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病室の「義弟」
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健吾くんの入院後、里美ちゃんのお見舞いに、とクラスメートが一組、水泳部が一組、それぞれ女の子のペアーでやって来た。本来応対すべき里美ちゃんはその間も俺が談話室から持って来た絵本を健吾くんに読んでやっていたが”幸いにして”彼女達の興味の対象は面識のあるこの俺へと移った様で、結構な質問攻めと冷やかしの言葉を残して満足げに退散していった。
見舞い客がいなくなれば自然、里美ちゃんの語る絵本の音色に耳を傾ける事になる。時折視線を絵本から男の子に移して優しく語り掛ける様に朗読する彼女の表情は、まるで母親か年の離れた姉がそうする様な慈愛に溢れていて、横で聞いているこの俺まで癒さた気持ちになった。
「……おばあさんが川で洗濯をしていると、大きな桃がどんぶらこ、どんぶらこと流れてきました」
「川にせんたくきがあったの?」
「そうよ。昔は水道がなかったから、洗濯機はみんな川の側に置いてあったの」
……このまま放っておくと健吾くんに誤った知識を植え付けやしないか、一抹の不安は残るけれども。
とにかく少し早目の夕食の後、彼女のベッドの上で健吾君が穏やかに寝入るまでの約4時間、2度ほど検査のために看護婦さんに連れられて外室した時を除けば里美ちゃんは片時もその男の子に寂しい思いをさせないように接した。
「お疲れさま」
彼を隣のベッドにそっと移してから里美ちゃんに掛けた言葉に彼女は包み込む様な優しい笑みを浮かべて「直樹くんこそありがとう」と応えた。
「……でね、日本と違って向こうは下水が完備されているから排水溝にそのままゴミを流しても大丈夫なんだ。で、シンクの排水溝のところにゴミを粉砕するミキサーみたいなのがついてる」
「ミキサー……なの?」
「そう。ディスポーザーって言うんだけどね。ちっちゃな骨くらいなら粉々に砕いてしまう。ちょっとカルチャーショック」
写真に写らない土産話を少しだけ声のトーンを落として延々と語り続けた。時計の針は午後9時過ぎを指してまた消灯の時刻が近づいている。外はいつ頃からか降り始めた雨で薄もやの様相、遠くの光がぼんやりと霞んで光の輪っかを被っていた。健吾くんのお父さんは午後8時頃に一度顔を出したが、息子が眠っているのを確認してすぐに病室を出て行った。
「健吾くん、可哀想。まだ小さいのに……せめてお父さんに側にいて欲しいだろうに」
隣の病床から小さく唸る様な声が聞こえて俺たちの会話が一瞬途切れた後、里美ちゃんがポツリとそう呟いた。
せめて、の言葉に彼女は何を込めているのだろう。本当はお母さんがいれば? それとも健康でない事への哀れみだろうか。
「そうだね。明日になれば付き添いのできる小児病棟に移れる、って言ってたけど、そんなら今日無理に入院しなくてもいいのにね」
採血や注射が痛かったのだろう、検査から帰ってきた健吾くんは2度とも目を真っ赤に泣き腫らしてしゃくり上げていた。そんな彼を泣き止むまで抱き締めてあげていた里美ちゃんの思いが言葉から伝わってくる。夜だって……眠ってしまえばいい、というものじゃない。ふと夜中に目を醒ます事もあるだろう。その時、隣に見知った人が誰もいないと知ったら……せめて今夜一晩、そんな事のない様、俺は心の中で祈った。
9時50分を過ぎて、例の愛想のよい看護婦さんが最後の検温にやってきた。実は……それまでの20分程、ある言葉を里美ちゃんに告げるタイミングを図りながら結局言い出せずにいた俺は、彼女の登場で今日もそれが出来ずに終わる事に内心胸を撫で下ろしていた。口実はいくらでも作れる。明日……もう1日だけ、この病室で平穏な日を過ごしたい……
最初、里美ちゃんに体温計を手渡した彼女はカーテンを静かに開けて健吾くんの病床を覗き込んでいたが事情を知っているのだろう、俺たちの方に振り向き
「起こしちゃ可愛そうね」
そう囁くと、額にそっと手を当てた後、体温計を使う事なくカルテにペンを走らせた。
一方の里美ちゃんは受け取った電子メモリの体温計を寝巻きの胸の部分を少し肌蹴させて腋の間に挟む。その時ほんの一瞬だけピンク色の下着が目に入って俺はどきりとしたが……俺の視線に気づいている筈の彼女はその事をあまり気にはしていないようだった。
看護婦さんが退出してから5分、チャイムのような音が3回全館に流れて消灯の時刻を告げる。それを合図に俺は立ち上がった。
「それじゃ、今日はもう帰るよ」
「うん。今日は本当にありがとう。今……」
彼女は窓に目をやる。外側が埃で汚れた窓ガラスに霧のような小さな滴がびっしりと張り付き、そのいくつかは重みに耐えかねて緩慢な流れ星のように零れ落ちていった。
「外は雨が降ってるみたいだから気をつけて帰ってね。傘、持ってる?」
そう言えば……雨具なんて持ってなかったな。
「無いけど……どうせ自転車だからね。大丈夫。家に着いたらすぐに風呂に入るよ」
「そう……それじゃ気をつけて。風邪なんかひいちゃ、イヤだよ」
その時に見せた不安そうな面持ちは、俺への気遣い半分とそれから……
「それじゃ、おやすみ……」「あっ……」
部屋を出がけに俺が呟いた挨拶と里美ちゃんの小さな悲鳴がハモった。もちろん俺はその声に驚いてベッドへと取って返す。
「……どうしたの?」
「うん。お昼間、健吾くんとずっと一緒にいてメールを見てなかった事思い出したの。……どうしよう」
最後の”どうしよう”が俺に助けを求めているのだろう事はすぐに解った。彼女は一人ではパソコンの用意もできないし、消灯後に看護婦さんをそんな理由で呼び出す事も出来ないのだから。
「どうすればいいの?」
「……ごめんね? そこの配膳台をここに取り付けてパソコンを置いてほしいの。あと、電話の線を外してパソコンの線に繋ぎ替えてくれれば」
申し訳なさそうな彼女の視線に笑顔で応えて俺は指示された通りにパソコンを繋いだ。
「外したこの電話はどうする?」
「うん。取り合えずパソコンが置いてあった棚の中に入れておいて」
そのまますぐにパソコンに灯を燈した里美ちゃんに今一度問いかけた。
「……終わるまで待ってようか? 後片付けもいるし」
「……いい」
5秒ほど考えた後、彼女は静かにそう答えた。
「いてくれるのはとっても嬉しいけど、でも今日中に返事も返したいから。片付けは明日の朝で大丈夫。このままで眠れるわ」
返事を返す相手はまどかちゃん……か。多分今日1日の事をメールに書き記す事は里美ちゃんにとって日記をつけるのと同じくらいにプライベートな事だろう。
「わかった。それじゃ、今度は本当におやすみ。また明日」「お休みなさい、直樹くん」
そして今度こそ俺は病室を後にした。
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運命の諒解
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思った程には雨足も雨粒も酷いものではなかったが、それでも25分の道程の間に水を吸ったTシャツとジーンズは、到着間際の俺の肌に湿気の不快感を刻み始めていた。辻を曲がって自宅まで直線で50メートルの交差点で、最後の信号にかかり自転車の上で身体を丸めて舌打ちした俺を後ろから女性の声が呼び止めた。
「直樹君? こんな時間にどうしたの?」
その声に驚いて振り向いた視線の先、コンビニのビニール袋を提げた愛美ちゃんのお母さんが傘を片手に佇《たたず》んでいた。
「あ、今晩は。えと……」
この後どう告げたものか……一瞬迷った末に少なくとも状況だけは正直に答える事にした。
「病院の帰りなんです。その……お見舞いに行ってて遅くなったから。お母さんは?」
「私? 夕食後にちょっと飲みたくなってね。ビールだけじゃ物足りないからそこのコンビニまで買出し」
そんな風に僅かに照れた顔で差し出した袋の中、箱に入ったウイスキーのボトルとつまみらしき袋が二つ三つ。本当に思い付きで出て来たのだろう、何度も目にしたことのある部屋履きのワンピースにストッキングもつけない素足のままサンダルを履いている。
「大した距離じゃないけど、この時間に女性の一人歩きは物騒ですよ?」
「かもね。良かったら直樹君、家まで送ってくれる? ……大丈夫、愛美はもう寝ちゃったわ」
最後の言葉にドキリとした。やはりお母さん、何かに気づいている?
お母さんの横、自転車を押してゆっくりと歩く。自転車のかごにはコンビニのビニール袋が一つ。その代わりにおかあさんは気を遣って俺の方に傘をさしかけてくれてはいるがあまり意味を成していない。いや……その唯一の意味は”ひそひそ話が聞こえるくらいに”二人の距離を詰める事にあるかもしれないけれど。
「杉本さん、もう一人で歩けるようになってた?」
ある程度心構えが出来ていなければ心臓発作を起こしていたかもしれない。とにかくその言葉でおかあさんが俺と里美ちゃんとの事に気づいていたのだと確信する。もはや、この人に嘘やごまかしは効かない。
「いえ、まだ介添えがないとベッドから離れられないそうです。傷口の抜糸が明後日だって言ってました」
「そう。気の毒にね。……私にも責任の一端があるから心苦しいわ」
お母さん、そこまで気づいていたのか。俺は言葉を失ってお母さんの横顔を凝視する。この後俺に求める言葉っていったい……
「愛美がね」
俺の方を振り向く事なくお母さんは続ける。
「はい」
「今日、杉本さんの病室に行ったみたいなの。多分午後の3時過ぎかな? ……直樹君、気付かなかった?」
その言葉が指し示す意味を……俺は自分の頭の中で何度も繰り返した。お母さんだけじゃない。愛美ちゃんも……知ってしまった。
いや、どうせ告げねばならない事実だったんだ。けど、せめて男らしく自分の口から……なんて格好つけても仕方ないか。だけどこれで一つだけはっきりした事がある。
「……お母さん。明日うかがいます。会って愛美ちゃんに……話さなきゃいけない事があるんです」
「そうね」
僅かに間を置いてため息交じりにお母さんが呟いた言葉は……あまりにも淡々とした口調で、不思議な程に”そこに含まれる筈の”負の感情を感じ取れない。お母さんは声色を変える事なく言葉を繋げる。
「愛美は今、大切な時期だから。1日でも早い方がいいわ。それにね、直樹君。私は君のそんな”白黒はっきりつけるさっぱりした性格”を買ってるの。そこんとこ、失望させないでよね?」
「はい、必ず!」
不思議な会話だった。娘を裏切った少年とその母親の対峙にはおおよそ似つかわしくない言葉のキャッチボール。
「よし。それじゃま、一応通過儀礼という事で。目をつぶって歯を食いしばれ!」
「はい!」
パーン! 夜の帳《とばり》を破るような小気味よい音がほんの一瞬だけ俺たちの住む界隈に鳴り響いた。
自宅に戻ると……昨日同様、お袋が一人だけで出迎えてくれる。
「毎日頬に花を咲かせて帰ってくるのね」
苦い笑みを浮かべてそれだけ呟いたお袋は決して”誰?”とは聞かなかったけれど……
「昨日は里美ちゃんのお姉さんで今日は……清水さんのお母さん。今、ちょうどそこで会ったんだ」
そんな俺の言葉に一瞬お袋の顔色が変わる。
「清水さんの……お母さん?」
「ああ。……変な話だよな。まだ本人とは話も出来てないってのに。でもな、お袋。あのお母さんとはこれからもいい関係でいられるような気がするんだ」
もちろん何の根拠もない言葉だった。第一、二人を結ぶ”共通の人間”がいなくなった後でどんな関係を続けるつもりかと聞かれれば、曖昧な笑みを浮かべる他ないのだけれど。
「そりゃ……それに越した事はないわ。みずきの為にもね」
「あっ、そうか」
俺、自分の事ばかり考えてたけど、みずきには辛い思いをさせるかもしれないな。
「ま、いいわ。あなたが自分で選んだ事だから母さんはとやかく言わない。随分濡れてる様だから先にお風呂に入ってらっしゃい。その間に食事の支度しておくわ」
−・−
風呂と食事を終えて部屋に戻った時、すでに今日という日がほんの一瞬で暮れようとしていた。雨は先ほどよりもその勢いを増し、時より吹き付けてくる突風に乗ってバラバラと東向きの窓を叩いている。ふと部屋の壁に掛けられたカレンダーの「azumi」
の文字が目に入った。ふた月めくりのこのカレンダーもあと一週間でこの文字ごと破り取られてしまう。そして……その瞬間、愛美ちゃんは俺の中から完全に出て行ってしまうに違いない。
「写真……一枚もなかったんだな」
別に未練がましい訳ではないけれど、愛美ちゃんとのツーショットの写真が一枚もない事に今更ながら驚きを覚えた。裏浜に出かけた時でさえ彼女はカメラを持っていなかったし今回のアメリカ旅行の写真は……多分、受け取る事が出来ないだろう。そして……
俺は一瞬眩暈《めまい》を感じてベッドに倒れこんだ。
「愛美ちゃんだけじゃない。里美ちゃんとの写真も……」
……俺はこの長い夏休みの間、いったい何をしていたのだろうか。
部屋の明かりを落とした、その暗闇に時折りカーテン越しの稲妻の光が浮かび上がる。ごろごろ……数キロに及ぶ空間の旅の末、高音部を削り取られ精彩を欠いた雷鳴がトンチンカンなタイミングで轟き始めていた。ここから病院まで約5キロ。せめてこの雷が市街地と反対方向で鳴り響いていればいいのだけれど。
それは一瞬の予感の後にやって来た。いや、予感、というよりは表層意識では感知できないぎりぎりの波長を身体が感じ取っていたのかもしれない。ゆらゆら、ゆっさゆっさ。決して大きな揺れではないけれども明らかに地震と判る波長の長い振動はそれからたっぷり50秒ほど続いた。俺は素早く枕元の時計に目をやる。……零時34分。おそらく震源は静岡の方だろう。
全く……夢だといいながら演出が細かいな。ヒカルには未来の予知能力まで備わっているのだろうか? それにしてもいらぬおせっかいだ。この地震がなければあの時俺は……どうせ夢なのだから……里美ちゃんと結ばれていただろうに。そう言えばあの時の激情の切っ掛けは何だっけか。確か雷が治まった後、彼女が抱きついて来たんだったよな。”私を一人にしないで!”って。俺がどこか遠くに行って、彼女一人が病院のベッドで
……病院? ちょっと……待てよ。
がばっ、と上半身をベッドに起こした俺は天井から垂れ下がる蛍光灯のスイッチを引いて明かりを燈す。
「遠くへ行くってアメリカの事なのか? 彼女があの時見た夢って……この世界の現実? それとも……」
これまでぼんやりと不明瞭だった疑問が霧が晴れたかのように鮮明な像を結んでゆく。
「彼女、日記の中でこう言ってたよな。”なぜ、私がまだここにいるのか”って。あれって……彼女自身があの世界の住人でない、って意味じゃないのか? あっ、だから”本当の私のために結ばれちゃいけない”って。……ちょっと待てよ。冷静になれ、直樹」
あの夜の事を振り返る限り、ホテルでの里美ちゃんは”俺同様に”この世界から迷い込んだ様に思える。けれどもあれが本当に”ヒカルの作り出した夢の世界”だとしたら、彼女の”せりふ”一言、日記の一行に至るまで全て演出の可能性だってある訳だ。
もしあの日の里美ちゃんがこの世界の里美ちゃんだと証明したければ”現実のこの世界の中で”証拠を見つけなきゃならない。証拠、証拠……あっ!!
俺が心の中で小さな叫びを上げた瞬間。蛍光灯の明かりなど物ともせず東向きの窓をくっきりと浮かび上がらせる閃光が走った。間髪を入れずに轟く雷鳴。その轟音で一瞬痺れた鼓膜がようやく機能を果たし始めたその時、俺はかすかに聞こえてくる電子音を耳で捉えた。
「電話?」
俺はベットを飛び降りると素早く1階へと駆け出す。1回、2回……俺が階段を駆け下りるその間、風雨の音に紛れながらもその着信音が途切れる事はなかった。そして……
「はい、田村です!」
受話器を取り上げ様、叫ぶように答えた俺の耳に飛び込んできたのは……
「ピー、ガー、ガー……」
ファックスの間違い電話を受けてしまった時の様な不快な電子音の羅列。けれども俺はその音の正体を知っていた。だから……玄関に掛けてあったレインコートをパジャマの上に羽織って迷う事なく雷鳴轟く嵐の夜へと飛び出して行った。
自転車でひた走る嵐の夜を時より真昼の様に染める稲妻の閃光。目も眩む程の光の束に視線を奪われそうになる。耳を劈《つんざ》く雷鳴と合わせて、自分がまるで夜の戦場を彷徨っているかの様な錯覚を覚える。向かい風に乗って顔に当たる雨粒はさながら、小さな針のごとく俺の顔に襲いかかる。それでも俺は自転車を漕ぐ足を止めなかった。
実の所、俺も里美ちゃん程ではないが雷というものが好きではない。光や音に怯える訳ではなく、それが齎《もたら》すかも知れない”直截的な死”というものに生理的拒否感を感じるのだ。雷が近づいてきた時の”屋内の安心感”はだから、幼い子供の安全毛布にも似たものがあって、余程の事がない限り、このような状況下で外に飛び出すような事はしない。そして……今がその”余程の事”なのだけれど……
この不思議な程の安心感は何だろう。近い所で光と音の時間差はコンマ数秒の世界。死神に取り付かれた雷《いかずち》は間違いなくこの真上から俺の事を狙っている。けれども……そんな見えない恐怖から俺を守ってくれる運命の力を全身で感じるのだ。
”今君はここで雷に打たれて死神の餌食になどなっている時ではないのだよ”
そんな神の啓示にも似た”空耳”を心の奥底で聞いた。
病院の駐輪場からレインコードを着たままで夜間通路へと駆け出す。引き戸を乱暴に開けてずぶ濡れになったスニーカーと一緒に雨具を脱ぎ捨てた。もちろん意図した事ではないが、これで傍目には立派な入院患者になった。
非常口ランプだけが所々に燈るリノリュームの廊下をスリッパも履かずに駆ける。不気味なほどに静まり返った真っ直ぐに伸びる廊下を時折稲妻の閃光が染める様は出来の悪いB級ホラーを見ているようでゾッとしない。
落雷で停電になりエレベーターに閉じ込められてしまったら……そんな杞憂を間に受けて裸足のままで階段を駆け上がった。3階、4階、5階……パジャマは汗でぐっしょりと濡れて心地悪い事この上ないのに身体は信じられないほど軽い。まるで何かに導かれる様に俺はその病室へと飛び込んだ。
暗い部屋の中、ノートパソコンのバックライトで青白く浮かび上がった里美ちゃんは、ベッドの上に起こした体を自身の両手で抱きしめるようにして震えていた。
俺の駆け込んだその音に気づいて顔を上げたその瞳から、薄暗い部屋の中でもはっきりと判る程に大粒の涙がこぼれ落ちる。
「里美ちゃん」
思わず駆け寄った俺の胸に精一杯身体を伸ばして彼女が飛び込んできた。
「健吾くんが……健吾くんがっ、わぁ〜!」
取り乱した里美ちゃんの肩を強く抱きしめながら隣の病床に目をやる。カーテンが半分開け放たれたその向こう側、毛布を剥がされ剥き出しになった白いシーツがストロボの様に稲妻の光で浮かびあがる。
一人きりの病室、耐え難いほどの稲妻と雷鳴、暗闇を揺らす地震、そして……
どれほど心細かったろう。けど、もう大丈夫だよ。俺がいるから。明るくなるまでずっといるから。
俺は無言で彼女を抱きしめたまま背中に回した手で何度も何度も里美ちゃんを撫でる。嗚咽が少しづつ治まってゆく。強張っていた彼女の肩から緩やかに力が抜けていった。
「(よかった、本当によかった。今、こうして里美ちゃんを支えてあげる事ができて)」
もし今夜を離れて過ごしていたら、きっとこの腕の中の少女は壊れてしまっていたに違いない。俺はこの時、生まれて初めて”自分の身を捨ててでも恋する人を守りたい”と思った。
− − − −
「……今から1時間くらい前だったと思う……」
里美ちゃんはそんな風に語り始めた。ベッドに横たわった彼女の左手は俺の手を強く握りしめ、右手は……まだ瞳に滲んでいる涙を時折拭っている。
「雷の音で目が醒めたの。稲妻の光が恐ろしくて、でもうつ伏せになれないから枕で顔を覆ってたわ」
激しい雷鳴に何度か悲鳴を上げたりもした。余りの恐怖に思わず耳を塞ごう、そう思った瞬間。隣の病床から尋常ではない息遣いや呻き声が聞こえてきた。
「……始めは私と同じで雷が怖いのかと思った。でも違うの。泣き声とか、そんなのじゃない喉の奥から絞り出すような苦しそうな声でうなされてて」
発作かもしれない!
そう気づいた瞬間パニックに陥った。あんな小さな子が死んじゃう。
声を限りに叫んだ。”誰か! 誰か来て! 健吾くんが、健吾くんが大変なの!”
「自分の足で歩けない事がこれほど”もどかしい”なんて思わなかった。ナースコールに気付いてボタンを押すまでの間、自分の事が情けなくて悔しくて……」
20秒程で飛び込んできた看護婦さんは始め里美ちゃんの病床のカーテンを力任せに開き、涙ながらに反対側を指すその指に気付いて隣の病床へと駆け込んだ。その顔色が一瞬にして青ざめる。
「先生、至急お願いします。……はい、チアノーゼです。脈拍不全、心房細動の可能性もあります」
医師が二人の看護婦に付き添われて駆け込んで来たのがそれから約1分後。
心臓マッサージを試みる当初の看護婦に「慎重にな。閉鎖不全を起こすとやっかいだぞ」と指示して胸部を聴診器で診ていたが
「”開いた”方がいいな。吉田くん、2階の麻酔に連絡。人工心肺の手配も頼む。高橋さん、スタッフ集めて。後、ストレッチャー持ってきて。同意書がいるな……」
等々、慌しく指示を飛ばす。
全身を震せながら里美ちゃんが呆然と見守る中、それから僅か5分後に移動ベッドに移され酸素マスクを付けた健吾くんが昏睡状態のまま病室を後にした。最後に部屋を出て行った看護婦が入り口のスイッチでパチンと照明を落とす。
「”あ、待ってください”って叫ぼうとしたけど声が出なかった。私のベッドも健吾くんの所もカーテンが開いたままで真っ暗な空間に飲み込まれそうな気がしたの」
風雨も雷も勢いを増す一方で今度こそ耳を押さえてうずくまると、まるでダメを押すような長時間の地震。
「……小学校の時、音楽の時間に”魔王”って曲を聴いたの。その日の夜、やっぱり今日みたいな嵐になって……怖くて堪らなくてお父さんのお布団の中でずっと震えてた。私が雷をこんなに怖がるようになったのもそれが原因なの。さっき、その事を思い出したら、もう頭が変になりそうになって……」
繋ぎっぱなしのパソコンを使って俺の所に電話を掛けた……
里美ちゃんは俺の手を強く握りしめたままで”健吾くん、大丈夫だよね。”とうわ言の様に繰り返している。居たたまれなくなった俺が「ちょっと様子を聞いてくるよ」と立ち上がりかけたその腕をしかし、彼女は一際強く握りしめる。
「お願い、一人にしないで。私の側にいて。……健吾くんの事、待つから。元気になるように信じて待つから」
「わかった。どこにも行かないよ。安心して」
そんな俺の言葉にようやく安心した里美ちゃんは腕の力を抜き小さくコクリと頷いた。
雷が通り過ぎた後も暫くの間ガタガタと叩く様に窓を揺らす風雨は続いた。夜光塗料で薄闇にぼんやりと浮かび上がる目覚まし時計の針は午前二時を指し示している。病床を取り囲むカーテンをスクリーンに浮かび上がる街灯の明かりが街路樹のざわめきでちらちらと炎の様に揺らめく。ほど良く効いた空調はしかし、汗で湿ったパジャマを通して俺の体温を奪っていく。握りしめた左手の温もりが愛しい。二、三度ぶるっと身震いした俺の仕種に里美ちゃんは気付いたようだ。
「直樹くん……寒いの?」
「ちょっとね。ここに来る途中に汗だくになってたパジャマが冷えてきたみたいだ」
彼女の見開かれて闇に輝く澄んだ瞳が、瞬く事も忘れたように俺の目をじっと見つめている。一瞬だけ俺の左手を離れた彼女の掌がパジャマの胸元あたりを遠慮がちに触れる。
「大変、ぐっしょり濡れてるわ。……ね、病院で借りた浴衣で良かったら洗濯したのがあるよ。直樹くんには少し小さいかもしれないけど、このままじゃ風邪を引いちゃうから」
「そうだね。それじゃ、遠慮なく借りるよ。……これだね」
棚から取り出した浴衣をベッドに置き湿ったパジャマを脱ぎ捨ててゆく。肌着をつけていない俺がブリーフ一枚の姿になっても里美ちゃんは俺の身体から目を逸らそうとはしなかった。浴衣を羽織った後、脱いだパジャマをハンガーに”干して”またベッドサイドに腰を下ろす。
「ありがとう。暖かいよ、これ。柄が……」
袖の部分を窓の薄明かりにかざす。ゴシックの墨文字で病院の名前を羅列した無愛想なデザイン。
「……今一だけどね」
その刹那、小さく笑った里美ちゃんは
「病院の浴衣にミッキーやミニー、という訳にもいかないもの」
そう落ち着いた口調で呟いた。
お互いの目を数瞬の間じっと見つめ合った。まるで最初から諒解された事の様に俺も、そして里美ちゃんも決して取り乱す事はなかった。
「一昨日……ディズニーランドで一緒に過ごした”里美ちゃん”はやっぱり君だったんだね」
言葉で答える代わりに彼女は真剣な面持ちでコクリと頷く。その瞳が潤んでゆらゆらと揺れている。
「それに……エル・ミーパークで過ごしたあの日曜日も。俺、ずっと悩んでた。あの日の教会で里美ちゃんが落とした涙の理由《わけ》。今……やっと解ったよ」
そのままどちらともなく体を寄せ合い、そして深く抱きしめ合った。俺の頭の中を幾つもの異なった思いが交錯して駆け巡る。彼女に詫びなければならない? そうかも知れない。けれども……
「よかった。本当によかった」
俺はうわ言の様に彼女の耳元でそう繰り返した。里美ちゃんにはわからないかも知れない。”大切な思い出を僅か2日でも目の前の君と共有する事ができた喜び”の事など。
それでもかまわなかった。御崎水族館での君の笑顔、模擬式での儚すぎる程に神秘的な君のドレス姿、そして……東京で過ごした二人きりの夜。
この思い出はもう夢じゃない。お互いがお互いを見つめる事ができた瞬間、夢は”現実のおもいで”へと昇華するんだ。
「ね、一つだけ訊いていい?」
抱きしめたままの里美ちゃんが不意にそう呟く。
「なに?」
「私の事。いつ気づいてくれたのかなって」
気づいてくれた……つまり、早ければ早いほどよかったのだろうけれど。
「……ごめん、正直に言うよ。ついさっき、雷の音を聞いて里美ちゃんの言葉を思い出した。”病院に一人取り残された夢を見た”って話。……本当はもっと早く、例えば今日のお昼間に気づいてあげるべきだったんだけど」
「お昼の話?」
俺は彼女の柔らかな髪を指に絡める様に撫でながら言葉を続ける。
「旅行の写真を見せた時。里美ちゃん、確か”エル・ミーパークに送るの?”って、そう言ったよね。……あれって、やっぱり謎かけだったのかな」
その刹那、まるで甘えるように頭を俺の肩にもたれかけた里美ちゃんは「そうだね」と穏やかに答えた。
「それと……99パーセント自信はあったの。だけど……残りの1パーセント、あの時の直樹くんが私の一番大切な人と本当に同じ人なのか確かめたかった。だから……」
「だから?」
「ホッとした」
里美ちゃんは顔を起こしてもう一度俺の目を覗き込むように見つめる。
「あなたで」
「俺もそう思ってる。……ちなみに里美ちゃんはいつ気づいたの?」
俺の言葉に一瞬首を傾けて記憶を思い起こすような仕草をした彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたが……」
ふと気づいた。里美ちゃんの俺への呼び名が……多分今だけ”あなた”に変わってる。
「もう一つの世界に来ている、って気付いたのはタクシーの中で小池先輩と話していた時。先輩が言ったの。”私だけじゃなくて、あなたもこちらの世界に来てたら物語が盛り上がるのに”って。それで気づいた。どうしてあなたが私の部屋の電話を知っていたのか、ずっと気になっていたから」
知らない間に雷鳴は治まっていて、囁く様な里美ちゃんの声が随分と聞き取り易くなっていた。お昼前に看護婦さんに洗ってもらった髪の毛からいつも通りの甘い香りを感じる。
「それじゃ、小池先輩には正直に自分の事、話したんだ。先輩、信じてくれた?」
「わからない」
穏やかにそう答えた彼女の顔にそんな事はどうでもいいの、の笑みが浮かぶ。
「私も”物語として聞いてください”って前置きしたしね。でも……信じてくれてた気がする。とても大切な事、アドバイスしてもらったから」
……それが”自然の流れに身を任せてみては”ってあの言葉なのだろうか。
「それと……あの夜の”直樹くん”があなただって気づいたのは、その……」
そこで里美ちゃんは一瞬、抱きついた姿勢のままはにかんで視線を逸らす。
「あなたに……その、優しくしてもらってた時。右手の指輪の話をしたでしょう? あれ、こっちの世界では指輪を隠す口実でしゃべった出まかせだったから」
そう言ってかざした右手の指輪がカーテンに映る薄明かりで淡い金属光沢を放つ。
「だから……あの後とっても安心してぐっすり眠れたわ。ホッとしたの」
最後に彼女が呟いた言葉の含みを知る事なく俺は紡ぎ出される疑問を質問に換えて続ける。
「そう言えばまだ訊いてなかったね。里美ちゃん、どうやって向こうの世界に行ったの?」
「それと同じ質問をあなたにもしたいけど。私の場合はあなたに貰った”安全ピン”。あれをつけて眠ったら翌朝もう一つの世界に迷い込んじゃった」
「付けてって、安全ピンを? どこに?」
「身に付けてるものならどこにでも。けど……」
そこで里美ちゃんはいったん抱きしめた手を俺の肩に置いて、俯き加減に俺の顔を見つめる。その瞳が……拗ねてる時のように上目遣いになってる。
「着てる服も一緒に、っていうのには少し困っちゃった。……昨日の朝目覚めたら裸同然で自分じゃ寝巻きも取れないし、看護婦さんに言い訳するの大変だったんだから」
安全ピン……あれってそういうシロモノだったのか。ヒカルのやつ両方の世界で持ち歩きたいものに付けろ、って意味でくれたんだろうけど。さすがのあいつも”人間が身に付ける”なんて事は想像もしてなかったんだろうな。
「はは、大変だったんだ。でもまた一つ疑問が解けたよ。あの時、ショーツにピンを付けてたんだね。だからあんな妙なお願いを」
「くすっ、覚えていたんだ。99パーセントは確かにそうだよ。でも残り1パーセントは……あなたの悪戯に釘を刺したの」
ペロリと舌を出して笑ったその笑顔の気分を少しでも引っ張りたくて俺は右手の指先で彼女のおでこをピンッと弾いた。
− −− −
夜はまだ長い。もう健吾くんの手術は始まっただろうか。経過を知る事が出来ない俺達にとってその話題は今触れたくないモノだった。
「次はあなたの番」
ひと渡り笑いあった後、言葉を潜めて里美ちゃんが呟く。
「聞かせて。どうやってあなたが向こうの世界に行ったのか」
この時俺は既に知っていた。彼女の興味の対象が”どうやって”ではなく”どれだけ”であるか、という事を。だから、最初に……
「そうだね。……その前に一つお願い。”あなた”って響きも悪くないんだけど、それはもう少し先に取っておくとして、やっぱり俺の事、名前で呼んでほしいんだ」
頭の回転の速い里美ちゃんはそれで概ねを理解したようだ。無言のままじっと俺の目を見つめている。
「あの世界がパラレルワールドか夢かはよく解らない。けど少なくとも”里美ちゃん”にとっての”直樹”は俺一人だけなんだ。この意味解るよね?」
君にとっての俺も、そして向こうの世界で彼女の日記を埋めた直樹もすべて”この俺”。その意味を理解したように里美ちゃんはしっかりと頷く。
「それで、俺が向こうの世界に行ったきっかけは……」
本当は愛美ちゃんとの両天秤の話を避けて通りたかった。けれども唯でさえ不可思議な一連の話に妙な隠し事をすれば辻褄が合わなくなる事は目に見えていた。俺はヒカルとの会話の一部始終を彼女にして聞かせる。
土曜日の学校での出会い。翌日、目が醒めて大いに落胆させられた事。その日学校での里美ちゃんが妙に眩しかった事。そして日曜日のデートに歓喜した事、等々。
出来る限り里美ちゃんとのエピソードだけを掻い摘んだ俺の話を里美ちゃんはベッドに上半身を起こし陶酔した様に聞き入っている。
「……もちろん最初はヒカルの言葉を単なる冗談と聞き流してた。けど……里美ちゃん、怒ってる? 最初から君を選ばなかったこと」
息を飲んで見守る中、里美ちゃんは笑顔で首を横に振る。
「そんな事ない。ちゃんと私の事知って”最後に選んでくれた”のが一番嬉しいよ。でも……」
僅かな光が彼女の瞳の陰りを映し出す。
「でも?」
「清水さんには本当に申し訳ない、って思ってるの」
その言葉に……俺の胸もズキンと痛む。里美ちゃんは俯き加減に言葉を続けた。
「小春ちゃんが来た夜に1回、その二日後に1回、大雨の夜ずぶ濡れになった日にも1回、それに、怪我をした日にもう1回で、全部あわせると4回。これって解る?」
思い当たる事はあるものの、それがはっきりとした言葉に出来なく絵俺は曖昧な笑み……苦笑いを浮かべる。
「……私が直樹くんに失恋した数。すごいよね、同じ男の子に4度も失恋するなんて。”いい加減、諦めろよ!”って誰かに突っ込まれそうだけど……でも出来なかった。だって直樹くん、優しいんだもん」
目尻に浮かんだ彼女の涙が淡い光を反射してキラリと光る。
「だから……この痛みがよく解るの。大切な人の気持ちが永遠にどこか行っちゃうんだよ? そんなの……私なら耐えられないよ」
その言葉が……暗に俺を責めている様な気がして思わず背けようとした俺の顔を里美ちゃんが両手で優しく包み込んだ。
「勘違いしないでね。だから……私は絶対に直樹くんを失いたくない。あなたが私の事を大切に思っていてくれる限りずっと一緒にいたい。清水さんには本当に申し訳ないけど……でもその為に彼女の心を傷つけてしまうのなら仕方がないって思ってる。イヤな女の子だよね? ……直樹くん、ごめんね。私、その事であなたが誰かを悲しませる事があっても絶対に責めないよ。だから……」
なおも言葉を続けようとする里美ちゃんの唇を人指し指で優しく塞いだ。
「俺……明日、清水さんの所に行くよ。ちゃんと話をしなきゃいけないんだ。明日1日だけ彼女の為に時間をもらっていい?」
その問いに答える代わりに俺の目をまっすぐに見つめた里美ちゃんが希う様に怯えた瞳でポツリと呟いた。
「……信じていい?」
俺は……里美ちゃんの掌を両手で握りしめて「コクリ」と深く頷いた。
−・−
午前3時を過ぎた。薄明まであと1時間ちょっと。いや、天気が悪いから明るくなるまでにはもう少しかかりそうだ。先ほどの言葉を最後に会話が途絶え眠気を感じ始めた俺に里美ちゃんが思い出した様に呟く。
「健吾くん、大丈夫かな……」
「わからない。でも……」
俺は家を飛び出した後、ずっと感じていた気持ちを言葉に表す。
「なぜだか解らないけどあの子はきっと元気になるような気がするんだ。何かこう、予感みたいなものでね」
言葉に出しては言わなかったけれど、先程からずっと感じている事がある。今日、雷の夜に飛び出した時のあの”不思議な安心感”を含めてこの一ヶ月はずっと誰か(そいつがヒカルだとしたら癪に障るけれど)に導かれていた”運命の期間”なのだと。ヒカルは最初に”二人と付き合って本当に好きな人を選べばいい”と言った。けど、やつはあの時既に知っていたのかも知れない。俺が里美ちゃんを選ぶだろう事を。そして……多分、今日の事を含めて事はその誰かの書いた筋書き通りに展開しているんじゃないか? それならそれでいい。けど……その為に誰かが”これ以上”不幸になる必要なんかないよな。
「(それでなくても……)」
俺はカーテンに映った窓の明かりに目をやる。その視線の先を里美ちゃんが目で追うのが分かる。
「(なあヒカル。もしそれが最初から解っていたのなら……愛美ちゃんとのこの1ヶ月は一体何だったんだ? この運命の先に味わう彼女の不幸は……本当に必要な事なのか?」
割り切れない思いに悶々としながら不思議そうに見つめる里美ちゃんの方へ俺は視線を戻した……
今何時だろうか。さすがに眠い。手術の結果はどの道、朝にならなければ判らないだろう。親族でもない俺たちの所にわざわざ報告しに来るとも思えない。里美ちゃんもベッドに体を起こしたままで先ほどからうつらうつらしている。明るくなるまで帰らないと約束したものの明日の事を考えると少し眠っておきたい。
「里美ちゃん、少し眠ったら? 俺もパイプ椅子並べて横になるよ」
本当は隣の病床を間借りしたい所だが多分(手術が成功したところで)二度と帰って来ないとしても命に関わる少年の手術中にそのベッドで眠るのは躊躇われた。
「ね、私の隣じゃ窮屈かな?」
「え?」
その言葉に改めて彼女の顔を覗き込んだ。何かを期待している……という訳ではなく、不安から”兄に添い寝を願う妹のような”切なげな表情。
「いいけど。狭くなってベッドから落っこちても知らないよ」
そんな俺のおどけた言葉に彼女は
「大丈夫。直樹くんにしがみついて眠るから」
そう言って笑った。