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新道の造成計画
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家康の命を受けた土井利勝は、いそぎ佐倉城に戻り、家康の東金辺鷹狩りの諸準備に取りかかった。
まず、家康の御成りの道であるが、これまで船橋から東金までは、江戸湾沿いに走る房総往還を通り、千葉の大和橋から分岐した東金道があった。この東金道は、康正元年(1455)に、千葉六党の一つで美濃郡上(岐阜県郡上郡)に拠点を置く東常縁が関東に下向した折りに、家臣の浜式部少輔春利に命じて、東金城を守らせるとともに、軍事用、産業用に造成させたものである。大和橋を起点に病院坂を登り、舟田池(県立青葉の森公園)、松ヶ丘、仁戸名、川戸、坊谷津、佐和、川井、宮田、野呂、中野、山田台を経て東金に至るこの道は道幅が狭く、曲がりくねった所も多く、見通しも悪かった。それ故、警備もままならず、家康が通るにはあまりに危険な道であると言わざるを得ない。
土井利勝は、船橋、東金間を結ぶ新道の造成に着手することを決意する。道幅二間半(約5m)、谷をS字形にカーブする他は、ほぼ直線という新道、つまりこれが東金御成街道と呼ばれる道となるのである。
新道造成にあたり、利勝は下検分を行って道筋を定め、村々の請け負い区間を決め、名主などを佐倉城に呼んで直接命を下したものと思われる。この時に動員された村の数は97、工事区間の最も長い村は船橋村の19町(2280m)、最短が谷津村の9間(18m)、平均が約351mであった。
また、工事は、船橋西向き地蔵付近から東金市滝の国道409号線に至るまでの、約34qにわたって行われ、その先は旧道をそのまま利用して東金御殿に通じていた。 |
 土井利勝公像(茨城県古河市・正定寺蔵) |
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九十七ヶ村の道普請 |
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佐倉城で土井利勝から命を受けた97ヶ村の名主たちは、村に戻って農民の分担を決め、高札を掲げ、寄合場所に人を集め、藩主の命令を民に下したと思われる。
さて、いよいよ工事であるが、早期に村を出た農民たちは、工事の道具や弁当などを持参して普請箇所に行き、力を合わせて雑草を踏みつぶし、田を埋め、土盛りをしたり、土橋を架けたりしたようである。
この工事にかかる労力や費用は、他の労役と同様、全て自己負担であった。また、村の工事区間は、石高に応じたというよりも、工事の難易によって距離が決められたようである。例えば、村高の高かった、中田、下泉、上泉の3ヶ村は、造営区間は短かったが、代わりにより重要な御茶屋御殿の造営と賄いとを受け持った。また街道沿いの村である金親村は名刹「金光院」との結びつきが強かったために、また同じく街道近くの古泉村は名主が割元という有力な地位についていたとの理由で、それぞれ造営工事を免除されている。
工事に当たった村の中には、飯重村のように街道から直線距離で10qも離れていた村もあり、泊まり込みで工事に当たったり、犢橋村内では、直線に結ぶべきであるところを、工事に当たった村と村との接点付近で食い違いが起こり、それぞれの村が言い分を譲らなかったために曲げて結んでしまったところもある。
土井利勝が、新道の造成計画と村々への伝達に10日間ほどを費やしたものと思われるため、実際の工事期は10日〜15日ぐらいであったと推測される。
伝承としては、
白旗と提灯を大木に掲げ、昼夜を問わず作業を続けて三日三晩で完成をみた。
付近の村々の農民を総動員して一夜にして造り上げられた。
土井利勝が自ら検分に訪れて工事を急がせ、瞬く間に竣工した。
といったものがある。3日、ましてや1晩で街道が出来上がるとは思えないが、突貫工事により、相当な短期間で造成されたことは確かなようである。 |
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千葉と東金の御殿造り
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御成街道の造成と同時に、家康の休憩・宿泊施設としての「御殿」も建造された。
その一つが船橋と東金のほぼ中間地点である、千葉郡中田村大字宇津志野(千葉市若葉区御殿町)の「御茶屋御殿」である。この御殿は、街道から約180m入ったところにあり、元禄11年(1698)の『仲田村指出帳』(鳥海和家文書)によると、「御殿惣(総)構六拾間(約120m)四方」、敷地面積は、約3600坪である。周辺には幅約6m、深さ約2・5mの空堀と、幅約6m、高さ約2mの土塁が築かれ、防衛上の設備が施されていた。
内部には、番所、玄関、広間、休息所、御主殿、大長屋、御厩、御鷹部屋、側近部屋、近習部屋などが配置された建物がつくられていたようで、この建物の資材は、丁度このころ築城中であった佐倉城(鹿島城)の建材の一部があてられたと考えられる。また、文書から、この御殿の工事には、近村の上泉村、下泉村、中田村、富田村の農民が徴用されたものと推察される。
もうひとつの御殿、「東金御殿」は、元禄4年(1691)7月の『東金御殿古絵図』によると、総構え11700坪、御殿敷地は6700坪と、かなり大規模なものであった。内部には、御老中部屋、小姓部屋、書院、広間、鉄砲部屋、番所、御鷹部屋など、40を越える部屋からなる建物が建てられ、このほぼ中央に家康が使用する部屋もあった。
この御殿の建設には、東金町の農民が総出で当たったものと思われる。 |
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家康、最初のお成り
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突貫工事により短期間のうちに新道(御成街道)と2つの御殿が完成した。あとは家康のお成りを待つばかりである。
慶長19年(1614)の正月を江戸城内で迎えた家康は、同月7日早朝、江戸城を発し、東金へと向かった。
この時に家康に随行した家臣には、本多正純、安藤直次ら年寄衆、松平正綱をはじめとする近習出頭人、片山宗哲などの侍医、永井直勝(書院番頭)、後藤光次(豪商)、林羅山(儒学者、僧号・道春)などの顔が見られる。この他に、阿茶局、お勝の方、お夏の方、お六の方など6〜7人の側室、そして女中なども加わり、総勢100人余りが家康に随ったものと思われる。
駿府政権の実力者たちが家康に同行しており、この警備には、東金、九十九里方面に配置されていた旗本集団「上総の七十騎(高橋七十騎)」が当たった。
この日は、葛西方面で鷹狩りを行ったあと、夕方、青戸御殿(葛飾区青戸)に入った。翌8日早朝に青戸を発ち、市川を経て、中山法華経寺を参詣、その後、船橋御殿に入り、ここでしばし休息。そして船橋大神宮に立ち寄ったあと、新しく造られた御成街道を通って長作村(千葉市花見川区長作町)に至り、昼食。同地付近では鷹狩りも行った。それからさらに街道を進み、金親村の金光院(千葉市若葉区)で休憩の後、夕方、土井利勝の出迎えを受けて御茶屋御殿に入った。
御茶屋御殿での賄いなどは、上泉村、下泉村、中田村、富田村の村人などがあたり、宿泊場所としては、この御殿のほか、金親村、中田村などの名主の家等が使用されたようである。
9日の早朝には、御茶屋御殿を出発し、途中で鷹狩りを行い、八街(当時は小間の牧)の蛇田谷(へびたさく)で昼食をとった後、同日夕刻、東金御殿に入った。翌日からはほぼ毎日のように東金、九十九里方面や、小間の牧、佐倉町方面まで出掛けて鷹狩りを行っている。
正月15日、家康は東金、九十九里方面での鷹狩りを終えて江戸への帰途についた。16日に御茶屋御殿で一泊の後、青戸御殿に入り、18日に江戸城に戻っている。
東金、九十九里での1週間におよぶ鷹狩りの間、家康は73歳という高齢を微塵も感じさせることがなかった。『徳川実紀』によれば、
「この度、御狩に得たまふ所、鶴百十二、白鳥八隻なりとぞ」
とあり、また 「御気色快然」 とも書かれていて、予想以上の収穫にご満悦だったことが窺える。
絶えず家康への気配り、心配りを行っていた、土井利勝もさぞや安堵の胸をなで下ろしたことであろう。 |
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 徳川家康公像(千葉県干潟町・香取神社蔵) |
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再び、家康のお成り |
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江戸城に戻った家康は、大久保忠隣を追放することによって幕府内での権力争いに決着をつけ、本多正信、正純父子に2代将軍秀忠を補佐させることにした。そして、江戸に近い安房館山に居を置く目障りな外様大名里見氏を忠隣と婚姻関係にあったとの理由で、同年9月9日に伯耆国(鳥取県)倉吉に国替えした。これは事実上の改易である。
さらに家康は、江戸幕藩体制の総仕上げともいうべき大坂出兵を決意する。豊臣氏の討滅のための戦い「大坂の陣」である。元和元年(1615)5月8日、家康軍に攻め込まれた秀頼、淀殿母子は大坂城内で自刃、ここに豊臣氏は滅亡した。
2つの懸案を解決した家康は、この年の11月に再び東金、九十九里方面での鷹狩りを実施した。
『本光国師日記』の元和元年(1615)11月15日の項に、
「大御所様(家康)今日、越谷(埼玉県)よりかさい(葛西)へ御成之由候」
とあるほか、『駿府記』の16日の項にも、 「大御所、下総国千葉着御」
と記されている。 家康は17日に東金に到着、24日まで滞在し、連日鷹狩りを行った。
この年に家康が、鷹狩りを行ったことについては、元和元年12月20日に房州北之郡岡本村(安房郡富浦町)の庄屋彦兵衛が記した『上総国東金江御成被為遊候覚』(富浦町原岡、三浦東吾家文書)に、
「元和元年乙卯十一月十七日、東金御殿江御成被為遊候節、御上意に者、去年正月、此地江御成被為遊、大坂御陳(陣)落去に付、当年又候御成被為遊候事、吉事之場所与被為思召候御意之由」
とあり、また享保3年(1718)の『由緒書』(島貝段木村久右衛門家文書)にも、
「権現様(家康)御上意に、去年(慶長19年)、此の地に御成り遊ばされ、大坂の陣以後、今年御成り遊ばされ候ところ、御吉事の御鷹場に思い召さらる」
という文が見られることから、家康が東金鷹場を「吉事の場所」であると思っていたことが窺える。前年の東金辺の鷹狩りで縁起の良い鶴などを多く射止め、これが大坂の陣の勝利に結び付いたと考えたようだ。
11月25日、東金での鷹狩りを終えた家康は、同地を発ち、船橋御殿に宿泊した。ところでこの夜、船橋町中は大火災に見舞われている。『駿府記』には、
「丑刻、舟橋町中残らず焼亡。但し、御旅館無恙云々」
と、また『武徳編年集成』にも、 「神君、再船橋に放鷹したまふ所、丑の剋に駅舎焼亡すといへども、御旅営災を遁る」
と記されている。この大火災により民家のほとんどが焼失したものの、御殿には影響がなかったことがわかるが、『本光国師日記』には、
「船橋は、夜少火事之由に候。ふかしき事とは聞かれず候」
とある。地元には 「家康の命を狙った賊が、夜陰に乗じて火を放った」
「この時、家康は鉄砲で撃たれたが、大神宮の神主が助けた」
といった伝承が残っている。 無事であった家康は、翌26日に船橋を発ち、葛西で1泊した後、江戸城に戻った。
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秀忠、家光のお成り |
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2代将軍秀忠は、将軍の時6回、また大御所として4回の計10回
、千葉、東金辺を訪れている。 秀忠が初めて千葉、東金辺を訪れたのは、慶長15年(1610)10月22日(23日ともいう)のことであった。その時の記録は、『当代記』に、
「二十三日、将軍(秀忠)、上総国江御成、鉄放(鉄砲)を以彼表の雁打給ふ。其故にや雁鴨大御所鷹場に、此以前よりは多し」
とあり、『武徳編年集成』にも、 「二十二日、台徳公(秀忠)、上総へ渡御、火砲の精錬を得玉ふ故、多く雁鴨を打せられしかば、雁鴨若干武州に集り、神君(家康)殊に御気色斜ならずと云ふ」
と記されている。 ここにいう「上総国」とは、東金、九十九里方面の鷹場のことであり、同年9月に秀忠は家康とともに砲術師の稲富一夢から秘伝を授かっているので、これを試すために東金辺を訪れたようだ。
このほか、秀忠が東金辺で鷹狩りを行ったのは、 ・元和3年(1617)11月
・元和4年(1618)10月29日〜11月12日
・元和5年(1619)11月21日〜25日 ・元和6年(1620)12月1日〜11日
・元和7年(1621)11月28日〜12月3日 ・元和9年(1623)10月13日
・寛永2年(1625)12月6日 ・寛永4年(1627)11月22日〜12月3日
・寛永7年(1630)11月18日〜12月3日 が記録されている。
また、3代家光も、大納言時代の元和6年(1620)9月16日に千葉、東金辺を訪れている。『台徳院殿御実紀』に、
「十六日、大納言殿(家光)東金辺へ、御狩にならせらる(『続元和年録』」
とあり、『元和年録(続録坤)』には、 「十六日、とうかね御雁野、池田帯刀為御使御さかな御進上を萬様より」
と記されている。 |
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寛永十三年、お成りの中止
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寛永13年(1636)、将軍家光の東金鷹狩りが予定された。文政8年(1825)の『東金事跡抜書』(千葉市緑区土気町、吹野美和家文書)には、
「大猷院殿(家光)御代、寛永十三壬子年、御成、御殿御修覆被仰代、御作事奉行小栗亦(又)兵衛様、山崎権平様也」
とあり、東金御殿の修理が行われたことがわかる。しかし、修理は終わったものの、肝心の家光の東金御成は中止となる。その理由として『東金記録』(千葉市稲毛区緑町、木村幾久家文書)には、
「御殿修覆出来の上、御成御延引の譯は、宇都宮の御事なと之故にても候はんかと申伝へし」
との記述があるが、この「宇都宮の御事」とは、宇都宮藩主の本多正純が居城の修復を行った際、将軍秀忠を暗殺するための細工を施したという事件(宇都宮釣り天井事件)のことであるというが、この事件が起こったのは元和8年(1622)のことであり、矛盾している。
では寛永13年とはどのような年だったのか、実際は何が起こっていたのか。主な出来事をあげてみると、
・1月=諸大名に江戸城総工事を命じる。 ・4月=日光東照社の本殿、陽明門が完成し、遷宮式が行われる(将軍家光出席)。
・5月=長崎の出島が完成する。ポルトガル人を国外追放にする。
・8月=箱根関所の旅人取り締まりの法度を定める。
・9月=長崎のポルトガル人279人をマカオに追放する。
・12月=江戸城に朝鮮通信使が謁見に訪れ、これを受ける。
などであるが、このほかにも家光はキリシタン禁令を強化、全国の大名には繰り返しキリシタン狩りを命じ、踏み絵、密告などの手段が講じられた。宣教師はもちろん、武士、庶民に至るまで、捕らえられた者は凄惨な拷問や火あぶりの刑に処されている。これがキリシタンから反感を買い、やがて島原の乱が発生することになるのである。東金辺での鷹狩りの中止は、このキリシタン禁圧と関連があったようだ。
これ以降、将軍(大御所)の東金辺での鷹狩りが行われることはなく、結局、寛永7年(1630)の秀忠の鷹狩りが、東金辺への最後のお成りとなった。寛文11年(1671)4月、船橋、御茶屋、東金の3つの御殿は取り壊しとなり、中でも、将軍(大御所)が使用した居間は、畏れ多いとの理由から焼き払われたという。
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御成街道、その後
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将軍(大御所)の通行がなくなった御成街道は、将軍の名代として鷹匠・同心・鳥見役などの鷹役人が通ったり、九十九里方面の魚類・海産物などを江戸へ輸送する道として利用されたり、内陸部の村落と村落を結ぶ生活路として使用されたりした。
しかし、これらの中で九十九里方面の物資の輸送は東金道(
旧東金街道)を通って浜野、曽我野(蘇我)、寒川、登戸などの港に運び、ここから五大力船で江戸へ送った方が早かったため、御成街道の利用は少なくなっていった。
明治に入ると、千葉市若葉区若松町西部に陸軍練兵場が置かれたり、鍋島藩(佐賀県佐賀市)が小間子牧に開墾に着手するなどして、御成街道が寸断されるに至った。
大正15年(1926)2月の『千葉郡史』の特第一号、国道の項に、
「古来、東金街道、或は御成街道と稱したる路線の一部にして、津田沼大字大久保地元を起点として、幕張町大字実籾、天戸犢橋村大字犢橋、長沼、小深を経て印旛郡千代田村大字畔田に到る。(中略)大正九年(1920)十二月、軍事上の関係に依り、更に軍事国道として、認定せらるゝに至れるなり。延長三里一町二十間、幅員二間及四間あり。屈曲概して少しと雖、坂路多く、降雨に際しては泥濘甚しく、交通不便なるを以て、大正十一年度(1922)より五ヶ年計画を以て之の改良を遂行する予定なりという」
とあり、のちに津田沼からの御成街道の一部を軍事道路と位置づけ、整備された。
また、昭和49年(1974)の『八街町史』のお成り街道の項には、
「このお成り街道は、慶長十九年以後、家康・秀忠が狩猟のためしばしば利用したのであるが、日光街道と並んでその沿道の景勝は高く称賛されたという。特にお成り街道の松並木は、日光街道の松並木に較べて道幅も広く、その距離も長かったという。今は、この並木も往時の面影はまったく見られないが、上砂・滝台地区では作場道のような形で道路だけが、ほそぼそと名残りをとどめている」
と記されている。 その他のところでは、利用されないままに雑木林の中に眠り続けているところや新たな道路を造成するために破壊されてしまったところ、車社会に対応するために拡張されたところなど、様々な様相を示している。そして、今ではかすかに千葉市若葉区金親町の町並みなどに古道としての面影が見られるだけとなっている。
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将軍(大御所)の東金お成り |
年号 |
西暦 |
期間 |
将軍又は大御所名 |
回数 |
慶長15 |
1610 |
10月23日〜 |
秀忠(将軍) |
1 |
19 |
14 |
1月8日〜17日 |
家康(大御所) |
2 |
元和元 |
1615 |
11月16日〜25日 |
家康(大御所) |
3 |
2 |
16 |
「4月17日=家康の死」 |
3 |
17 |
11月 |
秀忠(将軍) |
4 |
4 |
18 |
10月29日〜11月12日 |
秀忠(将軍) |
5 |
5 |
19 |
11月21日〜25日 |
秀忠(将軍) |
6 |
6 |
20 |
9月16日 |
家光(大納言) |
7 |
12月1日〜11日 |
秀忠(将軍) |
8 |
7 |
21 |
11月28日〜12月3日 |
秀忠(将軍) |
9 |
9 |
23 |
10月13日 |
秀忠(大御所) |
10 |
寛永2 |
1625 |
12月6日 |
秀忠(大御所) |
11 |
4 |
27 |
11月22日〜12月3日 |
秀忠(大御所) |
12 |
7 |
30 |
11月18日〜12月3日 |
秀忠(大御所) |
13 |
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(『徳川実紀』、『当代記』、『駿府記』、『東武実録』などより作成) |
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家康伝承
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船橋の御菜浦
元和元年(1615)11月に家康が東金での鷹狩りを終え、船橋御殿に一泊した。
この時、船橋の漁師が魚を献上した。この魚を賞味した家康は、大変気に入り、今後も船橋浦で獲れる生魚介を江戸城に届けることと、漁船の課税を免除することを申しつけたという。
そこで。船橋の漁民は、毎月6回、御菜魚として本丸に献上したといわれている。
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行徳焼塩の奨励
慶長19年(1614)1月に家康は、東金辺に鷹狩りに行く途中、行徳領塩浜(市川市行徳)に立ち寄った。塩焼きの様子をつぶさに見た家康は、「御軍用第一の事、御領地一番の宝」といい、船橋御殿に塩焼百姓たちを呼び、塩の作り方を聞き、金千両を与え、年貢諸役を免除したという。
この行徳の塩田は、当時、江戸近郊では最も規模が大きく、家康が関東に入国するとすぐに天領にするとともに、この塩を運ぶための船路の新川と小名川を整備した。
また、秀忠も東金での鷹狩りの時にこの塩田に立ち寄り、船橋御殿に塩焼百姓を呼び、金三千両を与えたという。
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綿貫夏右衛門を野馬奉行に
慶長19年(1614)1月、家康は鷹狩りで小間子野から海上郡に行った際に、小金村の牧士綿貫夏右衛門政長を呼び出した。夏右衛門は、山梨城主であった千葉昌胤(千葉一族、のちに「月見里<やまなし>」と名乗っている)の子である。政長が初めて家康に謁見した時、袷を着る時期であったにもかかわらず、貧しいために綿入れの綿を抜いた服装で出向いた。これに気付いた家康は、これから「綿貫」と名乗るように命じたという。狩場に出向いた政長に対して家康は、牧地の経営の仕方について質問した。政長は以前家康が言った「商いの事」を思い出し、「ただ飼育するべきではなく、よく国用にあて駆使すべきである」と答えた。これに感心した家康は、政長を「野馬奉行」に任じたという。
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明しの松と日の出の松
慶長19年(1614)1月に家康が東金辺で鷹狩りを行ったとき、成東付近で日が暮れたため、入口に大きな松が植えられていた家(川嶋永相宅)に入った。この家の夫婦は突然の家康の訪問に驚き、急な宿泊に戸惑ったが、一生懸命に賄いをした。
翌朝、家康はこの夫婦の献身的な奉仕に感謝し、土地を与える旨を告げたが、夫婦は「畏れ多い」と辞退した。そこで家康は「木の本」という名字を与え、帯刀も許し、また、入口前の榎の隣に1本の松を植え、お礼と記念にしたという(のちにこの松は「明しの松」といわれた)。
また家康は、まだ日が明けぬうちにこの家を出発し、九十九里方面に向かった。次第に夜が明け、早船(成東町)で紺碧の東の空からこうこうと昇る太陽を目にした家康は、その光景に胸打たれ、この地に記念として1本の松を植えたという。この松をのちに人々は「日の出の松」と称したが、やがて枯死したため伐採された。現在この松のあった所には人家が建ち、その姿も面影も見ることが出来ない。
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実籾(習志野市)と求名(東金市)のいわれ
慶長19年(1614)1月に家康は、東金辺で鷹狩りを行うため、船橋御殿で休憩ののち、東金に向かった。しばらく進むと、数軒の家が建つ所で村人の出迎えを受けた。
村人の一人は、適当な献上品が見当たらなかったため、自分の土地でとれた「籾」を恐る恐る差し出した。これを受け取った家康は、農業に励んでいることに感心され、ここを「実籾(みもみ)」と名付けたという。
また、家康は東金滞在中に九十九里方面に鷹狩りに出掛けたが、途中、ある小村落で村人からこの村の命名を頼まれた。そこで家康は即座に「求名(ぐみょう)」と名付けたという。 |
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