家康と里見氏


御成街道小史家康と里見氏御成街道の宿場史跡案内プロフィールリンク


家康と外様大名・里見氏


 安房の里見氏は、清和源氏新田義貞の子、義俊が上野国碓氷郡里見郷(群馬県群馬郡榛名町里見)にあって、その所領を名字にしたのが始まりであるといわれている。その後、義実が、嘉吉元年(1441)の結城合戦に参戦して、敗走、三浦半島から安房白浜(安房郡白浜町)に上陸し、安房の豪族・安藤景春(平群を支配)のもとに身を寄せた。この義実が、房総里見氏の祖であるという。
 文安2年(1445)6月には、義実が、神余氏(安房郡を支配)と丸氏(朝夷郡を支配)を手勢に引き入れ、安西氏を降し、さらに東条氏(長夷郡を支配)の金山城(鴨川市金山の金山ダム入り口の北側の山)を落とし、安房四郡の平定に成功した。ここに「房総の名族・里見氏」の基礎が築かれた。
 9代・義康のときの天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原城北条氏の征討に参戦したが、途中、三浦半島の侵略に手間取り、参戦が遅れたことから秀吉の怒りをかい、上総、下総、の領地を没収され、義康の支配地は安房一国(9万2千石)だけとなり、家康に属することになった。
 秀吉から関八州を与えられた家康は、8月1日、江戸城に入り、 15日には、家臣の諸将を関東各地に配置した。中でも家康は、里見氏を特に警戒していたようで、徳川四天王の1人であり、”家康に過ぎたるもの”と称されていた本多中務大輔忠勝を上総大多喜に入城させた。
 慶長5年(1600)5月の関ヶ原の戦いに参戦した義康は、帰陣後その功が認められて、家康から常陸鹿島郡内に3万石の加増を受け、合わせて12万2千石を領有することになった。その義康も慶長8年(1603)11月16日、31歳の若さで他界した。遺領を継いだのが、子の梅鶴丸(当時10歳)で、慶長11年(1606) 11月15日に、将軍・秀忠の前で元服し、1字を賜って忠義と称した。
 慶長16年(1611)、18歳となった忠義は、相模小田原城主・大久保相模守忠隣の長子加賀守忠常の娘を室として迎え入れた。
 こうして外様大名である里見氏は、徳川譜代の重臣である大久保氏、さらには徳川氏とのつながりができ、再起を目指そうとしたわけである。
 しかし、家康にとっては、江戸の”お膝元”に何時までも12万石を領する外様大名を放置しておくわけにはいかず、手が打たれていくことになる。結果的には大久保忠隣の嫡子忠常の長女との婚姻が、里見氏滅亡の原因となってしまうのである。

 

 

 家康関東移転前後の上総の状況

城名

旧城主

新城主

石高

大多喜           

里見旗下
正木大膳大亮正 忠領 

本多中務大輔忠勝

10万石

久留里           

北条家人
芳賀伊予守顕綱

大須賀五郎右衛門忠政

3万石

鳴戸            

北条家人
高田豊後守政朝

石川左衛門大夫 康通

2万石

佐貫

 

内藤弥二右衛門 家長

2万石

上総・下総の内

 

岡部内膳正長盛

1・3万石

東金

北条旗下
酒井左衛門尉政辰

 

 

茂原

 

大久保治右衛門 忠佐

5千石

五井

 

松平紀伊守家忠

5千石

小磯

 

本多作左衛門重次

3千石

勝浦

里見旗下
正木左近大夫頼忠

植村土佐守泰忠

3千石

山口・稲毛郡 峯の郷

 

坪内喜太郎利定

2千石

相模・上総の内

 

永井右近大夫直勝

5千石

 (中村考也著「徳川家」を参考に作成)

 

 

 

 家康関東移転前後の下総の状況

城名

旧城主

新城主

石高

矢作

北条旗下    伊藤右馬介祐衡領

鳥居右衛門元忠

4万石

白井

原式部大輔

酒井宮内大輔家次

3万石

古河

北条家臣    芳賀伯耆守正綱

小笠原信濃守秀政

2万石

関宿

簗田出羽守綱政

松平三郎太郎康元

2万石

下総の内

 

久野三郎左衛門 宗能

1・3万石

多古

山角右兵衛大夫 直定

保科甚史郎正光

1万石

守谷

原式部大輔胤成

菅沼山城守定正

1万石

佐倉

佐倉筑後守将友

三浦監物義次

1万石

蘆戸

大橋山城守康忠

木曽千三郎義昌

1万石

岩富

 

北条左衛門佐氏勝

1・2万石

結城

結城左衛門督晴朝

結城三河守秀康

10・1    万石

生実

 

西郷新太郎家貞

5千石

佐倉内小佐子

 

本多縫殿康俊

5千石

佐倉領内

 

久野民部少輔

5千石

小南

 

松平隠岐守定勝

3千石

佐倉領内飯沼

 

松平外託伊昌

2千石

佐倉領内

 

山本帯刀頼重

1千石

 

 (中村考也著「徳川家」を参考に作成)

 

 

  里見氏と大久保氏、徳川氏の関係

 

           里見義頼──┬───義康────忠義
                 │         │
                 └───女子    │
                     │     │
                     │     │
                     ├─忠隆  │
                     │     │
              奥平信昌   │     │
              │   ┌──忠政    │
              │   │        │
              │   │        │
              ├───┤        │
              │   │        │
              │   │        │
              │   └──女子    │
       徳川家康───亀姫     │     │
                     │     │
                     ├──┬──女子
                     │  │
                     │  └──忠季
           大久保忠隣─────忠常

 

 

     
     里見氏の居城・館山城模擬天守(館山市立博物館分館)

 

 

 

 



房総の名族・里見氏の終焉

 

 10歳で里見氏を相続した忠義は、侍女や家臣から尊ばれ、かしずかれたため、放蕩放恣の限りを尽くすようになり、政治を省みようとしなかったという(「房総里見氏の研究」)。そして忠義は自分の相談役として「心がねじけて悪がしこい性格で、欲深く、ぜいたくなふるまいを好む」(「房総里見誌」)印東釆女(いとううねめ)を起用したり、乞食非人が多くては不経済であるという釆女の意見を採用して、老若男女375人を打ち殺すなど、数々の乱行、悪業を重ねるようになった(「房総里見誌」)。
 しかし、一方では、慶長10年(1605)、17年(1612)に検地を実施して農民の把握に努め、慶長18年(1613)秋からは安房大神の造営を開始するなど、着々と業績を重ねつつあった。
 ちょうどこの頃、里見氏と親族関係にあった大久保忠隣の謀反事件が起こる(慶長18年12月6日)。この事件は、幕府内部の権力争い(忠隣と本多正信・正純親子の対立)であった。
 このような状況の中で、慶長19年(1614)正月9日に家康は東金を訪れ、15日までの一週間、滞在するわけである。
 この間、土井利勝は房州岡本村(富浦町)の庄屋・彦兵衛に命じて、毎日、生魚を東金に届けさせた。彦兵衛の「覚え書」によると、タイ、スズキ、ボラ、コチ、ヒラメ、メバル、サザエ、アワビなど、7日間に27種類の魚介類が家康のもとに届けられている。また、大多喜城主の本多忠朝は、わざわざ御狩場まで出向いたり、毎日魚物を献上したりしている(「駿府記」)。
 しかし、岡本から4q程の地にある館山城の里見氏からは、何の献上物もなく、挨拶に出向いてさえいない。忠義は、家康が東金に来ていることを知らなかったのであろうか。また、知ってはいたものの、参上出来ない事情があったのであろうか。
 家康が東金に滞在した一週間の里見氏の動向を見ると、11日に「御具足の祝い」があった(「房総里見誌」)だけで、他にこれといった行事は見当たらない。たとえ忠義自身に安房を離れることが出来ない事情があったとしても、家臣を使って家康のご機嫌をうかがいに行かせることは出来たわけである。
 天正18年(1590)の北条氏征討のとき、父の義康は、遅参のために秀吉の怒りをかった。このとき家康の口添えで、その怒りも解け、里見氏存続につながったわけである。このことを考えれば、忠義は家康に恩があり、その家康が近くの東金に来ているということにもなれば、何は置いても、まず参上するのが礼儀というものであろう。それを知らぬふりでいたとすれば非常識の誹りをを免れ得ない。
 ただ、これを一方的に里見氏の過失であるとみるわけにはいかないかもしれない。何故ならば、「家康が東金に鷹狩に来たとき、忠義が召し捕らえられた」(「大久保家記別集」)という記録もあるところから、家康は東金に来たとき、すでに里見氏を改易するつもりで、あえて疎外したとも考えられるからである。
 幕府内外で大きな問題が表面化しているこの時期に、家康にとって、徳川幕府存続のために、”お膝元”である房総の地での過失は許されない。改易するといっても、安房の地で、10代、170年にわたり武威を誇った名族=里見氏ともなれば、なおさら注意を払う必要があったろう。
 そこで実施したのが、”上総東金辺”での鷹狩りではなかろうか。家康は、東金付近で狩りをしながら、旧千葉氏や旧酒井氏の動向と、里見氏の様子を探り歩き、また、房総の地に詳しい土井利勝、永井直勝、松平正綱などと非公式に会見しながら、里見氏取りつぶしの案を練ったものと思われる。
 そして、江戸に帰った家康は、19日に大久保忠隣を改易し、これを口実にしながら、里見家取りつぶしの時機を待った。同年9月9日、家康はその断を下した。「大久保忠隣に荷担し、剰城郭を修理し要害構へ、過分に牢人を抱置きし条不義之至り也」(「廃絶録」)とし、安房の領地を没収し、鹿島郡内3万石の替地として伯耆国(鳥取県)倉吉への国替えを申し渡した。この減封の上の国替えは、実質的には改易と同様の処置であったという。この里見氏の国替えは、その理由がどうであれ、家康の「外様大名取りつぶし政策」にほかならず、さらに、大坂城攻略を目前に控え、外様大名に対して威信を示しておこうとする”見せしめ的処置”であったと思われる。
 倉吉に移った忠義であるが、与えられた領地は3万石ではなくて僅か4千石に過ぎなかった。その僅かな領地も、元和3年(1617)、池田光政が鳥取城に入ると同時に召し上げとなる。そして5年後の元和8年(1622)、里見忠義は失意の内に世を去った。享年29歳であった。忠義には跡継ぎがいなかったため、ここに繁栄を誇った房総の名族・里見氏はその華麗なる歴史に幕を下ろすことになったのである。 

 

 

 大岳院(里見忠義墓所)

宗派 曹洞宗
山号 万祥山
所在地 鳥取県倉吉市東町

 大岳院(だいがくいん)は鳥取県倉吉市にある曹洞宗の名刹である。市内を流れる玉川の南岸に位置し、伯耆西国33霊場の第31番所。倉吉市内に、洞光寺、胎蔵寺、極楽寺など9つの末寺を持つ。本尊は釈迦牟尼仏。
 寺伝によると、慶長6年(1601)、父の戦功により中村伯耆守一忠が米子城主に任じられた際、後見人として伯耆に入国した叔父の中村彦左衛門一栄が急死、嫡男の伊豆守栄忠が、父の霊を弔うため、慶長10年(1605)、山名氏豊の館跡と伝えられる現在の地に、荒廃していた山名寺を再建、菩提所としたのが当寺院の始まりであるとされる。
 山号はのちに中村一栄の法号「万祥寺殿大岳院周磧代居士」にちなみ、万祥山大岳院に改められた。
 慶長19年(1614)安房館山城主里見忠義が大久保忠隣事件に連座して転封を命じられ、倉吉にやって来た。忠義は神坂に住居を置き、倉吉の北野神社、北条郷の山田八幡宮の社殿を修復するなどの事績を残したが、元和3年(1617)池田光政の鳥取入城とともに、倉吉郊外の下田中村に、さらに同5年(1619)堀村(東伯郡関金町堀)に移され、元和8年(1622)、29歳で世を去る。遺言により遺骨は殉死した8人の家臣(『南総里見八犬伝』のモデルといわれる)とともに大岳院に埋葬された(里見忠義の法号は「雲晴院殿心叟賢涼御大居士」)。
 現在、寺院には里見忠義主従の墓のほか、忠義が寄進したと伝えられる宋代の古三彩鉢皿が残されている。

 

 

 

 

御成街道小史」   「御成街道の宿場

 

 

 

 ご意見、ご感想はこちらへ
 




Copyright © 1996-1999 by Namo Interactive Inc.
All Rights Reserved.


Namo WebEditor 3.0