御成街道の宿場


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宿場とは


 ”宿場”とは、”駅”とも呼ばれ、旅行者のための休憩、宿泊の施設や、人馬の輸送機関のある集落をいう。宿場が急速に発達したのは、慶長6年(1601)に東海道の各宿に1日伝馬36疋ずつを提供する義務を課してからであり、その後、中山道などの主要街道にも次第に整備されていった。他の脇往還(脇街道、脇道ともいい、幕府直轄の本街道=五街道に対して、これより分岐、またはこれに接続する街道)の宿場の多くも、寛永期(1624〜44)には成立したようである。
 千葉周辺には、千葉町(市場町)を始め、検見川村、馬加(まくわり・現在の幕張)村、寒川村、登戸村、蘇我野村(または曽我野村・現在の蘇我)、浜野村、犢橋村、野田村(現在の誉田)、中野村(和泉)、土気村の11ヶ所の宿場があった。
 この内、千葉町は、江戸街道、東金街道、房総街道などの街道が集まる交通の要所であり、寒川、登戸、馬加、検見川、蘇我野、浜野などの村は江戸や浦賀、房州への積出港として栄えた。
 ここに取り上げる”犢橋(こてはし)村”は、本郷、米之内、新田、広尾の4つの部落からなり、千葉周辺の内陸部落としてはかなり繁盛した”宿場”であったようだ。この村に、多くの人が住み、町並みが整えられたのは、江戸時代初期(慶長から寛永期)に”御成街道”が造成され、”人馬継立場”に指定されて以降のことである。

 



犢橋村宿場

 

江戸時代の犢橋村

 天保14年(1843)6月の「犢橋村差出明細帳」(町野九衛家文書)によれば、村高は734石1斗6升9合であり、これを「篠田藤四郎御代官所」、「鳥井甲斐守様組与力衆御給地」、「小栗左近様御知行所」、「吉田収庵知行所」、が支配し、代官=1、与力給地=1、旗本領=2の相給地であった。
 吉田収庵知所の「田畑等級別割合」を見ると、田畑ともに下級のものが多い。また、村内は、灌漑設備が行き届いておらず、「留井用水」もなかったため、しばしば水不足に悩まされていたようである。このため、農業生産力は低く、農民たちの生活は、かなり苦しかったことが窺える。
 犢橋村の家数は、「一一九軒 、人口は五五一人」であり、当時、農業や交通の重要な動力である馬は、72疋であった(天保14年「犢橋村差出明細帳」)。村内には、長福寺(真言宗)と神照寺(真言宗)の2寺があり、村民から深い信仰を集めていた。長福寺には寺子屋が設けられ、上級村人の子息の教育に当たり、神照寺境内には大きな松があり、千葉港(検見川、登戸、寒川、蘇我野)に入る船の目標ともなっていた。
 村々の年貢米は、道のり1里余り(約4q)の”検見川村”や約2里(約8q)ある”船橋村”まで馬で運ばれた。当時は、年貢米は集積所まで5里(約20q)以内の村では、農民の負担によって運搬しなければならなかった。同村の農民たちは、米作だけでは生活出来ず、「麦、小麦、菜種、又は粟、稗、さつまいも」などの畑作にも力を入れ、収穫期には、これらの農作物を江戸まで持って行って売り、収入を得ていたという。また、農閑期には、男は同村の山林(1町6反=約1ha、2ヶ所)の「真木、松葉など」を伐り出し、検見川まで運び、女は塩俵を編み、5里(約20q)も離れた行徳まで持って行き、これらを売ることにより生活の糧としていた。
 このように、江戸時代の犢橋村は、「代々、貧乏村」(土地の古老の話)であったため、農民たちは1年中、何らかの労働をしなければ生活が維持出来なかったようである。ただ、村民たちは、村内にある”地蔵堂”(地蔵様、閻魔様、子安様、不動様)の縁日である10月23日と正月三ヶ日は、働くことをやめ、名主や百姓代の家に集まり、1日中、酒を酌み交わしながら会合(寄合)がもたれた。しかし、これらの日々にしても、ただ享楽的に過ごすのではなく、神に対して農作物の収穫に感謝し、来年の豊作をお願いするためのものであった。

 

 

宿場としての犢橋村

 犢橋村は、江戸日本橋まで8里余り(約32q)あり、主要街道は、慶長19年(1614)に完成した”御成街道”であった。この街道の村内の距離は「19里58間」(約2q)、道幅が3間半(約5・5m)であるが、当時、ところによっては道幅が狭く、軟弱であり、雨でも降ればたちまちぬかるみ、馬などの通行は不可能になるほどの悪い道であったという(土地の古老の話)。
 同村は「御鷹御促飼場」(鷹匠が実地訓練をする鷹場)であったため、冬になると、多くの鷹匠が、同心50人、野廻り役23人など、約100人の同勢を連れて訪れた。これらの人々の宿泊所には、各農家があてられた(町野久衛家文書)。その他、人馬の提供や上ヶ鳥と呼ばれる鷹の餌となる鳥の供給も、村の義務とされた。この負担も大変だったようで、京伝の「通言総まがき」に「こわがるものは、お鷹匠のお泊り」とある。また、ある者が、鷹匠や鳥見が、その権威をかさに農民を騒がせているとの訴えに、家康は、「随分威を張るがよし。かれらさへかかれば其上つかたの官長は猶さらの事とおぢ恐れて異心を抱く者なし、百姓の気まままなるは一揆をおこす基なり。さればとて鷹匠・鳥見はたまた代官等が、非法の挙動する捨置かば百姓難儀になれば、難儀にならぬほどにして気ままさせぬが百姓共への慈悲なり」(「校舎雑記」)と答えたとある。
 また、同村は、「人馬継立場」でもあった。これは、旅行者やその荷物の運搬、公用の書状を運ぶために、一定の人馬を用意しておくよう義務づけられたところである。人馬の継立ては、公用通行の貨客を優先するとともに、原則として前宿から後宿へ、一宿ごとに継ぎ送るというリレー方式がとられていた。
 このため、宿と宿とは、ある程度、間隔をおいて設けられた。江戸時代の宿場町の分布を見ると、江戸より半日ぐらい要するところに、昼食のために休憩する必要から「中宿」が置かれ、その約2倍、すなわち1日の行程のところに、宿泊のための「大宿」が設置された。律令制における「宿駅」は、原則として諸道の30里(当時の1里は6町)ごとに設けられたが、地形の状況によって、かなり長短の差が見られた。江戸時代における宿間の平均距離は、東海道が2里11町弱、中山道が2里32町であり、千葉周辺の宿場も、だいたい2里ごとに置かれていた。
 「継立場」に指定されると、宿内の全農民が人馬を提供することになる。宿では、1年に1度、村民が「寄合」を行い、その年の馬役、歩行役、問屋(人馬の継ぎ立ての一切をつかさどる)などの役目が決められた。また、必ず指定された人馬を準備しなければならなかった。東海道では、1宿に100人100疋、中山道と美濃路は50人50疋、日光・甲州・奥州道などでは25人25疋であった。この人馬は、たとえ公用通行者が少なかったとしても、常に待機させておかなければならなかった。
 犢橋宿の人馬の数は、史料がないため不明であるが。江戸時代の始めには、村高100石につき2人2疋の割で徴発され、その後、次第に多くなっていったとあり、また鷹匠や同心が「御鷹場御促飼場」を往還する時には、鷹匠2人につき1人1疋、同心には3人につき1人1疋を提供するとあるところから、だいたい10人〜20人、10疋〜20疋の人馬が用意されたものと思われる。
 これらの人馬も、公用通行者が多くなれば不足するため、近くの村々を「助郷」村として指定し、人馬の提供を義務づけた。犢橋村の「助郷」には、同村から2里位(約8q)離れた宇那谷村、西寺山村、作草部、東寺山村、殿台、荻台村の6ヶ村が指定された。助郷に対しては、通常、賃銭の半分程の「御定賃銭」が支払われたに過ぎず、また、助郷村では人馬勤めに村の財政の中から、「一日一人につき米一合、馬一匹につき米一合宛」(延享3年=1746年)を差し出さなければならなかった。このため助郷村では、その負担が大きいため、休役を願い出たり、助郷の負担のない村を指名して、自村の代わりをしてもらおうとしたりしたが、指名された村は、あらゆる口実を設けて拒否するなど、助郷に関する争論が絶えなかった。

 

 

 

犢橋村の景観

 宿場は”人馬継立て”のほかに、旅行者の休憩のための「茶屋」や、宿泊のための「旅籠屋」などの施設を設けなければならなかった。このため、「宿場」の一般的な町並みとしては、ほぼ中央に「問屋場」があり、その左右の両側には、旅籠屋、茶屋のほか、水茶屋、荒物屋、煮物屋、酒屋、餅屋、煙草屋、など、旅人相手の店が軒を連ねていた。ただ東海道を除けば、これらの店のほとんどは、専業ではなく、農業との兼業であった。つまり、店の収入だけでは生活が成り立たなかったのである。
 犢橋村を通る”御成街道”は、脇往還であり、参勤交代のための大名行列が通ったという記録もなく、また、追い剥ぎが出るとの話から、年貢を納めに検見川や船橋に向かう必要のあった九十九里方面の農民もこの道を使いたがらなかったため(やむなくこの街道を通らねばならぬ時には、死出の旅になるかもしれないと、出発の際、親子別れの盃を酌み交わしたほどであったという)、人馬の交通は、さほど多くなかったようである。
 そもそもこの街道は、家康の鷹狩りのために造成されたものであり、鷹狩りに向かう、将軍(大御所)、大名、鷹匠、同心、といった人々の利用のみを考えて造られたようなところがある。将軍(大御所)の御成りのある秋から冬にかけては、利用者が急増したとの話もあるが、将軍御成りの際には火を焚くことが禁止されていたため、村民たちは、早めに戸を閉め、床に入ったとの伝承があり、賑わいには欠けていたようだ。この頃、犢橋村は、まだ宿場としての町並みは形成されていなかった。
 この村が、宿場として指定されたのは、寛永期(1624〜1644年)であり、街道の利用者は、幕府の役人、鷹匠、同心をはじめ、年貢米を納めに向かう農民、九十九里の海産物(魚類やほしかなど)を江戸へと運ぶ商人、”花嶋観音”や、”長沼観音”などへの寺社参りの旅人などが主であった。
 九十九里方面の米や魚類などを馬に乗せ、犢橋村の「問屋場」(「伝馬場」、「馬締」ともいう)に着くと、まず問屋や年寄などの「宿役人」が荷物の目方を量り、駄賃(駄馬につけて送る荷物の運賃)を定め、人馬の継立てを行う。普通、問屋場には、一切の事務を管理する問屋(名主が多い)や、この問屋の補佐をする年寄(村の組頭が多い)、人馬の出入りや賃銭などを明確に記入する帳付、人馬の割り当てをする馬指というものがいて、旅行者の世話をしていた。
 人馬の継立ては、公用通行者に人馬を提供するものであるが、「御朱印」(将軍の朱印状)のあるものと、「御証文」(幕府の役所の証明書)のあるものは、無賃で人馬を使うことが出来る。同じ公用通行者でも、この2つのものがない時には、荷物の目方や人馬の数に応じて、「公定賃銭(御定賃銭)」が必要とされた。この「御定賃銭」は、その宿から次の宿までの賃銭であり、値段は問屋場の前に掲示されていた。ただ、この賃銭は、あくまで公用の荷物のためのものであって、私的な荷物は、2倍以上もの賃銭を支払わねばならなかった。これは、宿場での損失分を私的な荷物の運送によって補わざるを得なかったからである。
 また、人馬の継立ては、公用交通の貨客が優先されたため、私的な物資の輸送にはかなりの日数を要することが多かった。このため、この物資の輸送にはかなりの日数を要することが多かった。このため、この物資を迅速に運送することを目的とした「駄賃馬」という私的な運送業者も現れた。彼らは駄賃稼ぎを専業とするのではなく、農民が農閑期に副業として自分の持ち馬で運ぶというのがほとんどであった。
 「問屋場」の近くには、旅人の宿泊のための「旅籠屋」や「茶屋」があった。午後になると、旅籠屋の前には華美な服装をした「宿場女」が、休泊のための客を呼びとめていた。 当時、旅人が「旅籠屋」に入ると、土間で足を洗わされ、部屋に案内された。旅籠とはいえ、部屋は薄暗く、客の多いときには相部屋が一般的であった。間もなく酒と夕食が出され、「飯盛女(法令では、「食売女」、「飯売女」)」が接待に当たった。
「旅篭屋に抱えて置く食売女は、二人を越えては置かない」(文政8年「関東取締出役令」)ということになっていたが、犢橋宿の旅籠屋「渡邊」では、他村から来た2〜3人の食売女がいたという。また「右女(食売女)の衣類は、木綿のほかには決して着用させない。前垂を掛けさせ、みだりな風俗はさせない」( 文政8年「関東取締出役令」)と、幕府は、食売女が派手な服装をすることを禁じたが、犢橋宿では、宿泊する旅人が少なく、旅籠屋も2軒あったため、客引きの必要から、守られなかったようである。
 夜道を歩くことは非常に危険だったため、旅人は、早めに宿屋に入ったようだ。旅籠も「夜の五つ(午後9時)」を過ぎると客を泊めなかった。「朝は六つ(午前4時30分)立ち」というように、夜明けとともに出発するのが一般的であった。「夜明け時七つ(午前3時)前の早立ち」は禁じられていた。
 「茶屋」は、素通りする旅人のくつろぎの場であった。犢橋宿にも「新茶屋」という休憩所があったが、街道よりも少し奥に入ったところにあったため、街道沿いに派手な身なりをした「茶屋女」が2〜3人立って、客の呼び込みをしていた。また、名こそ「茶屋」であれ、酒も売られ、昼間から夜遅くまで「茶屋女」の三味線に合わせて歌う旅人の声が、街道にまで響いていたという。(土地の古老の話)
 茶屋の営業時間は「明六つ(午前4時30分)から暮六つ(午後8時)までとし、日が暮れて客を置くことは禁止」(延宝6年「御触書寛保集成」)されていたが、犢橋の「新茶屋」は、茶屋だけでは商売にならないので、休憩所と宿屋とを兼ねていたようである。 このほか、犢橋宿には、旅人や宿場主の必需品を売る「荒物屋」を始め、「呉服屋」、「餅屋」、「飴屋」、「湯屋」、「豆腐屋」などが街道に立ち並んでいたが、宿場としては、規模が小さく、店種も少ない。宿場の長さは、東海道最長の戸塚宿の20町余(約2q)はもちろんのこと、同最短の由比宿の5町半(約600m)と比べても遙かに小さく、僅か1町半(約200m)に過ぎない「小宿」であった。
 これまで犢橋村は、3回もの大きな火災に見舞われたため、宿場の史料はほとんど残っていない。また、六方野(若松町)の軍用地造成(明治19年以後)のため街道も拡張され、当時の姿を見ることは、今では不可能に近くなってしまっている。

 

 

 

 



中田村継立場

 

江戸時代の中田村

 中田村(千葉市若葉区中田町、御殿町)は、利根川支流鹿島川上流の台地上にあり、現在、内陸部は、市街化調整区域のため大幅な家数の増加が見られず、今なお農村の様相をとどめている。
 天保9年(1838)頃の「中田村・宮田郷・川崎郷絵図」(若葉区古泉町・仲田勝巳家文書)を見ると、村の東端の鹿島川が流れ、3つの谷津(浅間下、市場谷、前谷)が北から南にかけて大きく切り込み、中央部を東西に御成街道が走っている。北側と東側の台地上に集落(川崎郷、本郷、宮田郷)があり、中でも本郷には字稲葉(いなば)、字集地(しゅうじ)、字谷部田(やべた)の3つの集落がある。
 西側の台地上には「郷山」、中央部には古泉村(若葉区古泉町)との入会地(字宇津志野)や、「馬放し場」が広がり、内野、荒畑も見られる。また、御林(宇津し野、市場、谷原、松堀米、大林、宇津しの新林)も広い範囲に点在している。
 この村の支配について、大正15年(1926)の『千葉郡史』の更科村の項に、
 「足利時代、千葉氏の所領なりといふ外、記録の徴すべきものなし。徳川時代の初期には堀田氏の所領なりしが、中期以後は次の如く南北に分かれたり。
  北部 堀田氏 一一七〇石四八九九
  南部 戸田氏 一七九五石五三四二」
とあるが、『寛政重修諸家譜』の旗本・滝川一時(八郎、久助)の項によると、
 「(文禄)二年(1593)、下総国芝原・五反田・板川・上大蔵・中田・富田・谷津山田・和田・成山郷等のうちにをいて采地二千石を給ふ」
とあり、秀吉の家臣であった一時が、文禄元年(1592)に秀吉の許諾によって家康側につき、翌年、中田村などの領地を賜ったという。
 のちの寛永10年(1633)に、旗本・北条正房(初氏長、梅千代、新蔵、安房守。岩富城主・北条氏勝の孫)もこの地を知行し(相給)、元禄12年(1699)には旗本・戸田忠章(初忠定、忠朝、大学、大和守、土佐守。佐倉藩主・戸田忠昌の5男)が支配したといわれ、『寛永重修諸家譜』の戸田忠章の項には、
  「(元禄)十二年閏九月二十二日、父忠昌が遺領河内国(大阪府東部)志紀・丹北、下総国千葉・印旛四郡の内に於て三千二百石をよび新墾の田三千八百石を分かちたまふ」とあり、元禄12年以後、幕末までこの戸田氏の所領であった。
 村内の3つの集落(中田村本郷、宮田郷、川崎郷)について、宝暦13年(1763)8月の「中田村差出帳」(新潟県真野町・逸見登家文書)には、
 「一、当村之儀は、享保十四酉年(1729)分郷仕、中田村之内宮田郷、同村之内川崎郷と引分名主三人にて相勤申候。然れど共、御公儀御用向並上納物御勘定之儀は中田村一紙に仕来申候」
と、記されている。宮田郷と川崎郷(若葉区更科町)は、享保14年(1729)に分郷し、それぞれ名主・組頭・百姓代の村方三役を置き、独自に村政を行っていたが、御用人馬や年貢割付などの公的御用の際は、ともに中田村内の集落であるとされ、独立した2村とは認められなかった。
 元禄11年(1698)5月の「仲田村指出帳」(中田村・鳥海和家文書)を見ると、
「一、高五百三拾弐石五斗弐升四合」
とあり、田畑の等級では、下田・下畑が約60%を占めていて、名こそ「中田村」であれ、実際は下田の村であった。
 この村の年貢米は、天保4年(1833)12月の「巳年御帳下書」(若葉区古泉町・仲田一家文書)によると、中田村と宮田郷が曽我野浦(千葉市中央区蘇我町)の七郎兵衛へ、川崎郷が寒川浦(中央区寒川町)の仁右衛門へ運び、ここから江戸浜町の戸田役所に津出しされ、戸田氏の飯米や家臣の給米に当てられていた。
 村内には、用水普請所が大小12ヶ所、土橋が大小11ヶ所、地頭林が6ヶ所、惣構六拾間四方の御茶屋御跡、御成街道沿いに大小58本の松並木があり、大石寺(静岡県富士宮市、日蓮正宗総本山)末寺真光寺と御霊宮(好円坊支配)、弁財天宮(真光寺支配)、天神宮(高林坊支配、恵光坊支配)、大六天宮(高林坊支配)、八幡宮(高林坊支配)、山王宮(百姓・主計支配、恵光坊支配)、稲荷宮(恵光坊支配)の寺社がある。
 次ぎに、村人の様子を前述の「中田村差出帳」で見ると、
「一、家数 百壱軒 内拾五軒水呑
 一、人数 四百九人 男 百九拾九人  女 弐百六人
           僧    三人    座頭  壱人」
とあり、三集落別の家数や、人数などを安政2年(1855)の「下総国川井村古泉村組合村々地頭性名其外書上帳」(若葉区川井町・石原憲男磨家文書)で見ると、
 

村郷名

中田村

川崎郷

宮田郷

家数

49軒

32軒

20軒

140人

86人

70人

145人

78人

57人

285人

164人

127人

女馬

14疋

10疋

6疋


と記されている。また、中田村本郷の集落ごとの家数を前述の「中田村・富田郷・川崎郷絵図」で見ると、谷部田に15軒、集地に22軒が描かれ、御成街道沿いの集落(稲葉)には、真光寺を中心に9軒の人家があった。
 御成街道沿いには高札場(字稲葉、真光寺入口付近)があり、郷蔵が中田村(字稲葉、真光寺の前)、川崎郷(字駒込)、宮田郷(字宮田)、の3ヶ所にあった。田の仕付けは、早稲と中稲が約3分の1、晩稲が約3分の2で、農間稼ぎとして男は薪作り、山稼ぎをし、女は木綿の着料をしていた。
 この他、村内にある6ヶ所の御林は戸田氏の所領で、村人が管理し、普請などのときの用材として用いられたり、村人たちがお金を出して下草や小枝を買い入れ、薪や肥料、飼料などに使ったりしていた。
 また、役人が来村のときには、人馬を3里先の犢橋村と、2里先の千葉村に送迎していたという。

 

 

継立場としての中田村

 中田村が「継立場」になった時期について、文久3年(1863)10月の「小金町当分助合御免除再歎願御差出控」(船橋西図書館蔵)に、
 「慶長十九年寅正月、東照御神君様(家康)、上総国東金町え初に被為在御成候節、新海道(御成街道)御切開相成、駅場、定助郷等も被仰付候以来、新街道と相唱、其後、御成街道並還御の砌被為在、御休泊等候、御殿跡、今以歴然有之候にて、御継立御用相勤(以下略)」
とあり、慶長19年(1614)1月に家康が東金辺に鷹狩りに来たとき、継ぎ立ての御用を勤めて以後、「継立場」になったという。この史料は、幕末のものであるが、かなり早い時期に継立場としての機能を果たしていたのは事実であろう。
 この村の継ぎ立てについて、前述の「仲田村指出帳」に、
 「一、当村御伝馬、東金え三里、金親え壱里、相勤申候」
とあり、また、前述の「中田村差出帳」にも、
 「一、船橋より東金筋新海道御伝馬、東金え三里、犢橋え三里、平日相勤申候。尤大寄伝馬之節は、金親村にて、継来申候。其節は、古泉村、富田村、大谷流村、用草村、塩古四ヶ村、宮内村、飯塚村、内田村
 右村々より人馬差出相成来申候」
と記され、三里先の東金町と犢橋村への人馬継ぎ立てを行っていた。しかし、多くの人馬の継ぎ立てが必要な場合には、一里先の金親村がその業務を行い、古泉村(千葉市若葉区古泉町)や富田村(千葉市若葉区富田町)、大谷流村(八街市大谷流)、用草村(八街市用草)、塩古四ヶ村(七曲村、西御門村、稲葉村=佐倉市、根古屋村=八街市)など11ヶ村が人馬を補充する「助郷村」であった。
 このため、中田村の継ぎ立ては、金親村とその業務を分担し、小規模な継ぎ立て業務を取り扱っており、「間(あい)の宿」的要素が強かったようである。
 また、前述の「小金町当分助合御免除再歎願御差出控」によると、
 「中田村には先年御成並還御之砌、被為在、御休泊候。御殿跡も有之程之駅馬に付、不時御継立御用御差支不相成様昼夜人足弐人馬弐疋宛囲人馬備置(以下略)」
よう定められていた。昼夜に限らず人馬2人馬2疋を常備していたのである。土地の古老によると、ほとんどの家では、農耕馬と荷馬の2疋を飼い、駄賃稼ぎをしていたという。さらに同書には、
 「丁場之分は、年々道橋普請仕、且亦前書御殿跡は当村字うつし野と申場所にて、御掃除之義は当村並古泉村にて致来(以下略)」
との記述が見え、村付近の道橋普請を担当し、また村内にある御茶屋御殿の掃除を古泉村とともに行っていたことがわかる。
 この村の人馬の継ぎ立て業務を取り扱う問屋について、前述の「小金町当分助合御免除再歎願御差出控え」に、
 「戸田下総守知行所下総国中田村外弐ヶ村惣代中田村問屋件帯名主弥八(以下略)」
とあり、幕末の文久2年(1863)に名主をしていた弥八が問屋役も兼ねていた。この「弥八」は、現在、御成街道沿いの杉山文江家であり、屋号を下棚という。当時の屋敷は現在の杉山弼宅(屋号を自転車屋という)にあった。
 また、嘉永3年(1850)6月の「海岸御用人足帳」(中田町・鳥海和家文書)の中に、
 「御代官岩田鍬三郎様 其他御壱人様 曽我野村御旅館 名主重右衛門
  御手代和田養太夫様         同村 御旅館   源右衛門
     平松圭助様         中田村役人宿  みどりや半四郎」
とあり、この村に役人宿の「みどりや半四郎」宅があったといい、「願書品々写」(中田町・鳥海和家文書)の中に、
 「(前略)村内百姓富五郎事又兵衛は、家内五人暮にて農業之間、菓子屋・野菜物商ひ仕候(以下略)」
と記され、百姓の又兵衛(忠左衛門の弟)が菓子屋と野菜物の商いをしていたという。

 

 

現状から見た近世の中田村

 字浅間下の谷津で金親村から中田村に入る。前述の「中田・富田郷・川崎郷絵図」を見ると、街道の両側に「郷山」が広がり、間もなく「御茶屋御殿跡」がある。この御殿は、街道から180mほど入ったところにあり、前述の「仲田村指出帳」に、
 「一、御殿惣構六拾四方  御茶屋跡御□」
と記され、南北124m、東西120mで、広さが3600坪である。周辺部は空堀と土塁で囲まれ、ほぼ南北の中央部に土橋と小口がある。ここに2つの御門が建ち、内部には御主殿、御休憩所、御広間、大長屋、御鷹部屋、御厩などが建てられていたようであり、休憩のみではなく、宿泊が出来る施設が整えられていた。
 この御殿からほぼ直線の街道を進むと、現在、両側が畑地になっているが、江戸時代には左手に「御林」、右手には古泉村との入会地や「馬放し場」が広がっていた。
 途中で高根町から更科町に行く道を横切る。ここから左に進むと、左手に御殿町集会場があり、この敷地内に小祠の稲荷神社がある。中に50cmほどの石祠があり、
 (正面)稲荷神社
 (右側面)大正十五年(1926)十月
と刻まれている。この神社は、土地区画整備のとき、同町の高根町寄りの字中塚から移されたという。街道に戻り、先に進むと、「市場谷」の谷津となり、S字形の下り坂となる。この谷津は、現在、「中田村埋立地及び埋立予定地」であり、千葉市の産業廃棄物の処分場になっている。このため、道路の左脇に古道のおもかげが見られるが、深かった谷津が埋め立てられ、容易に先に進むことが出来るようになっている。
 この先を行くと、左手に「中田墓地」があり、手前に上泉町・更科町と国道126号線(東金街道)沿いの川井町(若葉区)とを結ぶ「川井道」を横切る。すぐに谷津(字前谷)を下る坂道となり、先で県道浜野・四街道・長沼線に出る。この道を左手に行くと、左側に大六天神社がある。この神社の創建や由緒については詳らかではないが、祭神が面足尊(おもだるのみこと)と惶根命(かしこねのみこと)の夫婦神であり、地元の古老によると、この神は木の繊維で布を織る神であるため、境内の木を切ることを嫌うといい、境内には大きな木が茂っている。
 街道に戻って直進すると、鹿島川支流平川に架かる中田橋がある。この川は、現在、「排水溝」として整備されているが、前述の『千葉郡史』の鹿島川の項に、
 「支流も土気高地を発し、誉田・白井の二村(千葉市緑区)を過ぎて、更科村にて本流と合し、北上して印旛郡に入り、佐倉町にて印旛沼に入る。本郡は、その上流なれば、川幅狭く、川谷の低地広からず」
と記されている。橋を渡ると、中田村の継立場である「稲葉」の集落に入る。街道沿いには現在、北側に5軒、南側に7軒の人家があるが、この中で元々の家は、北、南側とも3軒であったという。

 

・街道沿いの古くからの家々

北側

森 正利

向う店

雑貨屋か。

豊田 恒

庄五郎

名主も務める。現在杉山文江宅。

安井 忠久

台ん家

忠蔵、善左衛門らが名主を務める。

南側

杉山 長才

稲葉

金左衛門が名主を務める。

杉山 弼

自転車屋

元杉山文江宅(弥八)。問屋場。

安井 寅蔵

上の家

元禄に玄蕃、明和に吉右衛門が名主を、宝暦に割元を務めた。屋敷の一角に郷蔵、寺子屋があった。


 ほぼ中央に本住山真光寺があり、『真光寺明細誌』(平成7年9月、本寺住職菅野正見作成)に、
 「寛永十五年(一六三八)に総本山第十七世日精上人(大石寺)に依って、江戸常泉寺(東京都墨田区)五代本行院日勇師が教化され、常泉寺とその塔中真光坊が大石寺末寺になり、その後、常泉寺の大檀越であった北条安房守氏長が発願主(開基檀那)となって、その領地下総国仲田に真光坊を移転。寛文十二年(一六七二)六月十三日、寺号を真光寺と公称し、塔中の高林坊、好円坊、妙音坊、恵光坊が創立した」
と記されている。また、昭和40年の「旧泉町管内の文化財調査報告」(和田茂右衛門)によると、
 「もとは真言宗の寺院で、本乗寺と称し、寛文十二年(一六七二)に領主・北条安房守から境内五反二畝十六歩除地として寄付され。堂宇・庫裏・表門を造営された。同年日精上人(大石寺十八世也)が改宗し、開基となる。旧更科村大字中田小字富貴楽にあり。塔中には好円坊、高林坊、川崎の恵光坊、古泉の妙音坊があった。また、稲葉の山中に念仏塚と呼ばれる塚があり、この塚は、改宗前の仏具・碑石などを埋めたと言い伝えている。  
    歴代の住持
   常光院   日安  当山三世  延宝九年三月二日 (墓碑)
         日賢    四世  元禄元年     (明細記)
   元貞阿大坊 日元     六代  正徳四年二月五日 (墓碑)
   宜証寺   日護    一八代 文政十二年七月  (墓碑)
         日修        安永七年三月十三日(梵鐘銘)
   水谷    秀道    兼務  明治三十年七月  (明細記)
 以上、「真光寺明細記」より集録す。
 しかしながら、中田町の鳥海さん所蔵文書の中、元禄十一年五月の指出帳に依りますと、真光寺の前身たる本乗寺は、日蓮宗のお寺で、寛文十年、本来出入にて潰れるとある。その廃寺跡に北条安房守の庇護を受けて日精が日蓮宗のお寺を創めた事なり」
と記されている。
 平成元年九月に新築された本堂の前の境内には墓地があり、大きな五輪塔(上人墓)が3基あり、
   (中央)日蓮上人   弘安五年(1282)十月十三日
   (右側)三祖日元上人  正徳二年(1712)十二月十五日
   (左側)開祖日興上人 正慶二年(1333)二月九日
と刻まれている。
 この寺の入り口付近に高札場があった。前には集地の集落に行く道が延び、丁度T字路になっているところである。前述の「仲田村指出帳」に、
 「一、御高札  但長三間(約5・5m) 横弐間(約3・6m)」
と記されているが、現在この跡は真光寺本堂への参道になっている。
 この高札場の前に「郷蔵」があり、夏の終わりの頃になると、村人たちがこの蔵へ年貢米などを納めていた。ここに集められた年貢米は、割り当てられた村人によって曽我野浦(千葉市中央区蘇我町)まで運ばれた。
 人馬の継ぎ立ての業務を行っている問屋場は、497番地の杉山弼宅内にあった。もとは、この前の杉山文江家(495番地)がここに住み、弥八を名乗って名主を務めた時期もあったという。この集落の屋号などは以下の通りである。 
 

 

番地

宅名

屋号

備考(言い伝えなど)

北側

494

森 正利

向う店

雑貨屋か。

495

杉山 文江

下棚

弥八。元は豊田恒宅    (庄五郎、名主)

501

安井 忠久

台の家

忠蔵、善左衛門      (ともに名主)

504

竹内 仁三郎

床屋

2代。寺の屋敷を借りていた。

508

仲田 圭一

沖の家

 

513

仲田 寅松

浜家

 

南側

493

杉山 長才

稲葉

金左衛門(名主)

492

杉山 弼

自転車屋

元は杉山文江宅。弥八が問屋兼帯名主。

491

安井 和子

上棚

 

495

豊田 敏子

新棚

 

450

布施 隆吉

角屋

元は安井氏敷地。郷蔵あり。

551

安井 寅蔵

上の家

元禄に玄蕃、明和に吉右衛門が名主。宝暦に割り元を務めた。屋敷内に寺子屋。

552

島田 英夫

フキラ

 

 

 

まとめ

 東金御成街道の継立場の中田村は、江戸初期からの継立場であったが、隣村の金親村とその業務を分担していた。
 このため、街道沿いには問屋場と雑貨屋が一軒あるだけで、人家が少なく、旅籠屋や茶屋などもなく、町場は形成されず、「間の宿」的要素が強かった。
 一方、住民達の多くは、下田や下畑で農業を営み、農耕馬や荷馬の二頭を飼っていたといい、駄賃稼ぎを行っていたようである。
 この街道の主な通行人は、役人や鷹匠などの外、九十九里方面の干鰯・〆粕・生魚を運ぶ商人や遊山などの旅人であった。しかし、これらの人々の多くは、東金街道を利用しており、御成街道を利用する人や中田村を通過する人は少なかったようである。
 しかし、この村では「農民の生活は貧しかった」という話は聞かれないため、例え通行人が少なく、駄賃稼ぎも限られていたとはいえ、豊かな農業資源により、生活には困らなかったようである。

 

 

 

 

 

家康と里見氏」   「史跡案内

 

 


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