『バカの壁』



2005年1月 記


 滅多にベストセラーには手を出さない私が読んだこの本、…面白かったぁ。。なんつーか、最新の脳科学のことや哲学的なこと、要は養老孟司先生が常日頃から考えていることを平易な言葉で書き綴った、という感じのもの。口述筆記なのでとても読みやすい。スラスラいけちゃいます。

 内容は色んなことが書いてあるんですが、今回はずばり、”個性は身体に宿る”、この点について軽く述べてみたいと思います。
 要するに、養老先生が言うには個性というものは後天的に作っていくものではなくて、先天的に身体に刻まれているものなのだということなのですね。だから個性を伸ばすということは、もともと持っているもの=個性の種(たね)のようなものを開花させるってゆーか、そんな感じの行為だと言えるのですね。

 実はこれはねー、ユング心理学的にも言えることなんだよね。ユングはね、人間の根本的な心理ってのは、物質としての身体であるところの”神経”に生得的に(=生まれながらに)刻まれているのだと述べているのです。つまりそのー、なんだ、心ってものを、なんかこう、モヤモヤした実体の無い精霊みたいなものとは考えていないのね。むしろ”唯物論”的に心を物質のかたまり、もしくは物的システムと捉えているのです。

 例えば「元型論」。元型っていうのは、簡単に言うと「すべての人間の心に共通の、心の働き方」ってなところかな。例えば一番わかりやすいのはいわゆる”母性本能”かな。「かわいい」っつーような刺激を感覚器が捉えて脳が感知すると、「きゃ♪かわいい♪♪」っつー感情が湧いてくる、みたいな。。要するに一定の刺激を受けると、それに反応して一定の心の動きが現れる…みたいな。。ここらへん難しいよね。おれもこの話を自分なりに理解するのに何年もかかったからね。
 でユングは、そういう心理も、後天的に発生したものではなくて、遺伝子のレベルからプログラムされているものなのだと考えたわけです。もちろんユングは1960何年かに死んでいる人なので、遺伝子とかDNAとかそういう概念は知らなかっただろうし(多分)、当然現在のような脳科学もなかったわけで、自分なりにそういうものを想定して考えていったわけです。でも自分なりに想定してさ、現代のDNAとかにつながっていくような考えに行き着いているわけだからさ、やっぱりユングってすごいんだよね。

 こういう元型みたいな考え方をみると、養老先生のいう「個性は身体に宿る」という論もよくわかるんですわ。「心は物質か?物質ではないものなのか?」という議論がありますが、おそらく養老先生と僕の意見は一致して、「心は物質だ」という答えに至るでしょう。もちろんこれは推測の範囲を出ない考えなのですが、やはり心ってものを特別視して物質に根付かないものとして考えると、何かとおかしなことが起こりやすいような気がするのです。あやしい宗教なんてその最たるものですね。実体の無いイメージばかりを膨らますことにより、現実の物的世界との”乖離(かいり)”が甚だしくなってしまう。その隔たりは200海里なんてもんじゃない(←ギャグ)。そしてその隙間の暗闇になんらかの悪が入り込むと、さぁ大変。
 心の大切さってのは、唯物論的に心を物として捉えても決してなくなりゃあしない。むしろその大切さが明確にビビットに、より正確に理解されるようになるんじゃなかろうか。わしはそう思うけんね。

 個性は身体に宿る。例えばどうだろう、生まれつき右足の膝から下がなかったら。その人は歩行に少なからず支障をきたす。ということは移動にも支障をきたす。他の人があっちやこっち、あそこやどこやへと行きたいところへ行きたい時に行くのに対し、彼はそれが困難であるがゆえに少なからず制限がかかる。車椅子や義足などを使えば動けるが、そこには車椅子や義足を使うという事実が必ずついてまわることになる。健常A氏と身障B氏、その心性(心のあり方)に何らの違いも現れないと言えるだろうか。個性は身体に宿るというのは、こんな風に考えてみてもいいかもしれません。

 今のは後天的な心理形成に関わる話でしたが、ちょっと戻ってユングの元型論の話を考えましょう。要するに元型論の考え方では、人間の心理も生得的に、あるいは”本能”的に決まっている部分があるということでした。後天的に環境の影響を受けて作られていく部分と、遺伝子レベルからの本能的な心理の部分があると、そういうお話でした。でその本能的な心理は万人に共通であるということは、「それじゃあ”個性的”じゃないじゃん?みんな同じなんじゃん?」と思うかもしれません。大丈夫、ご安心くだされ。そうじゃねーんだよ。
 ユングはかくのごとく言ってはります、「人間はみな目・鼻・口・耳を持っている。その点については万人共通である。がしかし、パーツ一つを取っても人それぞれ千差万別である。ましてその集合体である”顔”ときた日にゃアンタ、同じということはありえないくらいみんな違う。」つまり、みんなが持っているという点では同じでも、個々のものを見ていくと差異があると、そういうことなのです。みんなが母性本能を持っていても、一人一人の母性の現れ方はビミョ〜に異なる、と。そこに個性が現れるのだ、と。

 ユングはよく「個性化」ってことを言うんですがね、この個性化ってのは、そういう一人一人が皆と同じく持っていながらも個別的には異なる個性を、全部発揮しろ!というものなのです。一人の中に個性というものは色々あります。目の個性・鼻の個性・口の個性・耳の個性。それら一つ一つの個性を磨いていけば、それらの集合体としての顔の個性は、もう他にはあり得ないようなとびっきりの個性となる、ということなのら。あ、もう疲れた。。やめる。。

 あ、そうだ、もう一個だけ書かなきゃ。「本能」ってものの話。本能寺の変じゃないよ。本能ってのはさぁ、トカゲとかだったら単純なんだけど、人間ぐらいの高等な生物になると、本能が発現するシステムもすげー緻密で複雑になるわけよ。本能ってのはインプットとアウトプットとあるわけなんだけど、インプ・アウプ、それぞれ道が複雑でどっちかのどこかでちょっとつまづくと、もうすぐその本能全体がまともに働かなくなっちゃうわけね。
 複雑なシステムってなんでもそうでしょ。機械のこととか考えてもらえばわかると思うけど、ほんのちょっとの小さなところがアレしちゃっただけで全体がアレになっちゃったりするじゃない。それと一緒で人間の本能もちょっとのことですぐ立ち行かなくなっちゃうわけ。だから本能だから万人に共通といっても、なかなか現実的な現象としてはそうは見えないん。母性をとってみても、精神の回路にちょっとでも不具合があれば、神木クンみたなかわいい男の子をみても(←Who?)カゥワュ〜イ♪なんか喰っちまいてえ!ジュルっ!みたいな感情は出てこねーわけさ。

 補足だけど、だから「本能が”働いていない”」ってことと「本能が”無い”」ってことは違うってこと。子どもを見てもかわいいと思わないからこの女性には母性本能が無いと捉えるのではなく、それはなんらかの原因により本能が正常に働いていないのだと捉えるべきなのです。その違いははっきりさせといて欲しいんだよね。
 この話はユング学者・林道義氏のユング本(PHP新書)からの受け売りっす。あしからず。

死ぬ。。寝る。。

あ、そそ、もう一個だけ!個性が身体に刻まれているならば、個性ってものはそうそう簡単には潰れないはず。ちっとやそっとの環境の影響では個性の根本は変わらないってことだな。川の流れを想像してごらん。堰き止めようとすれば水位が上がる、邪魔が入れば右なり左なりに折れていく。そんな感じ。
 逆に言えば、無理に個性を潰そうとすれば(例えば画一的な型にはめようとするなど)、その個性のエネルギーが抑圧されて、おかしな方向へ出ていってしまったり(例えば神経症)、暴発してしまったりすることがありうるだろう。はい。おしまい。

あー、そうそうそうそう!!ユングはね、こんなことも言ってるの。「身体が予め、ものを食べると消化するようにできているように、心理もまた、予め一定の心理的刺激を受けると一定の反応を示すようにできているはずだ」と。はいはい。


 っつーかオイこれ、ユング講座じゃねーか!