ヒッタイト帝国の概要 (2000年4月2日 更新)



 紀元前第2千年紀頃の古代オリエントのこと、現在のトルコ共和国あるアナトリア地方に、たいそう繁栄した強大な国がありました。

 この国は、ハリュス河(現在のクズル・ウルマック河)に囲まれた地域を根拠地にして、ハットウシャ(現在のボアズキョイ)に巨大な城塞都市を築き上げ、首都としました。
 周辺諸国を軍事的に制圧したり、外交的に従属させたりしながらその勢力を伸ばし、最盛期には、エジプトとシリア地区の覇権をめぐってしばしば戦います。
 が、この争いには決着がつかず、最終的には平和条約を結び、エジプトと共に、古代オリエントの2大強国としての地位を保ちます。

 ところが、盛強を誇ったこの国も、ある時期を境に急激に衰退し、やがては人々の記憶からも消え去り、歴史の彼方へ忘れ去られて行きました。

 その後、かってこの国が栄え、廃墟となって埋まった大地の上を、ある時は大帝国ペルシャの大王が西へ向かって遠征におもむき、ある時はアレキサンダー大王が東征していきました。
 さらに、ローマの時代やイスラムの時代にも、この国は忘れ去られたまま、時は過ぎ去っていきました。

 この国が眠りについてから2千数百年の時がたちました。
 近年ようやく発掘が開始され、少しずつ考古学の光が当たり出しました。そしてこの国は、我々の前に、少しずつその姿を表して来たのです。

 我々はこの国を、ヒッタイト帝国と呼んでいます。

ボアズキョイの発見と発掘

 トルコのアンカラの東約150キロのところにある、ボアズキョイという村に、巨大な古代の城跡が存在することは、すでに、1833年にフランスの探険家C・テクシェが発見し、彼の報告書『小アジア記』の中に紹介されているそうです。
 その後、何人かの旅行者や考古学者がこの地を訪れましたが、この遺跡の発掘にまで踏み切る人はいませんでした。
 この遺跡に、発掘のための最初の鍬が入れられたのは、1906年の夏、ドイツのH・ヴィンクラーによってでした。
 ヴィンクラーの仕事は、考古学的な発掘方法としては非常に乱暴で粗放なものでしたが、にもかかわらず、その成果は目を見張るような凄まじいものでもありました。彼は、アッカド語(の楔形文字)が読めたので、この遺跡から出土した楔形文字板のうち、アッカド語で書かれてあるものは、その場で内容を読み取る事が出来たのです。
 そのおかげで、この遺跡は、聖書に出てくるヘテ人の古都の遺跡で、ハットゥシャと呼ばれていたことがわかりました。また、エジプトのアマルナ文書にも出てくる、シュピルリウマや、ムルシリ、ムワタリといった歴代の王の名前も明らかになりました。
 反面、破片を含め、一万点以上の粘土板が、王宮のどこから出たのか、どのような具合に並んでいたのかなどは、永遠の謎になってしまったそうです。

ヒッタイト語の解読

 ところで、ヴィンクラーが発掘した粘土板(ボアズキョイ文書)の大半は、楔形文字で書かれてはいるものの、それまでに知られていた言語のどれにも当てはまりませんでした。
 ともあれ、これらはヒッタイト語と名付けられ、このヒッタイト語の解読が、大きなテーマとなりました。そして、この解読に成功したのが、チェコ人のB・フロズニーでした。
 彼は、軍務のかたわら、研究をすすめ、ついに解読に成功し、かつこのヒッタイト語が印欧語族に含まれると結論に達しました。彼が、1916年から翌年にかけて書き上げた『ヒッタイト人の言語、その構造と印欧語族への所属』という上下2冊の本の出版によって、はじめて、ヒッタイト学が本格的なスタートを切ったと言えるそうです。

 ところが、紀元前二千年紀のオリエントに、印欧語族に含まれる言語を話す民族がすでに登場していた、ということは、当時の考古学界の常識とはかけ離れていた考え方であったため、フロズニーの説は当初疑惑の目で見られました。また、フロズニー自身も印欧語学の専門家ではなかったため、彼の著書の細部にいくつかの素人くさいミスも発見され、この事が印欧語学の専門家達の反発を招く要因にもなってしまったそうです。
 しかし、そのうちに、ドイツのF・ゾマー、J・フリードリヒらの有力な印欧語学者たちが詳しい検討の上でフロズニーの説を支持しはじめ、ようやくヒッタイト語も印欧語族のひとつであるという見方が定着していくことになりました。

 ところで、文書の解読が進むに従い、更に驚くべき事が明らかになってきました。なんと「ボアズキョイ文書」の中には、シュメール語、アッカド語、ヒッタイト語、ルウィ語、パラ語、(原)ハッティ語、フルリ語、の7種類もの言語が使い分けられていたそうです。
 そして、当時の国際語であったアッカド語とメソポタミアの古典語のシュメール語以外の5つの言語が、ヒッタイトの国内語として使用されていたことがわかって来たそうです。この事は、当時のヒッタイトの国内に、それらの言葉を使っていた5つつの異なる民族が住んでいた事を意味します。

多民族国家ヒッタイト

 それでは、ヒッタイトにはいったいどのような民族が住んでいたのでしょうか。また、それぞれの民族は、どのような関係にあったのでしょうか。

 実は、(原)ハッティ語を使っていたハッティ族こそが、本来のアナトリア高原の現住民族でした。旧約聖書に出てくるヘテ人、もしくは、アッカド語のハッティも本来はこの民族とその言語のことだったのです。すなわち、この言語こそが、ヒッタイト語と呼ばれるべきだったのです。
 しかし、多くの人々(学者さん達)は、すでに名付けられてしまっているヒッタイト族やヒッタイト語を変更する事による混乱を恐れ、この原住民とその言語に、ハッティもしくは原ヒッタイト(プロト・ヒッタイト)と名付けることを選びました。このハッティ語については、今のところ、系統も不明で、若干の単語の意味が知られているだけです。

 フルリ族とフルリ語は、近年研究が活発になって来ています。
 フルリ族はヒッタイトの東南に当たるコーカサス山地の原住民ですが、早い時期からアッシリアを介してシュメール・アッカドの都市文明に接しており、また前2000年紀のオリエント世界、とくにその北部に広く分布し、政治的にも文化的にも多大な影響力を持っていました。ヒッタイト人が楔形文字を使うようになったのも、フルリ族がメソポタミア文明をヒッタイトへ媒介したためといわれています。
 また、ヒッタイト帝国と一時期覇を競ったミタンニ王国は、フルリ系の人々が打ち立てたもので、ヒッタイトは、この国からも各種の影響を受けているようです。
 フルリ語は、膠着語であり、言語系統としてはコーカサス語族に属しているそうです。

 ルウィ語、パラ語は、ヒッタイト語と共に北方から進入した印欧語民族の言語だそうです。
 これらの印欧語系諸民族のうちでは、前2000年紀の初めころ、ルウィ族が最も早くアナトリアへ進入してきたらしいといわれています。コーカサス山脈の西側を越えて来たこの民族は、ハッティの原住民や、当時アナトリアにカールムを形成していたアッシリアの商人達と接触していただろうと推測されます。
 しかし、彼らは、後から押し寄せてきたヒッタイト族によって押し出され、さらに移動を続ける羽目になったようです。とはいえ、東南のメソポタミアの方角には強力なアッシリア人が控えていたため進入する事は出来ず、ルウィ族はやむなく南から西へ、タウルス山脈に沿ってエーゲ海の方に向かって行ったようです。 こうして、ルウィ族が半島の西南部に建てた国がアルザワ国だそうです。

 楔形文字のヒッタイト語とは別に、象形文字のヒッタイト語もありますが、最近の研究では、この言葉はルウィ語との関連が深いことが解かってきたそうです。(最近の本には、“象形文字ヒッタイト語”ではなく、“象形文字ルウィ語”と表記してあるものを見かけます。)

 パラ語とパラ族については、残念ながら、詳しい事はわかっていないそうです。

とりあえず、今回はここまででお許しを。m(_ _)m
この続きは、いずれまた、書きつづけます。

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