キジムナー日記 キジムナー=沖縄の子供のような姿の妖怪で、古くから人間を喜ばせたり恐れさせたりしてきた。 願わくば、キジムナーが見える目を持てますように。
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2009年10月20日(火) 晴れ 曇り
東京には、なんてたくさんの人がいるのだろう。 あなたが誰で、私が誰で、なんてこと気にしていられない、巨大な数。 故郷にいる時は、友人や家族、親戚や知り合い、どこの人なのか分かっている人々で、 生活の核のようなものが立体的に浮かび上がっていて、 その周りに、多くの人々が広がっているような感覚なんだけど、 東京にいると、数えきれない人々の渦の中に、私が・になって一緒に渦を巻いていて、 そして時々、夫や友人のいる場所へ、電車がプラットホームに到着するように着いて、 そのときには止まっていられるような感じがする。
わたしとあなた。という無数の関係が、高密度で行われる不思議さに、時々瞬間的に引き込まれてしまう。
10月19日(月) 晴れ
先週撮影した膨大なデジタルデータを処理するのに、 今日はたぶん一日中パソコンの前に座っていなければならない。 その前に、すでに過ぎ去った昨日の日曜写真教室だって、 浅草で撮影した8GB容量いっぱいのデジタル写真を放置し、 銀塩フィルム分のプリントだけでお茶を濁してしまった。
どうして自分はこうもデジタルデータをいじるのが好きでないのだろう。 よく考えれば、好きでないのではない。始めてしまえばけっこう楽しい。 でも、あのフィルム時代の、カラーポジの微妙な色合いの、 素敵な透明感の、現像されて再会するみたいな驚きがないことがつまらないだけで、 いつまでもいじいじと、それを懐かしがっているだけかもしれない。
ラボに行って、仕上がりをチェックして、頭の中で構成をして、 印を付けて、その足で納品に行く、という1年ちょっと前までの当たり前だった生活が懐かしい。 ラボの人達の遠慮がちな顔、編集者の笑顔、若いスタッフの元気のいい挨拶や大量の紙・・・。 あの日々は、春だったんだ。 当たり前すぎて、その一連の生活を写真に撮っておかなかったのが悔やまれる。
2009年 9月17日 晴れ
3ヶ月ほど前から現代写真研究所のフォトジャーナリズム専科へ通っている。 講師はフォトジャーナリストの中村梧郎さん。 生徒17名のうち、プロカメラマンが2人、報道の仕事の人、NYの有名な写真学校を卒業した人、 本業が別にあるけれど写真集を出したことのあるベテラン2人、 夜間の写真学校に長年通い続けている人など、力量のある人が集まっている。 年齢は25歳から上はたぶん60代、プロのフォトジャーナリストを目指しているというよりは、 フォトジャーナリズムの本質を知り、写真の見方や撮り方を学び、文章の書き方を学びたいという人が多いようだ。私もその一人。 昨夜は課題の「新宿」の締め切り日だった。写真はフィルムでもデジタルでも可、5枚〜10枚程度、文章は800字。 私のテーマは歌舞伎町。この苦手な町に、どうしてたくさんの人が集まるのだろうという疑問が始まりだった。 商店街振興組合に取材に行って記事を書き、夜の人物スナップを15枚ほど用意した。 600メートル四方という狭い地域ゆえ、日を重ねるごとに写真はいくらでも撮れる気がした。 取材をしてからは、人々の声もよく聞こえるようになり、知らない町を少しでも知ることは大きな収穫だった。 他の生徒の作品では、朝の歌舞伎町を撮った写真と、占い師の作品が興味深かった。 人々の深層心理を探ろうとする写真行為があるような気がした。
この先、写真で自分は何が出来るのだろうかと毎日考えている。 自分の為には、撮り残しておかなければならない瞬間が日常的にあるから、写真を撮らない日はない。 そして今はまた、人と関わることで生まれる瞬間を求め始めている。
2009年9月2日 くもり
実家から歩いて10分程の場所で起こった女子中学生2人の自殺。 そのことが頭から離れない。
飛び降りたビルは、今年3月に出来たばかりで、 オープンの日には、悪性脳腫瘍を抱えながら一時帰宅した父親が、 どうしても見に行きたいというので、大変苦労して見学に行った。 カフェや衣料品、食料品、雑貨の店などが入り、映画館や図書館も併設されている。 いったいどこからこんなにたくさんの人がやってきたのかと思うほどの盛況ぶりだった。 その日は休日だったため、多くの私服中学生がいた。 少ないお小遣いの中から、精一杯のおしゃれをして、 友達どうしでやってきたという感じの数人連れがとても多かった。 男子3人、ニキビ面をにっこりとさせて、エントランスを入っていく姿は今でも印象深い。 正直、大した施設でもないのに、大勢の人々が期待してやってきたのを見て、 複雑な思いをどう表現したらいいのか分からなかった。 それは物見遊山というのと少し違うのだ。
企画段階の頃から、多くの市民が心待ちにしていた施設は、 今では、平日ともなると閑古鳥が鳴いている。
飛び降りた二人は、なぜこのビルを選んだのだろうか。 向かい側にあるアピタの駐車場のほうが、よっぽど安全柵が低いのに。 どうして、という思いが次から次からやってくる。 その問いに答えがなくても、考えていたい。
2009年7月6日 くもり 雨
今年、静岡県で行われる国民文化祭という公のイベントで、映像文化委員会に所属している。 4年前、断り切れずに承諾して、理念や企画から関わり、 今、映像文化フェスティバルに応募された映像作品の予備審査を数名で担当している。 125作品から20作品を選び出し、俳優や映画監督で構成される審査員に託す仕事だ。
アマチュアの映像作品は、見ていておもしろいものばかりという訳ではない。 それでも、頼まれた訳でもないのに一生懸命作るのだから、愛情のない作品は1作品もない。 どうしても選べないレベルのものであっても、涙が出てくる作品もある。 今後、多くの人に見てもらう機会はないかもしれないが、 今、私が見て、じわっとしましたよ、と思いながら見送る。
125を20に選ぶというのは難しい。 映像が美しい作品の印象は強い。 でも、時間が経って脳裏に残るのは、 被写体の強さだということに、気がつかされた。
2009年7月23日(木)くもり
少し前になるが、映画「サガン」を観たので、実家に置き捨てられていた彼女の著作を再読した。 学生時代の私の部屋の本棚で、 ひどく色褪せた背表紙の「悲しみよこんにちは」「ある微笑」「ブラームスはお好き」「夏に抱かれて」があった。 最初に読んだのは高校生の時だったと思う。自分とそう年の変わらない主人公の気持ちが分からなかったのを覚えている。 それなのに4冊買っていたことに驚いた。そして読み始めてまた驚いた。 今の私には、まるで麻薬のように(麻薬を知らないが、そんな感じ)染み渡るのだから。 男性の、愛情に満ちた視線が、恋人に注がれる描写にいちいちドキドキしながら、 私にとっても、どんな風に愛されるかということは、この上なく重要なのだと再認識する。 そして、孤独を受け入れつつ自分自身を生きることの美しさを思う。 この4冊の中でいちばん気に入ったのは「ブラームスはお好き」だった。
映画を観てサガンの人生に憧れを持つことはなかったが、 人間が、自分の人生をかけて描いた形は、私の深い部分をかき混ぜることをあらためて思った。
写真にしても、惹かれる一枚というのは、 技術的なうまさでも社会的な意義でもなく、真剣に自分と向き合って出てきたものだけなのだ。
2009年 7月6日(月) 雨
よく行くラボの近くでマグノリアのキャンドルを売っていて、 ある時、通りがかりにその香りを嗅いで元気になったことがある。
それ以来、疲れるとわざとそのお店に行って香りをかいだ。 マグノリアは、友人が好きな映画のタイトルだったので、 その名を忘れることなく、最近、自分のぶんとその友人のぶんのキャンドルを買った。 いい香り。洗面所に置いて、毎日のようにその香りを楽しんでいる。
マグノリアは、日本の名前で言うと、木蓮とか泰山木と言うことが分かり、 その日は、日曜写真教室で早川〜小田原へ行き、 小田原城の橋を越えたら、Yさんが「まあ、見事な泰山木ね」と言う。 見上げると泰山木。立派な美しい木だった。 見上げる先に花があって、香りをかぐことはできなかったけれど、 通りがかったおじさんが、その実が落ちていることを教えてくれて、大事に持ち帰った。
今日、泰山木について調べていたら、私の誕生花だった。 この木に縁があったのだと、初めて気がついた。 実を乾かして種を取れるのか調べていたら、 泰山木と鳥の伝説が出てきたりして、とても興味深かった。
2009年7月1日(水) くもり
久しぶりにモノクロ現像をした。 友人がルポしている現場の撮影に声がかかり、 とりあえずロケハン気分で撮った6本のフィルム。
今年でなくなる小さな小学校の物語はどんな風に書かれるのだろう。 友人のペンが何をどのようにとらえているのか、今後も楽しみだ。 私のカメラがとらえた瞬間は、どれも輝いていて、 生きている光を放っていて、元気が良くて美しい。 自画自賛になるが、思った以上の出来上がりなのではないだろうか。
世界の片隅で、消えていく小学校が、今はまだ輝いていて、 来年になったらとても静かになることが分かっている。 その日々を惜しむかのような光が、私の心をうるうるさせる。
2009年6月10日(水) 曇り
父親が病気になってから、私は自分の知っている限りの自然療法を試みようとした。 できることと言ったらそれぐらいしかなかったし、 ささやかな手当でも、それによって寿命を延ばした人々がいるのを知っていたから。 夫も、義理の両親も、友人も、そのために手を貸してくれたのは有り難かった。
玄米菜食というと、男性には抵抗を示す人が多いと聞いていたけれど、 やはり私の父もそうだった。 元気な時から「玄米なんてまずいもの、ぜったいに食べない」と言って、 白米を美味しそうに頬張っていた。お肉も揚げ物も好きなだけ食べていたし、お酒も大好きな父だった。 大変な病気になって、退院してきても、お医者さんから何を食べてもいいと言われたこともあって、 玄米も、びわのお茶も種も、野菜だけの食事も、「まずい」と言ってはばからない。 そうは言いつつも私がうるさいので、一応食べてはくれたが、笑顔がなくなって文句ばかり。 あまりに文句を言われると私にも「好きでやっているんじゃない」ぐらいの悪い気持ちが出てきて、 私にも笑顔がなくなり、互いにストレスが高まってしまった。 一週間が過ぎた頃、東京へ戻る頃には「無理かもしれない」とあきらめの気持ちが出てきた。
帰る前、町へ出たついでに「今あるがんが消えていく食事」という本と、 「がんにならない生き方」という本を買って、父の机に置いておいた。 どうせ読まないだろうと思いつつも、活字を読むのが好きだから、 読むものがなければ読むだろうという期待を込めて。
それから1週間後に実家へ行くと、 「全粒粉のパンが欲しい」と言う。 全粒粉なんて、知っていたっけ? と不思議に思っていると父がノートを見せてきた。 大学ノートにびっしりと、玄米菜食の要点が書かれていた。 「食事療法をやらずに末期ガンとは言わないんだそうだ」と言う。
父の変化は私の心を明るくして、昨日はたくさん食料を送った。 有機栽培の野菜のほかに、玄米のお餅や大豆で出来たウインナー、マヌカハニーなど、 なるべく食事療法を楽しめるように考えて、買い物するのは楽しい。
これが希望というものだと実感した。
2008年6月1日(月) くもり 時々 晴れ
「あなたにしか撮れない当たり前の事を撮ってください」
偶然、久しぶりに会ったHさんにそう言われて、私はまた戸惑っている。 耳が聞こえなくなってしまったHさんと、彼が持ってきたノートで沢山の話をした。
「特異なことは、真似すれば誰にでも撮れる。だけど、自分にとって当たり前のことはその人にしか撮れない」 その言葉を聞いた時、どうして私がHさんの写真にこだわるのか理解できた気がした。 写真を撮るための写真ではなく、日常からあふれ出た、どうしようもなく大切ななにかを写してしまう。 そしてそれが一人よがりの郷愁からは、ずーっと遠いところにある。 そう思うと、彼が写真は生きる杖だと言ったことがより一層理解できる。 かっこつけでも、言葉が上手だからでもなく、本心でそう言っていることがわかる。
帰りの電車で、 「夜の電車に乗ることなんて、めったにないからわくわくしちゃう」と言い、 「ずーっと着かなければいいのにね」 なんて言う。 私よりも小柄な、おじいさんの年齢に達しつつある人。
この人にしか撮れないネガを数え切れないほど持っていて、 「今は時間がなくて、プリントができないんだよ」と残念そうに言う。 写真集を作ってほしいと言うと、 「ボクみたいな貧乏人はね、生涯で一冊、いつか出したいと思うよ」と言う。
長い間、なにも知らない天才だと思っていたけれど、 すべてを知っている写真家だったのだと、この日を堺に考えを改めよう。 自分の写真を後で見て、どうしてその写真を撮ったのか、ずっと考えるHさんのように、 私も、透明な目を持ちたいと思う。
2009年5月1日(金) 晴れ
新宿駅の地下にある小さなコーヒーショップ、ベルクのコーヒーは本当に美味しい。 そのベルクが立ち退きの対象になっていて、営業継続を求める人の数は多い。 私が所属している現代写真研究所の講師達が、このたび作品を展示販売して、 その一部をベルクに寄付することで、営業継続の応援をすることになった。 私にも声がかかったので、今朝、同潤会代官山アパートのモノクロ写真を持って行った。
帰りに、ちょっと足を伸ばして代々木公園へ。 メーデーに参加している人々と旗と声と言葉が響いていた。 私は労働組合に参加したことはないが、 昔、日本一古い労働組合の50年史を丸一年かけて仕事で作ったことがあるので、 日本の労働組合の歴史には一時期どっぷりとはまった。 読んだことや、写真で見たこととは違う世界が目の前にあった。 顔見知りに偶然会うと、今年は人が少ないのだと言う。 平日だからなのだろうか、それとも時代のせいだろうか。
2009年4月6日(月) 晴れ
土曜日、友人が父に千羽鶴をくれた。 私と会っていない時でも、 私と父のことを想ってくれて、そのことにじーーーんとする。 そして、父が一人で病院にいる間、あの鶴たちが守ってくれる気がする。 たくさんの人が折ってくれたのだと聞いて、ほんとうに嬉しかった。
一週間自宅を留守にした後では、 きれい好きな夫でも毎日仕事が忙しい中なので、 ほこりがたまっていて、なんとなく部屋に元気がない。 朝から洗濯、床拭き、掃除機、絨毯の雑巾がけなどして、 玄米を洗ってびわの種と共に水につけ、はぐくみ農園から届いたタケノコのあく抜きをする。 土がついたニンジンを洗って梅酢とはちみつのマリネにし、味噌汁用のネギを炒める。 そうしていると、部屋に元気が戻ってくる気がして、私の頭も冴えてくる。
少し仕事をして、4時から一時間ほど近所を撮り歩いた。 首都高速が幾重にも交差する下に広がる公園の 桜並木は満開で、きれいな夕暮れの中、人々はこの世のものではないみたいだった。
2009年3月26日(木)晴れ 時々雨、くもり
気分転換に、なんとなく地の果てに行ってみたいと思い立ち、自転車に乗って出かけた。 地の果てというと大袈裟だけど、時間もないことだし、目指したのは江東区の南の端っこ。 今、住んでいるところは1926年に埋め立てが始まった辰巳という場所で、 行ったのは、若洲という1965年に埋め立てが始まった場所。 89年に女子高生コンクリート詰め殺人事件の遺棄現場となった場所だ。 マンションから新木場方面へ行くと夢の島。そこからまっすぐ南下。 若洲は、夢の島と同様に元はゴミ処分場だった土地が今ではゴルフ場と公園になっている。 2010年に完成予定の東京港臨海大橋の工事がよく見える。 完成すると中央防波堤外側埋立地と結ばれるのだそうだ。
遠くにビル郡を眺め、海にせり出した橋脚を見ていると、東京はどこまで広がりたいのだろうかと思う。 それはとても欲の固まりのようで嫌なのだけど、 そこで、キャンプしている子供達や、バーベキューしている若者や、 釣りをしている人々はつつましく牧歌的で幸せそうでもあり、 人間ていう大きなくくりで人間が人間を見ることは、簡単であり難しいことなのだと改めて思う。
2009年3月9日(月) 曇り
2月は初旬に、フォトグラファーになりたての頃から仕事をしてきた雑誌の休刊を告げられ、 その1週間後にパリへ行き、 帰ってきた1週間後に父の脳に悪性腫瘍があることを告げられた。
2009年の2月は、この数年間で最も衝撃の多い1ヶ月になった。
私の根っこを支えてくれていた父の存在と心から信頼できる友人との仕事、 それがほぼ同時に今まで通りにはならなくなって、正直、途方に暮れている。 病気だった母を父が支えていたから、母のことも心配だ。 今、私に起こっている出来事のすべてに、 今までの感謝の気持ちをどう形にしていけるのか、試されていると思う。
2週間ぶりに東京の自宅へ戻ってきて、とにかくたくさん食べた。 悲しみも、精神的な落ち込みも、しばらく続くと脳が疲れてきて麻痺したような状態になる。 そうするとまったくなかった食欲がわいてきて、食べてみると元気も出てくる。 神様はいると思った。
2009年3月5日(木) 晴れ
夜になって、静岡がんセンターへ転院したばかりの父から電話。 悪性脳腫瘍、グリオーマのグレード4だと宣告され、自分のこれからを考えたら不安でたまらないだろうに、母の心配ばかりする。
2009年3月4日(水)曇り のち 雨 のち 晴れ
十日ほど、父のあの世の番人と話しをしていると、 もう世界はそれだけになって、どうしようもなく心臓が痛くて、涙はいつまでも涸れない。 誰でもいつかは自分の親とお別れするのだから乗り越えていかなくてはいけないのだと分かっているけれど、 今、時間が自分の両手の隙間からこぼれ落ちてゆくのをただどうすることもできない。 写真を撮って、見えている今を保存しようとするけれど、 小さなシャッター音が響くたびに、確定される過去を認識することがつらい。 誰しもいつか何もなくなるのに、どうして私は今、一歩も前に進めなくなったのだろう。
2009年2月19日(木)晴れ
旅行中に静岡のYさんが申し込んでくれてあった早稲田大学でのワークショップに行ってきた。
ずっと前から尊敬していた写真家の生の声、 そして、並外れた活動から生まれた言葉を聞いているうち、私の中でまたなにか、カチッと音がした気がした。
写真を前にして 「この見方はこの見方でほんとうにいいのだろうか」と協議することがあることを聞いて、 その場でどんな会話がなされるのか大変興味を持った。 写真家がこう見たことをどう見るのか、ではなく、 「この見方でいいのか」ということを話し合うというのは、 多くの事柄を共有していることに他ならないと思うからだ。
最近では他に、 最新号のコヨーテを読んで、胸がどきどきすることが多い。 特にジャック・ケルアックの文章。 ロバート・フランクと一緒にフロリダまで出かけた記事だ。 書く人から見ると、こんなにも些細なところまで、シャッターを切った理由が見えるのかと、驚いた。 場合によっては「アメリカンズ」を見ても分からなかった人でも この文章によって、当時のアメリカが見えてくるのではないだろうか。
行動するのに遅すぎるということはないのだろう。 自分にできることを模索しよう。
2009年2月18日(水)
昨日、パリ1週間分と日曜専科で撮ったフィルムの現像が仕上がった。 出国するX線検査の際、必死で守ったフィルムだ。 日本出国の時は、検査員が全部のフィルムをケースを空けてよーく見て、 私のカメラで私自身が写真を一枚撮ってフィルムが巻き上がるかどうかをテストするという検査だった。 きちんとマニュアルがあるようで、あっという間に終わった。
フランスも昔はカメラもフィルムも生産していた国だから大丈夫だと思っていたが、まったく違った。 最初の検査員はフィルムをめずらしそうに見ていたし、他の検査員に「これを知っているか?」という質問をしたとき、 相手は「ノ」と答えた。そのあたりで私は焦り始めたが、なんとかX線を免れて列をはずれて待っていると、 警察官が来て「フランス語は話せる?」と聞かれ「ノ」と答え、 「では英語は?」と聞かれ、「ア リトル」と答えて検査が始まったが、 その警察官も「ア リトル」だったために会話は弾まず、気がつくと航空券がなくなっていた。 「あれー?」と思って焦って探していると、他の検査員が航空券を持ってきた。いつの間にか指紋の採取をしていたのだ。 その後、フィルム1本1本の指紋を採取され、パスポートの番号、名前、住所を控えられた。 「東京へ帰るんだね?」と何度も聞かれ何度も同じ答えをするとそのたびにうなづいて、偽笑顔を向ける。 これがまた他の国へ立ち寄るのだったらやばかったと本気で思う。 結局その警察官が全部のフィルムとカメラを持って別の入り口からくぐり、 私はそのほかの荷物と自分をX線にかけて (持っていたキャンドルが検査にひっかかり、小さなスーツケースを空けて検査されることになったのでまた時間がかかる) ようやくエールフランスの窓口へ。
これからも日本を出国したいと思うけれど、そのたびにこれだと困る。 フィルム、なんとかならないだろうか。
2009年2月17日(火) 晴れ
1週間のパリ旅行から戻った翌日、東京に春一番が吹いた。 あまりの暖かさに驚いたのと同時に、 家の前の公園を歩けば、ソメイヨシノの花のつぼみの形がはっきりと丸く見て取れる。 また寒くなるのだろうが、春はもうここにあるんだ。
パリの5区、パンテオンやソルボンヌ大学近くにあるお宅で、小さな写真展をさせてもらった。 急な話だったし、機内持ち込みバッグの中に入るだけの六ツ切写真45枚で 額もマットもない写真展だったけれど、2日間で50人ぐらいの人が見てくれた。 多くの人がフランス人、そして日本人やアメリカ人や韓国人。 藤枝の写真を持って行ったのだけど、 「日本といえば東京や京都、大阪や沖縄のイメージで、こういう日本は初めて見た」とか 「表面的じゃなくて、深いところに言いたいことがあるのだと思う」とか、 「とてもクリア」と言われたことが印象的だった。 フランス人は議論好きだと聞いていたけれど、写真を見た感想を、 フランス語の分からない私に対して、英語や勉強中の日本語を駆使して伝えてくれたことが嬉しかった。 躊躇なく次々と人が近寄ってきて、感想を言ってくれる。 なかなか日本では得られない環境だった。 夜遅くまでかかって飾りつけしてくれたA子ちゃんに、ほんとうに感謝している。
パリは、空間が美しい街だった。 どこに何を置くか、どこで何をするかを考えられた空間にいるのはとても心地良い。 ルーブルの床やオペラ座の天井、カフェの壁やマンションの中庭、橋のアーチ、扉やその取っ手の装飾・・・。 そこに集う人々の美意識に目を奪われたし、 オペラ座で見た現代の振り付け師による「ボレロ」は圧巻で、 歴史的建造物の中に、現代がどのように息づいているかを感じさせられた。 アンリカルティエブレッソン財団美術館や写真美術館でも、 写真の見せ方、照明の当て方、選び方と点数、 そして何より世界中から選りすぐった写真家のレベルの高さに脱帽だった。
たった1週間の忙しいパリだったけれど、私には贅沢な時間だった。 多くの刺激やアイデアをもらって、また新しい日常に戻るのをありがたいと思う。
2009年2月5日(木)くもり
海外でも使える携帯電話を予約していたので、受け取りに行った。 いつも混み合っているのに空いていて、窓口のお兄さんは携帯電話の整理をしていたのだが、 私の顔を見て、自分の向かい側にある椅子を指し「もう座っていてもいいですよ」と声をかけてくれた。 ただちょっと、その言い方、めずらしいなぁと思いながら座って待つと、 しばらくしてレンタル電話のパッケージを持ってきた。 黒いポーチの中から一つずつ部品を取り出す。 「じゃーん」と言ってレンタルガイド、また「じゃーん」と言ってACアダプタ、 「じゃーん」と言って本体、という具合に出すたびに「じゃーん」と言う。 電源プラグとACアダプタは二つに分解できるのだが、それも「じゃーん」と言って分解してみせる。 笑顔はない。 全部の説明が終わって品物を手渡す時に「では返す場所は?」とクイズ風に問いかける。 ので、「空港!」と答えたら、「ぴんぽーん」と言った。
2009年2月3日(火) 晴れ
今日は節分。 玄関にひいらぎと豆がらを飾って厄払い。トイレ掃除も念入りに。
日曜日は現代写真研究所の撮影教室で巣鴨〜三ノ輪へ行った。 初めて行く場所で、古い商店街というイメージを抱いて電車に乗ったが、着いたとたんに駅前でデモと出くわした。 麻生総理のぬいぐるみとドラムや笛、スピーカーで政府への批判を道歩く人々に訴えている。 若い人が多く、政治的な団体なのか、学生なのか、イベントなのかデモなのか、 どこまで真剣にやっているのかさえ、背景はすぐに分からないようになっている。 サングラスをした若い男性が、ビラを「どうぞ」と言って私に手渡す。 足下では野宿中のおじさんがお弁当を食べている。 今、ここに生きている私は、目の前にある主張をどう受け止めているだろうか、 と考え始めると、巣鴨商店街の様子になかなか集中できなくなってしまった。 商店街の誰かが怒り出し警察を呼んだらしい。そういう受け止め方の人もいる。
夕方の三ノ輪橋付近の商店街は、とても楽しかった。 屋根付き商店街のオレンジが強いライトと、古すぎる看板と、 ところどころ空き店舗が目立つ通りの風景が、映画のセットのようだ。 商店主とお客さんの一対一の会話が、私がいた駒形通り商店街を思い出させてくれる。
商店街の会長だとかいう二人組に、カラオケに誘われた。
2008年1月30日(金) 雨
北極ではホッキョクグマが、氷が減って困っているというニュースを聞く。 私たち人間はそのことは数年前から知っていて、ニュースを見たり聞いたりするたびに胸を痛める。 ホッキョクグマが大変だ、大変だ、大変だ。 だけどどうすることもできない。 手をこまねいているうちに時が過ぎ、今では世界的に人間も大変だ。 ●●億円の赤字、●●兆円の流出。派遣切り、雇用不安、内定取り消し・・・。 じりじりと不安の縁に押しやられていく姿は、ホッキョクグマに似ている。
ホッキョクグマを思う時、知恵の高いホッキョクグマは助かって そうではないホッキョクグマは助からないと思うだろうか。 私はそうは思わない。
世界のどこかで象徴的に起こっていることは、私たちにもつながっている。 のかもしれない。
そして友人の身に起こっている変化も、 私のほうへ波が押し寄せる何かの象徴に違いにない。
2009年1月28日(水)晴れのちくもり
突然に、予期しない出来事が起きて、 それがあまりにも複雑な感情を呼び起こすと、 ただ、涙が出てくる。 深い溜息を何度かついて、しんとした海の底にいるような気持ちになって、 自分に今、何ができるのかも分からなくなる。
2009年1月27日(火)晴れ
昨日は京王線の柴崎に行ってきた。 いつもは銀座のクリエイトに現像・プリントを頼んでいるけれど、RPワイド六ツ切は柴崎まで行かないと駄目だということで重い腰を上げた。 新宿乗り換えだと考えただけで行くのが面倒な気もしたが、市ヶ谷で都営新宿線に乗り換えたら、京王線乗り入れですんなりと接続できた。 線が違うと乗っている人の雰囲気が違うのは東京のおもしろいところ。 スナフキンのような帽子をかぶった男性が「犬の人生」という本を一心不乱に読んでいる。 うらやましい程自信たっぷりな感じの学生カップルが並んで座っている。
帰りに有楽町まで戻ってきて、クリエイト地下のスタバに入ると、 カウンター席で隣にいた男性が私のほうにせり出していても気がつかずに一心不乱に何かをノートに書いている。 耳にはヘッドフォン。英語の勉強?、しかしよく見たらアニメだった。 小さな画面にガンダムのようなアニメの戦闘シーンが写っていて、彼はその台詞をノートに書き写していたのだった。 そういう仕事なのか? スーツはびしっと決まっている。
伊東屋に向かって歩いていると、「ライターさんとかカメラマンさんとか・・・」という声が後ろから聞こえてきた。 編集者らしき女性が男性と連れだって歩いていて、男性は「ライターさんとカメラマンさんて男女比どっちが多いの」と質問している。 女性は「ライターさんは女性が多い」と答えて、続けて「女性のライターさんは結婚していてちゃんと旦那さんがいるけど、 専業主婦になりたくないからフリーで働いているって感じの人が多いんですよ。生活かかってないから仕事選ぶんですよね〜」と困った感じで言う。 そういう考えもあるんだ、と軽いショックを受ける。 私はカメラマンだけど、夫がいるし、貧乏くさく見えないように装っているからそういう風にも見えるかもしれない。 ただ一緒にいい仕事をしたい、それだけの思いを受け止めてくれる場所を大事にしていきたい。
予測不可能な人々の言動に、さまざまなことを思う一日だった。
2009年1月22日(木)雨
昨日は、アメリカの大統領就任式の話題でテレビは持ちきりだった。 そこまで熱狂できる大統領に恵まれた国民は幸せだと思う反面、そこまで盛り上がるという事には正直、違和感を感じてしまう。 9・11後に「テロには屈しない」を合い言葉に国旗を掲げた多くのアメリカ人の姿に似ているような気がして恐くなってしまうのだ。 とはいえ、黒人大統領の誕生に私ですら泣きそうになった。 ブッシュ政権のやり方には反感を持っていたので、共和党に勝てる候補をと願っていた選挙戦の最中、 民主党候補が黒人か女性ということで、人柄や政策はさておき、共和党候補に勝てるのかと心配になっていた。 その時私は、黒人よりは白人の女性のほうが可能性は高いと思っていた。 彼のことをよく知らなかったせいもあるけれど、歴史を考えるとハンデが大きすぎると思ったのだ。 けれど昨日、アメリカの大統領は黒人になった。 アメリカ国民は、黒人であろうとなかろうと彼を選んだのだ。 そのことに素直に喜びを感じた。
2009年1月13日(火)晴れ
この部屋にまた一人、そろそろお昼ご飯の用意をしようかと思っている。 昨日、おとといは賑やかで楽しかった。 UとMとHと4人でいると、元気と安らぎの両方の時間が過ぎてゆく。 二人が新幹線に乗って帰ってしまった夜、 お風呂につかりながら突然「一部になっていたんだ」という文字が頭に浮かぶ。
愛おしい時間を喪失し続ける切なさが 苦しみにまでならないのは、写真を撮ることができるようになったからだ。
2009年1月10日(土)晴れ
冷たい風、昨夜降った雨のおかげで視界が開けている。 高いビルだらけの東京では、夕暮れの光がスポット光になる。
今日は表参道のRAT HOLE GALLERYに行き、森山大道の「北海道」を見た。 今まで発表されていなかった1978年の作品。 やっぱりいい。 いいと思う理由について、今まであまり考えたことがなかったけれど、 写真を見て彼の書いたテキストを読み、「ああ」と溜息をついてしまった。 森山大道が「撮って何になるのか」と考えたことがあることを知り、 撮らざるを得なかった瞬間が、今目の前にある写真であることを考えると、 どうしてこれほどまでに、私や日本だけに限らず多くの人々の目の奥に映像が残るのかが分かってくる。
1500部限定の写真集2万円。 お小遣いが乏しいゆえ、これを買おうかどうしようか迷っていると Josef Koudelkaの 「GYPSIES」を発見。 5年間探し続けた写真集が今目の前にある。2万5200円。 すぐ近くに長野重一さんの「遠い視線 玄冬」もある。
これを買わなかったら後悔するに違いない順にKoudelkaと長野さんを買い、 「北海道」は泣く泣く諦めた。 次のお小遣いができたときにまだ売り切れでありませんように。
2009年1月8日(木)晴れ
年賀状って、送ってくれたその人が表れていると思って嬉しくなる。 しばらく振りに見る手書きの文字に懐かしい気持ちがあふれたり、 そっけなさに、不器用さを読み取ったり。
私が好きな、ほぼ無名の写真家、Hさんからの年賀状には たぶん不注意で宛名が書かれていなかったのだけれど、誰からのものかすぐに分かった。 「歳月」というタイトルが付けられたモノクロプリントの年賀状。 言葉にできない感動で目頭が熱くなる、なんてことのない北新宿の写真だった。 Hさんの写真は、せつない。 アートでもドキュメンタリーでもなく、そこには深いリアリズムがあると私は思っている。 そして、写真から目が離せなくなると同時に、私が写真を撮るようになった原点を思い起こさせてくれる。 二度ほどしか会ったことがないけれど、 最後に会った時握手したその手の感触を今も忘れてはいない。
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