『思い残し症候群』
2001年11月 記
本屋歩いてて、たまたま見つけた本なんですが、これはマジで”大当たり”でした。我が直観力の鋭さに思わず脱帽してしまった程です。読んでてあっちこっちで感動したし、いちいちハハァ〜んと納得させられてしまいました。語り口が明快で、ズバっと言い切るところも信頼が持てます。
大雑把に言えば心理学の本でしょうか。も少し具体的に言えば人間関係、特に親子関係や恋人関係における「愛”する”心」の重要性を力説してる本です。著者は、動物行動生理学と人間行動学を専門とする香川大学の先生です。とは言っても難しい話は一切なく、誰でもスラスラと読めます。読み進めていくうちに、「…、私って本当に愛されてたかしら…?」と、自分を取り巻く、あるいは取り巻いてきたあらゆる「愛」らしきものに対し、疑いの気持ちがわいてくることでしょう。
ただ、本物の愛を受けて育ってきた人なら、そんな疑いは自然とわいてこないと思います。愛というものに対して微塵でも疑いを抱いてしまう時点で、その人における本物の愛の欠如は、ほぼ決定的かも知れません。そんなことも、この本を読んでいれば何となくわかってきます。(ええ、私は疑いは思いっきり抱きました。ってかとっくに抱きまくってます。愛されずに育ってきたってことは既に十分承知の上ですから。)
愛は連鎖する、また正反対の妬みや憎しみも連鎖する、そういうことをこの本は言っています。愛された人(本物の愛を人から受けた人)は、人を愛せるようになります。そしてもちろん本物の愛で人を愛せるようになります。一方で、人から本物の愛を受けられなかった人は、人を本当に愛することはできません。なぜなら、人は”してもらったことしか出来ない”からです。本物の愛をもらえなかった人は、本物の愛というものをそもそも知る由がないんです。そりゃそうです。北京語知らない人に北京語しゃべれって言っても、しゃべれるわけないんです。だから愛を知らない人は、人を愛せないんです。愛は本能的なものなのかどうかはわかりません。でも、例え本能だとしても、本能だからといって自然に発せられるとは限らないのです。本能とは、ある一定の刺激があって初めて発現するものだからです。母性本能だって、刺激を得る過程において何らかの精神的・社会的な障害があれば、正常には発現しないのです。あるいは刺激は受けても、発現する過程において障害があれば、それもまた同じことです。本能ってのはそういうものなのです。闇雲に自然に流れ出るものではないのです。
では、本物の愛をもらうことが出来た人は、なぜ人を愛せることが出来るようになるのでしょうか。岩月氏によれば、それは「愛することは、”快”だから」なのだそうです。人を愛して、人の幸福を願い、人の人生を応援し、人が悦ぶのを見ることは、本来人間にとってはとても気持ちのいいことだからなのだそうです。そもそも愛された人は、愛されたが故に人の愛し方が体験的にわかる人です。さっきと同じようなことをいいますが、人は、されたことは他者に対して出来るのです。
では、愛されたはずなのに、人を愛せないという場合は、これは一体何なのでしょう?
さっきからちょこちょこ言ってますが、「本物の愛」・「ニセモノの愛」とは一体何で、どういう違いがあるのでしょうか。「愛されたはずなのに、私は人が愛せない」、この場合はニセモノの愛を本物の愛だと勘違いしてしまっていると捉えることが出来ます。あるいは、ニセモノの愛であっても、それをどうしても本物の愛であると思わざるを得ない環境で育ったので、「私は愛されてきたのだ!」と思い込んでしまっているのかもしれません。
「ストックホルム・シンドローム」という言葉が本書の中でも度々出てきます。愛のない家庭において、子どもはいくら愛のない悪い両親であっても、自分の生存権を握られている以上、敵対するわけにはいきません。だから子どもは生きる為に、そんな悪い親を心の中で「良い親だ!」と無理矢理に解釈を変えてしまうのです。「自分は良い親に愛されて幸福のうちに育ったのだ!」と信じ込んでしまうという現象です。これは恐ろしいことに、その子どもが自分の心の中に「嫌いな人=好きな人」という全く歪んだ公式を刻み込んでしまうことになるのです。こういう子どもは当然のことながら、後々恋愛などの親密な人間関係において失敗します。嫌いな人を好きになってしまうからです。そしてそのことに気が付きません。なぜなら、気が付いてしまったら大好きなはずの自分の親を悪者にしなければならなくなるからです。それは自分の人生の前半を真っ暗闇にしてしまう極めて恐ろしいことなのです。
話を戻しますが、ニセモノの愛の具体的な例としては、「依存」・「執着」などが挙げられます。これらは一見、本物の愛のように見えます。ある人のことを四六時中思い続ける、その人のことが頭から離れない、その人に良かれと思って世話を焼まくる等々。本物の愛と割と似ています。しかし、決定的に違うのは、それを行って誰に利益がいくかという点です。本物の愛であれば、それは「与える」ものです。ニセモノの愛の場合は、「得る」ものです。つまり、相手に対して何をしたって、結局利益が自分に返ってくるのであれば、それは依存・執着、すなわちニセモノの愛です。本物の愛も、「情けは人の為ならず」と言うように(って、この言葉も何か胡散臭いものが感じられますが…)めぐりめぐってやがては自分に返ってきます。しかし、それはあくまでも副次的なことです。本物の愛を与えることが出来る人は、見返りを求めません。さっきも言ったとおり、愛すること自体が快なのですから。
依存・執着、ニセモノの愛を出す人は、明らかに(もちろん無意識のうちに)見返りを求めているのです。だからニセモノの愛をもらった人は、嬉しくも何ともないのです。むしろ虚しくなるのです。結局の所自分には何らの利益も来ないからです。誤解されないように言っておきますが、ここで言う「利益」とは、心的利益のことです。要するに幸福感とか、そういったもののことを言っています。
では本物の愛とは、一体何でしょうか?さっき既に言っちゃってますが、人の幸福を願い、人の不幸を悲しむ心のことです。人の人生を応援できる心のことです。
今の時代、本物の愛を出せる人が少なくなっていると、岩月氏は言います。だから多くの人々が愛に飢えていると。だから勘違いをして、ニセモノの愛に走って行ってしまいやすくなっていると。「思い残し」とは、親、特に父親から性を越えた聖なる愛=本物の愛をもらえなかった女性の、満たされないの心のことです。思い残しのある人は間違いを犯しやすい。ニセモノに走りやすく、またニセモノであることに気が付かないので、何度でも同じ失敗を繰り返し、自分を不幸な方へ不幸な方へと追いやってしまうのです。そのような人を救うのは、本物の愛を持っている人だけです。だからこそ、本物の愛を出せる人が今の世の中には必要なのです。
家、または社会全体の「気」、愛のある気が漂っているか、妬み・憎しみの気が漂っているか、その気によって、その家・その社会の行く末が見えると言います。悪い気の中にいたら、いつまでたっても不幸の悪循環から抜け出せません。勇気をもってそこから出て行って、愛のある良い気が流れているところ、すなわち人を愛することができ、人の幸福を願える人がいるところに行かねばならないのです。そして愛してくれる人から本物の愛を調達し、そして幸福な、本来の自分の人生を生きれるようになるのです。
”幸福とは、愛することである”。
愛されることは虚栄心の満足であり、つまり自己満足の域を出ていない。人を愛する気持ちこそが、幸福につながる道である。
これはドイツの小説家トーマス・マンが、自伝的な短編『トニオ・クレーガー』の中で書いていることです。人を本当に愛せる人が増えれば、その社会は明るい、やる気に満ちた活力のある社会になるといいます。今の日本はどうでしょうか。
すべての人が人に対して、互いに真の愛を提供し合えるような、そんな社会が実現すればいいと思います。
お、今回は随分とマジメちゃんだね。(笑)