『〈自己愛〉と〈依存〉の精神分析』




(5) 2004年5月 記


 (1)から数えてもう1年以上経ってるけん、もう一個書いちゃった。これで最後じゃけんね、多分。

 とゆーことで、まずは小ねたから。「自己対象」について、その意味を示す調度良い表現を思いつきました。「自分の心の糧になる他者」。どでしょか?
 んでもう一個。人を尊重し、敬意を持って接することは人にとっての鏡自己対象になることだと思います。既に説明しましたが、鏡自己対象とは「”良い自分を映してくれる鏡”になってくれる他者」のことです。逆に人を尊重せず、軽視するようなことは人の自己愛をキズつけます。そこから考えると自己愛といわゆる自尊心って、同じものかもね。


 では今回の本題に入らせていただきます。題して、「生みの親より育ての親」ッ!

 現代の親子問題は、子供一人当たりの自己対象候補=”選択肢”が1(母か父)あるいは2(母父)、場合によっては3〜5(兄弟、祖父母等)ぐらいしかないことに原因がある。かつては一人の子供を地域全体で育てていた。それだけ、一人当たりの自己対象の数も多かったし、実の親・実の家族がちょっとぐらい”足りなくても”、また欠けていても”他人”が補ってくれてなんとかまっとうに成長することができた。
 そもそも昔は今ほど医学が発達しておらず、病気で死んだり戦乱等で死んだりして実の親が欠けるという事態は今よりもずっと多かっただろう。それでも人類は今日まで生き延びているのである。実の親がなくても育ての親がいれば生きれるということである。
 地域社会の崩壊は大きい。それに代わるなんらかの生活環境システムを開発しなければならない。世代を越えて人々が”共生”するあたらしい”共同体(コミュニティ)”を創る必要がある。そこは帰るべき心の母港でもある。

 また、人一人の「愛を出せる量」と「欲する愛の量」というのは違うといいます。だから親子間で「親>子」(親の愛を出せる量が大)になったり、「親=子」(親の愛を出せる量と子の欲する愛の量が等しい)になったり、「親<子」(親の愛を出せる量が子の欲する愛の量を下回る)になったりし得るのです。「>」や「=」なら問題ありませんが、「<」の場合は子が愛情飢餓(あるいは自己愛不満)に陥ってしまいます。その場合に必要になってくるのが”他者”です。家族の外部から愛(あるいは自己対象)を調達しなければならないのです。(この辺の詳しいことについては、岩月謙司氏の『「子どもを愛する力」をつける心のレッスン』という本をご覧ください。)
 家族というものはそもそも密閉性の強い組織であり、一たん不具合が生じると単体ではなかなか正常化がしづらいものではないかと思います。その点から考えても家族の外部の”他者”というものが重要になってくるのです。それはある時は監視機関となり、またある時は補助機関となるのです。家族という狭い枠を越えて、もう少し広い単位で物事を考えれば、心理学的な問題のみならず、子育ての問題や青少年・老人の問題なども案外簡単に解決するのではないでしょうか。

 以上の話から見ても、やはり自己対象というものと、自己対象の選択肢の豊富さ=”他者”の豊富さ=人間関係の豊かさというものが大切だということがお分かりいただけると思います。
 心理学的に言っても、人間一人にできることは限られていると思います。一人の人、もしくは少数の人に頼りすぎるのは不自然で、そもそも無理なこと。頼って依存するなら複数の人々にすべきです。そうすれば依存する一人当たりへの負担も軽くなります。複数の人に頼り頼られ、共に生きていく姿こそ、精神衛生上健康的な姿だといえるのではないでしょうか。群生動物として、その自然のあり方に則り、群生して集団で生きてはじめて人間は完成体なのではないでしょうか。


 ということで、目指すは”特定の老若男女が集うGemeinschaft(ゲマインシャフト)”の創設。ゲマインシャフトとは、情緒的・文化的集合体のこと。”不特定”多数で集まっても、深い関係性が育まれず、心理的変化も起こらないので、”特定多数”。あとは別のところで書きましたが、中学で心理学教育が行われるようになれば、地域の精神衛生の質は飛躍的に向上し、人々の心に活気が生まれます。それはより広い地域に波及していき、やがては国力をUPすることにつながっていくことでしょう。

 まぁ、コフート自身の理論からはだいぶ離れましたが、こんなことを考えてみました、と。


 こんどこそほんとに、ちゃんちゃん。