ヒッタイト帝国 王名表


 この表は、ヒッタイト帝国の王名表です。

 略年表の時もそうですが、各王の在位年にも諸説があって、すべての年代が特定されているわけではありません。
 このホームページでは、便宜的に、『年表 古代オリエント史』(高橋正男著、時事通信社、1993年刊)のものを採用しています。


ヒッタイト古王国時代

ラバルナ、古王国初代王。(在位、前1680〜1650年)

王妃:タワナンナ(タワルアンナとも)

小国分立状態であったアナトリア高原を統一した。
ラバルナ1世は後にヒッタイトの伝説的な王となり、「ラバルナ(またはタバルナ)」はヒッタイトの大王の称号となった。
同時に、彼の妃であったタワナンナの名も後に王妃の称号となった。

ハットゥシリ1世、(ラバルナ2世)(在位、前1650年〜1620年)

王妃:カッドゥシ

王都をクッシャルよりハットウッシャへ還す。それに伴ない、ハットゥシリ1世と改名した。
治世第2年にアララクを侵攻・破壊。その後西アナトリアへ遠征、領土を拡張。
タウルス山脈を越えてアレッポへ遠征するも、途中で病気になり引き返した。
死の直前に、無能な息子を廃し、孫のムルシリを後継者に定めた。

ムルシリ1世(ハットゥシリ1世の孫、のち養子)、(在位、前1620年〜1590年)

王妃:カリ

先王の志を継ぎアレッポを破壊。
B.C.1595年、バビロンに遠征、同地を占拠・破壊、バビロン第1王朝(別名アルム王朝、1894年〜)を滅ぼす。
B.C.1590年、バビロン遠征から戻ってまもなく、義弟ハンティリ1世に殺害された。

ハンティリ1世(ムルシリ1世の義弟)、(在位、前1590年〜1560年ころ)

王妃:ハラプシェキ

ムルシリ1世の不在中に陰謀を計画し、帰国したムルシリ1世を殺害、自ら王位に就いた。

ツィダンタ1世、(在位、前1560年〜1550年)



アンムナ、(在位、前1550年〜1530年)



フッツィヤ1世、(在位、前1530年〜1525年)



テリピヌ、(在位、前1525年〜1520年/1500年とも)

王妃:イシタパリヤ

「王位継承法」を制定し国家の秩序を再建(「王位継承法」はのちのヒッタイト新王国時代の「ヒッタイト法」の原型とも)

ヒッタイト中王国時代

中王国時代の事はあまりよくわかっていないようです。
ここに挙げた、王様以外にもいらっしゃった可能性はあります。

アルワムナ、初代王に即位(在位、前1500年〜1490年)

王妃:ハラプシリ

ハンティリ2世、(在位、前1490年〜1480年)



ツィダンタ2世、(在位、前1480年〜1470年)



フッツィヤ2世、(在位、前1470年〜1460年)

王妃:シュムミリ

ヒッタイト帝国時代(別名新王国時代)

 トゥトハリヤ2世からシュピルリウマ2世まで、(前1460年〜1200年頃/1450年〜1200年とも):国内では楔形文字のみならずヒッタイト独特の象形文字(象形文字ルウィ語)も使用。(象形文字史料はアナトリア東南部・シリア北部を中心に出土)

トゥトハリヤ2世、初代王に即位(在位、前1460年〜1440年)

王妃:ニカルマティ



アルヌワンダ1世(トゥトハリヤ2世の子)、(在位、前1440年〜1420年)

王妃:アシムニカル



トゥトハリヤ3世(アルヌワンダの子)、(在位、前1420年〜1400年)



ハットゥシリ2世(トゥトハリヤ3世の兄弟)、(在位、前1400年〜1380年)


次王に小トゥトハリヤ〈トゥトハリヤ3世の子〉即位か)



シュピルリウマ1世(ハットゥシリ2世の子)、(在位、前1380年〜1346年)

王妃:ダドゥヘパ、ヒンティ、タワナアンナ(?)

 宮廷内部の抗争を克服して、ヒッタイト帝国建設に着手、秩序回復。首都ハットウシャに巨大な防壁を建設。その後北メソポタミアを併合、ユーフラテス河上流に侵攻、同地を破壊。次いで北シリアに遠征、ヒッタイトの主権を確立。ヒッタイト帝国最盛期。
 B.C.1375年、カッシュ王朝と国交締結、王女をカッシュ王に与え、イラン高原・ザーグロス山中にも勢力伸張。
 この王の在位の晩年に、エジプトのファラオ、ツタンカーメンが死去。残された王妃、アンケセナーメンから、ヒッタイトの皇子の誰かを後添えとして送って欲しいとの依頼があった。
 これを受けて、ザンナンザ皇子がエジプトへ送られるが、国境付近で何者かによって殺害された。
 ミタンニと戦って成功を収める。疫病に罹って没。

アルヌワンダ2世(シュピルリウマ1世の子)、(在位、前1346年〜1345年)

即位後まもなく疫病に罹り没。

ムルシリ2世(シュピルリウマ1世の子)、(在位、前1345年〜1315年)

王妃:ガシシュラウィヤ、ダヌヘパ

 英主父王によって築かれた帝国を維持・確保。以後発展と繁栄の時代続く。
 父王、兄王、が相次いで病没したため、年少で即位する事となった。
 新王が年少なのを見て、シュピルリウマ1世の時代には藩属していた周辺諸国が叛き始めたため、ムルシリ2世は、即位初年からその討伐に明け暮れることとなった。
 この王の時代の文書として、『ムルシリ2世の疫病祈祷文書』、『ムルシリ2世の年代記』、等が有名。

ムワタリ(ムルシリ2世の子)、(在位、前1315年〜1282年)

王妃:ダヌヘパ

 ラメセス2世率いるエジプト軍との間に、後世に有名なカデッシュの戦い起こる。ヒッタイト優勢。
 カデッシュの戦いの後、シリア地方の統治を重視したため、都をハットウシャから、よりシリアに近いタンフルタッシャへ移した。

ムルシリ3世(ウルヒ=テシュプ、ムワタリの子)(在位、前1282年〜1275年)

 ムワタリの副妻の子。
 タバルナの地位に就くも、叔父のハットゥシリ3世と争い、失脚。

ハットゥシリ3世(ムワタリの弟)、(在位、前1275年〜1250年)

王妃:プドゥヘパ

 ムルシリ3世を追放して即位。
 シリアの勢力に対抗してバビロン第3王朝およびエジプトと攻守同盟条約を締結。エジプトのラメセス2世に王女を贈る。/『ヒッタイト国際条約文書』(アッカド語・エジプト語・ヒッタイト語、前14〜13世紀に成立か)は、ヒッタイトの諸王が、所属王と宗主・属王条約、エジプトと対等条約を結んで安定した国際関係の維持に努めたことを伝える。条約の形式は後代の「申命記」の構成と比較される。
 B.C.1270年頃、エジプトのラメセス2世との間にアッシリアに抗して平和条約締結される。:粘土板に記された条約文書はラメセス2世からハットゥシリ3世宛ての書簡の形式を取ったもので、A.D.1906年に王都ハットウシャ(現ボアズキョイ)の王室文庫から出土、イスタンブール考古学博物館蔵。

トゥトハリヤ4世、(在位、前1250年〜1220年)

 祭儀改革を断行。/この頃アヒヤウァの王アッタリシャシュ、ヒッタイト領土への侵攻を始める。
 ヤズルカヤの壁画に、この王の浮き彫りが彫られている。

アルヌワンダ3世(トゥトハリヤ4世の子)、(在位、前1220年〜1215年)

 アヒヤウァおよびアル ザワを併合。西南アナトリアに進出するもヒッタイト帝国はその末期に東西双方から攻撃を受け没落寸前。

シュピルリウマ2世(アルヌワンダ3世の兄弟)、(在位前1215年〜1200年/1190年とも)

 前1200年頃、ヒッタイト帝国滅亡。王都ハットウシャ海の民の侵入を受け陥落。

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