作品画像
新しい波止場 (post card) 春待つ丘 (新世紀20回記念展 post card
                 ヨコハマ散歩

山手のレストラン

山手の外人墓地周辺は、エキゾチックと云う言葉そのもののステキな道である。

ここに立つと港は一望出来るし、道越しの十番館の建物も風景に実にマッチしていて、どんな方が建てたのか、人柄を偲びたい位だ。

また、近くには歌で有名な「港の見える丘公園」が全港を眺めさせてくれる。

山手の坂道と云われる元町への下り道は一番すばらしい場所であった。
樹間にマリンタワーがみえ、右に氷川丸、左に大桟橋をのぞみ、絵になる場所であったのに、今では港を見せないぞと云わんばかりに茶色の真四角な建物がふさいでしまったのはまったく残念でならない。

                               新世紀美術協会委員   川島實
         新緑の日本大通


ここは、秋になると私がいつもよく描きに来る所である。

イチョウの葉の色が、顔やキャンバスに真っ黄色に反射して明るいのである。

新緑の時は、意外に青葉が濃くて、周囲が暗くなるような気がした。

どうにも作品がまとまらないので、アトリエに持ち帰り、緑の淡彩を加えて見ました。

   市民グラフ No.30 1979
          横浜風景 秀作63選
山麓早春 (第五回日展 post card 街角のデンワボックス - カナダバンクーバー
池袋三越「川島実 近作展」 73.11.27〜12.2
雪やむ (第10回日展 post card)

円熟期には、仲間と「白亜会」を興し、三越等で個展を開き精力的に活躍した。

1980年没  
色と光にこだわった彼の名は 彩雲院日実居士 と名付けられた。

(晩年は名前の「實」を「実」に代えて使っていました)

豪放磊落な自由人で、お金があれば使いきるまで大名生活。
写生旅行に出たら、お金がなくなるまで帰宅せず。

しかし家族を愛し、肺がんで亡くなる前年まで会展や市民展等意欲的に制作活動をこなし、晩年の[雪の民家]は、佐久美術館に収められている。

1948年 日展初入選以降、連続30年間出展。

1949年 日展出品[野辺山風景]文部省買上げ

1963年 新世紀美術協会審査員

1965年 日本短波放送“海と船の描き方”講師

1973年、アメリカ、カナダ外遊。写実風の繊細な筆使いの綺麗な絵から、大胆な太いタッチの絵へと変化した。
当時周りに家も少なく、高台からは、一晩中明かりのついている家は、近所から、不夜城と呼ばれていた。

その後、手を広げた事業が、朝鮮戦争の影響で失敗

工場、家作、家、土地、全てを失い、友人の〔水野富美夫〕の紹介で、横浜に移住。
絵に専念する。

絵描きを志し、大久保作次郎先生に師事し、白日会に所属する。

第2次大戦で、北中南支に、兵役される。

戦後、副業(いろいろ手を出していた様子)の仕事があり、金回りのよかった實は、1946年頃田端に家を新築する。

この時代、人も、物も、集まり、居候が2、3人、書生が3人、女中さんが1、2人の生活が続いた。

明治44年生まれの川島實は、横浜中区に生まれる。

実の父が破天荒な人間で、関西方面から流れながれて横浜に辿りついた頃には母親の違う兄弟姉妹が、京都、奈良、神奈川、等に5人いたそうです。

関東大震災の時(小学5年生)、親からはぐれ、地震のゆれで倒壊した飴屋から転がり出て来た水飴のビンをかかえ、生き延びたと、、、、家族が聞いた、子供時代唯一の話です。

中学時代は川崎に住み、20歳頃東京へ、30代にかけて、日本画の大家、横山大観邸や明治の文豪夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介邸が近くにある、田端に住む。

同じ町内に、陶芸家の板谷波山も居たという文化、芸術的な刺激のある町だったらしい。

川島 實