない下級武士の住宅街にある粗末なものです。中津藩の大坂屋敷で生まれた諭吉は父の死亡で中津に帰り少年期を中津ですごしました。でも下級武士の諭吉は住みこごちは良くなっかたようです。 「門閥制度は親の敵でござる」と言ったほどです。この旧宅の側の土蔵の二階の6畳ぐらいの屋根裏部屋で諭吉は勉強したようです。そこで学び、成長して長崎で、又大坂で蘭学を学びそして江戸にでてついには幕府使節に随行して、咸臨丸に乗ってアメリカに行き、啓蒙家の道を歩みます。壮年期になると少年期の嫌な思い出の中津を許したのか中津のために色々と行っています。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」の名文句は故郷の中津の為に、市学校を作った時の「学問のすすめ」の冒頭に書かれたものです。この家と土蔵の屋根裏部屋をみて勉学の厳しさと夢を感じます。 ○大分県hp「見ちょくれアルバム」より |
諭吉と「酒」 |
福沢諭吉は福翁自伝によると若いころは大酒飲みでした。大阪の適塾のころ今の試験に当たる会読が終わると仲間の塾生と、町で大酒を飲んだ。当時の人が食べなかった牛肉を塾生は牛鍋屋で食べて大酒を飲んでいたとある。そして江戸で成功したころは酒のきき酒の腕は相当なものになったと自慢しています。でも中年からは酒の飲み過ぎは良くないと酒量を制限してその苦しさを告白しています。明治になり母を東京に迎える為中津に帰った時、親類の国粋派の増田宗太郎(西南の役の中津隊隊長、城山で戦死) が西洋派の諭吉を暗殺しょうと家の周りでねらっていましたが、諭吉は来客と朝まで酒を飲んでいた為、増田は機会を逃し諭吉は助かった逸話が残っています。私も深酒をしないように先生を見習います。参考 福翁自伝 ○写真は中津城、中に史料、宝物館があります。 天正16年に黒田如水が築城を始め後細川氏が完成した。西南の役で焼失。昭和39年に天守閣を奥平10万石の藩主の子孫が再建しました。 |
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