
知多半島歴史研究所

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動力織機「夜明け前」発掘
実業家、佐吉を物心両面で支援
試運転までの「空白」埋まる
半田の小栗さんが出版
2006.7.31 朝日新聞「夕刊」
| 43歳の豊田佐吉 自信に満ち溢れる面構え、壮年佐吉の貴重な写真。 裏面に「豊田佐吉君」と墨書き。おそらく七代目藤八の筆。 |
60歳の豊田佐吉 昭和2年、佐吉60歳。勲二等瑞宝章を受章した折の写真か。 名古屋離宮で天皇陛下に単独拝謁。 |
| 七代目石川藤八 七代目藤八の肖像画、名古屋の絵師・道周画。 今回、初出の像。 |
九代目石川藤八 九代目藤八の肖像画。皇紀2601・昭和16年辛巳 1941とあり、藤八 57歳。今回、初出の像。 既存の文献には、この九代目が七代目として紹介されている。 |
| 浅子夫人 1877(明治10)年〜1936(昭和11)年1月。静岡県、旧山口村・林政吉の長女。 1897(明治30)年、佐吉と結婚。 写真の裏に明治39年3月下旬と墨書きあり。 |
浅子夫人と喜一郎・愛子 左より、長男・喜一郎、浅子夫人長女・愛子 |
| 豊田愛子 1899(明治32)年生まれ。 東洋綿花(現トーメン)児玉一造の弟・利三郎を養子に迎え、トヨタの基礎を陰から支えた。 |
豊田喜一郎 1894(明治27)年生まれ。佐吉の先妻・ためとの子。トヨタ自動車の基礎を創り出した。 写真は、左より、石川たき(藤八の娘)、喜一郎、愛子の乳母。 |
| 乙川綿布工場跡=手前の空地。 正面右の建物が社員寮。左側の平屋も旧藤八家所有=半田市乙川高良町 |
乙川綿布合資会社と石川藤八(豊田織機製作所「40年史」所載) 円内の石川藤八は、9代目のもの。佐吉と藤八の出会いは7代目藤八(本名・松本市松)であるから「動力織機の製作販売」の項目で掲載するのは誤り。ちなみに9代目藤八は大正9年、浜田真一らと合名会社「石川木工場」を創立。写真はその頃のものか。 |
| 7代目石川藤八 |
1864(元治元)年2月1日〜1914(大正3)年1月19日。
ほとんどの文献・資料には静岡県出身とあるが、実際は三重県尾鷲の網元の娘を母として生まれた。
| 8代目石川藤八 |
8代目は松本市松(7代目石川藤八)と、しげの娘・たきの養子に入り、8代目石川藤八を名乗った。
結婚後、早くに亡くなったためか、エピソードもその風貌もほとんど伝わっていない。
| 9代目石川藤八 |
1884(明治17)年〜1953(昭和28)年 69歳で没。
戦後まで活躍したので、多くの人が覚えているようです。
しかし、7代目藤八と混同しているようで、「豊田自動織機40年史」等に使用されている、7代目石川藤八として伝わっている写真は、9代目藤八に間違いないとご親戚の方がはっきり断言されています。
先々代の7代目石川藤八と佐吉との濃密な付き合いが9代目まで、まだ続いていたようだ。9代目は繊維組合の理事長も務めるほど社会的には人望もあった。
| 西川 秋次 |
1881(明治14)年〜1963(昭和38)年 83歳没
愛知県二川に生まれる。佐吉より15歳若く、利三郎より3歳、喜一郎より13歳年上。蔵前工業(現在の東京工業大学)紡織科卒業。佐吉の訪米に同行。大正7年佐吉に随行して上海に渡る。
以後上海における豊田の紡織事業の先頭に立つ。昭和5年佐吉逝去後も上海にとどまり、国民党政府(蒋介石)と事業継続し、事業を拡大させる。
| 豊田 佐吉 |
1867(慶応3)年〜1930(昭和5)年
佐吉は大変熱心な日蓮宗の信者であった。そして、報徳会(=二宮尊徳)の考え方にも深く心酔していた。「佐吉は、織機を買った人に親切だった。自分(鈴木利蔵)はしばしば、いいつかって据え付けに出掛けたが、その前に佐吉から据え付け方、扱い方などの一切を教えられ、細かいところまで注意された。そして帰ると『先方の満足するまでやって来たか』と、やさしく聞かれたものだった。」(鈴木利蔵「翁の印象」)
| 豊田 平吉 |
村中の人々に気狂(ママ)と言われ、両親に苦労かけ、妻を捨て、発明一辺倒の佐吉と違い、次男・平吉や三男・佐助は、何一つ愚痴をこぼさずに佐吉を心から支えたといいます。
平吉は、明治30年設立の「乙川綿布合資会社」成功の立役者であり、資金のない中から動力織機に必要な動力を探しあぐねた末、平吉のボイラーで織機を動かすことを思いつきます。
規則正しく動く機械を見ながら、佐吉は「これは長年苦しんで生んだ俺の子どもだよ!」と平吉に言ったといわれますが、おそらく二人は手を取り合って喜んだことでしょう。佐吉が浅子と再婚した年のことです。(「倒知出版」)
| 豊田 佐助 |
現在、名古屋市東区主税町に佐助邸として整備され、見学することができる。
長塀町・・・豊田佐吉邸 西川秋次邸(現・豊秋奨学会)※佐吉邸の東側
白壁町・・・豊田利三郎邸 豊田喜一郎邸※利三郎邸東側 盛田邸※利三郎邸南向い
主税町・・・豊田佐助邸※喜一郎邸一本南 森村市左衛門邸
撞木町・・・二葉館(旧・貞奴邸)※福沢桃介=福沢諭吉娘婿 矢田積邸(元・三井銀行支店長)
| 豊田 浅子 |
1877(明治10)年〜1936(昭和11)年1月
1997(明治30)年7月 結婚
「浅子が偉大だったのは、埃まみれになりながら『機屋のおかみ』役をこなし、会社が少しずつ大きくなるにつれて、自己革新して努力をしたことです。」おかみから奥様になりきり、佐吉が世界から注目を集めるようになると、それに相応しい賢夫人になっていきます。控え目で礼儀正しい聡明な人物であったことが想像できます。「自ら彫刻家について数年間、修行の末、見事に佐吉像を完成させたことでした。」
昭和10年胸像完成。(「倒知出版」より)
| 豊田 喜一郎 |
トヨタ自動車の基礎を創り出した佐吉の長男です。
しかし、喜一郎が乙川に残した足跡は、今のところどこにも見当たりません。
| 豊田 愛子 |
東洋綿花(現トーメン)児玉一造の弟・利三郎を養子にむかえ、トヨタの基礎を陰から支えた。
兄・喜一郎とは大変仲が良かった。
| 「中京名鑑」(昭和7年版)にみる 豊田平吉・佐助・利三郎・喜一郎 |
豊田 平吉
豊田 佐助
豊田 利三郎
豊田 喜一郎
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知多市岡田の木偶(でく=からくり人形)
豊田佐吉との関わり
●豊田佐吉が発明した豊田式動力織機は、岡田の竹内式動力織機(丸登織布の創業者・竹内虎王の発明)が基礎になったといわれる。(佐吉が竹内式織機を真似た。という論争もあったと古老の言い伝えもある。)
佐吉が、乙川の乙川綿布(石川藤八と共同経営)で豊田式動力織機を製品化したのは、明治30年とされるところから、佐吉は、石川藤八の乙川に来る前に、既に知多市岡田に来ていたことは容易に推測される。「岡田と佐吉の関わり」について、今後の調査・資料の発掘が必至となろう。
付記ながら、豊田式自動織機が岡田の木偶(からくり人形)がヒントとなっていることは否定できない事実とされる。
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| 研究テーマ「亀崎鉄工所と大逆事件」関連史料 |
宮武外骨と「滑稽新聞」
晩年の外骨(文字は外骨筆)
外骨の生涯の刊行物を収めた書棚の前で
(東大明治新聞雑誌文庫にて)
■「宮武外骨」に関する主な図書・書籍
| 書籍名 | 著者・編者 | 発行所 | 目次・主な内容 |
| 歴史ライブラリー95 宮武外骨 民権へのこだわり |
吉野孝雄 著 | 吉川弘文館 | 自由民権と「頓智協会雑誌」○「滑稽新聞」の闘い○日刊新聞の創刊と失敗○大正デモクラシーと外骨○廃姓外骨○戦中の外骨 |
| 宮武外骨 予は危険人物なり 宮武外骨自叙伝 |
吉野孝雄 編 | 筑摩書房 | 予は危険人物なり○偉大なる狂人の幼少年時代○鉄窓に秋月を見ること三年○肝癪を経とし色気を緯とす○確定罪人が無罪人と成る○我は金毘羅大権現の再来なり○予は断乎「姓氏」を廃業○自家性的犠牲史○天下武類明治文庫の要人○予戯れに「半米人」と称す |
| ちくまぶっくす50 過激にして愛嬌あり 「滑稽新聞」と宮武外骨 |
吉野孝雄 著 | 筑摩書房 | インチキ売薬「肺労散」○「滑稽新聞」創刊○官吏侮辱罪事件○日露開戦と「檜可斬」○荻警視収賄事件○"賂軍"とのたたかい○・日露講話条約○「大阪平民新聞」創刊○「滑稽新聞」自殺号 |
| 学術小説 外骨という人がいた |
赤瀬川原平 著 | 白水社 | 宮武外骨ってこれ、人の名前か何なのか○スコブルおかしな雑誌である○入獄四回、罰金と発禁で二十九回○むしろ滑稽投票を可とす○私はまだ女学生にはなりたくない○私、ついに外骨となる!○いよいよ「滑稽新聞」である○紙の上のパフォーマンス○文字のツラで意味の世界をぶっ叩く○死とエロス、そして死とグロス○闇に隠れた門の中の音は見えない○明治空前へのワープ・外骨先生かく語りき |
| 宮武外骨・滑稽新聞 全6冊 |
赤瀬川原平 吉野 孝雄 編集 |
筑摩書房 | 第1冊 第1号〜第30号 明治34年10月〜35年6月 第2冊 第31号〜第60号 35年7月〜36年10月 第3冊 第61号〜第89号 36年11月〜38年2月 第4冊 第90号〜第116号 38年2月〜39年6月 第5冊 第117号〜第145号 39年6月〜40年8月 第6冊 第146号〜第173号 40年9月〜41年10月 |
| 宮武外骨・滑稽新聞 別冊 絵葉書世界 |
赤瀬川原平 吉野 孝雄 編 |
筑摩書房 | 墨池亭黒坊・なべぞ・米野白水・高砂太夫 竹下夢二・絵師不明 |
■宮武外骨略歴
慶応3年(1867)讃岐生まれ。明治から昭和にかけて活躍した反骨のジャーナリスト。明治22年に発行した「頓智協会雑誌」に帝国憲法のパロディを掲載して不敬罪で入獄3年。以後「滑稽新聞」「牝花」「筆禍史」「猥褻研究会雑誌」「スコブル」「赤」「変態知識」「面白半分」など次々と発行。生涯の刊行点数は1000点近い。奇抜な表現と方法で権力を比喩し続け、入獄4回、罰金、発禁などの筆禍29回。晩年は東大法学部内に明治新聞雑誌文庫を創設、その蒐集と保存に尽力した。1955年没。
(「予は危険人物なり」より
◆「滑稽新聞」の小野村夫について
小野村夫(おのむらお)が、大阪で「滑稽新聞」を創刊したのは明治34年1月であった。小野村夫というのは、讃岐阿野郡羽床村大字小野の出身者だからというので名乗ったペンネームである。本名を宮武外骨という。幼名は亀四郎。明治17年18歳の年、操觚者(そうこしゃ=ジャーナリスト)として生きる夢にもえていた頃、中国の「康煕字典」をめくっていて、亀は「外骨内肉」の動物であるという一項を見つけ、親の反対を押し切って改名してしまった。
(「過激にして愛嬌あり」より)
◆「滑稽新聞」のスタッフたち
滑稽新聞社の組織は「滑稽新聞」の記事によれば、発行部・編集部・広告部・告白部・意匠部・通信部の六部に分かれていたと書かれている。しかし、関係者の証言によれば、組織のようなものは実際には存在せず、主筆小野村夫、あるいは村夫子(そんぷうし)を名乗る宮武外骨を中心に、助筆者・画工・探偵記者など、ほんの数名のスタッフで運営されていたようだ。しかも、本名が判明しているスタッフは数名にすぎず、あとは、ペンネームしかわからない投書家ともスタッフともつかない人たちが、入れ替わり立ち代り出入りしていたものらしい。小野村夫とは、外骨が香川県綾歌郡小野村の出身であることから名乗った「滑稽新聞」時代のペンネームである。
印刷を担当した福田友吉以外に、「滑稽新聞」のスタッフとして本名がわかっている人物は、三好米吉、溝口駒造(白羊)、板橋菊松、森近運平の4人である。
「覓牛(べきぎゆう)」の号で論説を書いている森近運平は、いわゆる「大逆事件」の被告の一人として刑死された社会主義者である。外骨が森近と知り合ったのは、明治39年12月に、友人の吉岡哲夫、中井隼太、乾吉次郎、日野国明の4名とはかって社会主義研究会の顧問として、東京の平民社から森近を大阪に招いたことがきっかけであった。森近運平が「覓牛」の号で「滑稽新聞」の論説を書くようになるのは、明治40年(1907)6月発行の140号からで、以後13編の論説を書いている。
(宮武外骨 民権へのこだわり」より)
◆社会主義への接近と「大阪平民新聞」の創刊
社会主義研究会は、同年5月1日のメーデーを期して機関雑誌「活殺」を創刊し森近にその編集をさせる。しかし、掲載論文の是非をめぐり同人間で仲間割れが生じ、「活殺」は創刊と同時に廃刊の運命をたどる。そこで外骨は約5000円の自己資金を投じて「大阪平民新聞」を創刊させ、森近にその編集を担当させたのである。「大阪平民新聞」はやがて「日本平民新聞」と改題され発行を続けるが、1周年記念号を次号にひかえ、発行所を東京に移してさらに発展をはかろうとしたやさき、23号付録の「農民のめざし」が出版法と新聞紙条例違反で起訴され、編集人の森近が堀川監獄に入獄、廃刊の運命をたどることになる。
「大阪平民新聞」=「日本平民新聞」発行中の約1年間に、宮武外骨が援助した金額は月に40円から50円、通算すると約5000円にものぼる大金であったという。米価に換算しても現在の1600万円ほどの金額になる。「滑稽新聞」であげた利益の一部がその資金にあてられたことはいうまでもない。
堀川監獄を出獄した森近は、明治41年5月2日、土佐中村に帰郷中の幸徳秋水を訪ねるといって大阪を発ち外骨と別れた。それが外骨との最後の別れとなった。やがて大逆事件での森近の刑死を知った外骨は、この時の縁をもとに、昭和21年(1946)12月、明治社会主義文献叢書の1冊として「大逆事件顛末」をまとめ、無実の立証を企てたのである。
(宮武外骨 民権へのこだわり」より)
| 宮下太吉研究 |
●1876年―1911年1月23日
小学校を卒業後、鍛治屋見習。熟練の機械工であった。
社会主義文献に触れる前から労働者がおかれている環境に疑問を持ち、「日刊平民新聞」を入手し、さらに労働者の組織化に目覚め、職場に組合を結成し「亀崎鉄工所友愛義団」と名付けた。
1907年12月13日、森近運平に会い久米邦武の「日本古代史」を見せられ「皇室崇尊の思想は迷信である」と学ぶ。
1908年1月には片山潜の講演会も地元で主催したが、片山の議会主義には納得しなかった。2月には再び森近を訪れ、秘密出版されたローレルの「総同盟罷工論」を貰う。11月には内山愚堂から「無政府共産、入獄紀念、革命」が送付される。宮下は、その内容に大いに共感し、11月10日の天皇列車を見送る住民に天皇神話を崩そうと配布。
宮下は森近らとの交流、内山愚堂の「無政府共産」から学び天皇の存在が労働者、小作人、戦争に駆り出される人々を苦しめている元凶だと認識。1909年2月巣鴨の平民社を訪ね、幸徳秋水に初めて会い、天皇ムツヒトの暗殺を計画していることを話す。
大逆事件で逮捕後、宮下は予審でこれらの交流、活動の一端を供述し、それは大審院の虚構の判決理由に組み込まれていく。宮下は命を賭けて革命のための礎になろうと決意。煙山専太郎の「近世無政府主義」を読み、ロシア皇帝アレキサンドル二世の暗殺場面を天皇ムツヒトへのそれと重ねた。
1909年2月には薬品の性質や、火薬の製法を調べ始める。4月13日「平民社」にクロポトキン著、幸徳秋水訳の「麺麭の略取」を注文。4月18日「法律と強権」と共に受け取る。5月25日には幸徳宛てに「研究によって爆裂弾の調合が判った・・・主義のため斃れる・・・」と手紙を書き6月6日には千駄ケ谷に移った平民社を訪ねる。
「私は、幸徳、菅野すが両人に対し、爆薬の調合も判ったから、いよいよ爆裂弾を造って、天子を斃すと申したるに、幸徳も菅野も之に同意しました。もっとも幸徳は自分も一緒に、加わってやると明言しませんでしたが」と供述している。
この6月の平民社で話し合い以降、宮下の活動は爆裂弾の材料集めと製造に集中。11月3日明科の大足山中で爆裂弾を試発。
1910年1月1日、宮下は前夜より平民社に滞在し、幸徳、菅野、新村忠雄と午後3時頃まで談論し、ブリキ容器を握り畳の上に投げつけるという爆裂弾の試投もどきを行なう。
1月23日古河力作が千駄ケ谷平民社を訪れ、天皇の馬車襲撃の方法が相談されるが時期は「本年の秋季」と漠然としていた。宮下は参加していない。
以降宮下は新村と接触続けるが平民社はその間に解散。4月23日、菅野は「もう一度、爆裂弾を試験して欲しい」と湯河原から宮下へ手紙を出す。宮下は製材所の鍛治工場で同僚新田融にブリキ缶の製作を依頼、24個を製作。
5月14日、新村の明科入りを駐在の巡査が察知、尾行。5月20日、宮下を駐在の巡査と刑事が訪問。「爆発物を製造したるものなりと思料し」と下宿が任意家宅捜索されブリキ缶3個が発見される。
宮下は同僚の清水市太郎を訪ね「天皇巡幸の時に投げつける。菅野、新村と自分の3人でやる。天皇節にやる予定だ」と語る。
5月21日、宮下は爆弾の材料を工場に移す。清水は製材所所長に宮下の件を密告しようとする。5月23日、松本警察署長は宮下太吉に関わる爆発物取締罰則違反容疑の報告書を受け取る。5月25日午前6時刑事、巡査が清水宅を急襲、清水は宮下の計画を話す。午前10時から11時まで明科製材所を承諾捜査。宮下太吉が午後3時過ぎに逮捕される。
新村たちも逮捕され5月31日検事総長に7名(宮下、新村兄弟、菅野、新田、幸徳、古河)が「刑法73条に該当する犯罪」として送致される。幸徳は6月1日刑法73条にて拘引。宮下は取り調べ供述を始め、爆弾製造と皇室が目標だと認める。
12月10日大審院公判が始まる。1月18日死刑判決。19日大杉栄に「文明とは人命の下落の由に候」とハガキを送る。1月24日絞首、執行寸前「無政府党万歳」と叫んだと伝わる。
参考文献「秘録大逆事件」塩田庄兵衛編 春秋社 「革命伝説」神崎清
(Webサイトより)
| 宮下 太吉 | http://menbes2.jcom.home.ne.jp/anarchism/miyashita-2.html |
| 大逆事件・幸徳事件の 全体 |
http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/koutoku-giken.html |
| http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/index.html |
郷土読本「はんだ」に見る宮下太吉と大逆事件
●労働運動の芽生え
近代工業が発達するにつれ、商工業で働く人が増え、半田地域では、明治の終りには、商工業人口が約半分を占めるようになった。しかし、労働者は、安い賃金でみじめな労働条件の下で働いていた。この状態を改善し、自分たちの生活を良くするために、労働運動やそれに結びついた社会主義運動が起った
明治41年に亀崎で、船員300人余りが参加した大規模なストライキがあった。このころ海運界は不景気になって、船の運行する日数が少なくなり、収入も減ってきた。船員たちは、一航海一人につき12円50銭を15円にし、他に一船5円の手当てを支給するように要求した。半田警察署から何度も刑事が様子を探りにきたが、結局亀崎町長の仲立ちで、要求に近い14円に値上げして決着がついた。このストライキの様子は、社会主義者として活動していた宮下太吉によって、大阪の「日本平民新聞」に報告されている。
彼は亀崎鉄工場の腕の良い職人であった。亀崎鉄工場は、広い敷地に最新の機械を備えた近代的な工場であったが、彼はそこのほとんどの職工を組織して「友愛義団」という組合をつくった。これは、愛知県の労働運動の先駆けとして注目される。そして、宮下は幸徳秋水の影響を受け、社会主義を実現させるため、明治天皇の暗殺計画を立て、明治43年(1910)の大逆事件で逮捕され、処刑されている。
●政談演説会
明治時代に、半田地域で初めて政談演説会が開かれたのは、自由民権運動が繰り広げられたころである。半田地域にも、低調であったが自由民権運動の波が押し寄せ、自由党の幹部の一人である星亨(ほし とおる)がも成岩村を訪れ講演している。また、明治17年に半田村で政談演説会が9回行なわれている。その内容は詳しくわからないが、多くは明治政府を非難するものであった。
その後明治41年に、亀崎の相生座(あいおいざ)と、半田の葉住座(はずみざ)で演説会が開かれている。宮下太吉が社会主義を広げるために、東海道を遊説中の片山潜(せん)を招いて行なわれた。相生座では友愛義団100人の他、亀崎町人350人、葉住座では250人の参加があった。片山潜は遊説の後、「至るところで国民の自覚を見出した」と、この会が盛んだったことを語っている。
(郷土読本「はんだ」 平成5年3月31日発行 半田市郷土読本改訂編集委員会編集 半田市教育委員会発行)