能楽は現在、能楽堂をはじめ、文化ホールや劇場、薪能としては神社境内などの屋外において、またテレビやラジオのメディアを通じて、その鑑賞の機会がある。さらに能楽の謡や舞、囃子(笛・小鼓・大鼓・太鼓)はひとつの「お稽古事」として能楽師宅や能楽堂において誰でも習うことができる。しかし、余暇活動として能楽を鑑賞したり、稽古する人々の割合はほとんどが高年齢層で占められているように思われる。これからの時代に能楽がさまざまな世代、多くの人々に普及していくために必要な要素を見出すことは重要である。
600余年の歴史をもつ日本の伝統芸能である能楽は、古代信仰による神楽や雅楽、奈良時代初期に中国から伝来した散楽に由来するとされる。散楽は鎌倉時代後期には猿楽の表芸となった。一方、農耕行事から芸能化した田楽も猿楽と同じような芸態を持つようになった。室町時代後期には猿楽や田楽の劇を能と呼ぶことが一般化し、手猿楽と呼ばれる町人出身のセミプロ的な役者による猿楽の能が禁裏や洛中で盛んに演じられるようになっていった。同時に能の台本である謡曲を楽しむ「謡」が公家・武家・町人のあいだに普及し始めたが、江戸時代には徳川幕府が式楽としたため、一般庶民には観能の機会も少なく、縁遠いものとなった。一方、「謡」に関しては出版事業の進展によって、謡本の刊行と普及はめざましく、全国各地に「謡」の愛好者が増えていった。また、能の中の型所を謡に合わせて舞う「仕舞」の稽古も盛んになった。
近代に至っては、能楽の謡や舞、囃子は「稽古事」として能楽師宅や能楽堂に「稽古場」が設けられている。昭和32年に能楽が重要無形文化財に総合指定され、次第に能楽の保存、普及活動の広がりをみせ、現在ではカルチャーセンターなどの「教室」でも謡や舞の稽古が楽しめるようになった。
さて、現在、謡と舞の稽古を余か活動としている人々(以下、能楽愛好者とする)が、その活動を選択した理由を明らかにするためには、いくつかの要素が必要になってくる。瀬沼(1977)は、「余暇活動は『余暇活動に対する欲求』と『余暇手段』、『余暇環境』の3つの要素により顕現するもの(p.8)」であり、「『余暇活動』や『余暇志向』の動向を把握するには、環境条件や余暇手段の現況とその動向の把握が必要となる。(p.8)」と述べている。
活動動機は、若いころから継続して行なっている「継続派」、若い時に余暇活動の経験があるが、子育てや多忙な仕事のために一時中断し、高齢期になって再開始した「再開派」、高齢期になってはじめて余暇活動をはじめた「新規開拓派」の3つに分類することができる。
また、余暇活動として選択するに至った過程においては、生育暦、文化・学習暦、職暦で構成される余暇歴が影響していると考えられる。松山(1985)によると、余暇歴は人間の余暇活動を規定する一つの要因であり、ある人が過去に余暇活動を行なったかどうかは、その人のその後の余暇活動に大きな影響を及ぼす。山手(1985)は、余暇観や余暇行動様式は幼い時期に過ごす家庭生活によって強く影響されるとして、「テレビのチャンネルの選択、音楽・美術・文学などの楽しみかた、親族や友人・隣人との交際なども家庭の余暇生活文化であり、そのなかで育つ子どもに、直接・間接的に影響を与える。(p.55)」と述べている。さらに「子どもの時代に親の階層的条件によって受ける影響と、本人自身が就職して所属する職業階層の諸条件によって受ける影響が余暇活動に影響を及ぼしている(p.55)」とし、「女性のなかには結婚後は主婦になり、夫の職業的条件の影響を受けるものが多い。(p.55)」と指摘している。
本研究の目的は、余暇歴に含まれる過去の余暇の過ごし方や家族や友人の影響、学歴、職歴、生育環境を調査することにより、能楽愛好者の活動動機の傾向を明らかにし、能楽の普及に関する今後の展開について検討することにある。
今回の質問紙調査により以下のことが明らかになった。
能楽愛好者の8割が女性を占めており、7割以上が60歳以上と高齢者層が大半である。職業は主婦および無職が7割を超えている。結婚し、子どものいる者が8割を占め、子どもの年齢が20歳以上の割合が9割であることから、子育ての時期から既に手が離れていることが明らかである。また、大学院、大学、短期大学、専門学校が5割、高等学校卒(高等女学校を含む)が4割を占めており、高等教育を受けてきた者が多いといえる。 (表1)
生活に対し、「満足している」の回答数は、経済面(20%)、時間(27%)、健康面(23%)、余暇の過ごし方(33%)、生活全体(24%)である。一方、「満足していない」の回答数は、経済面(1%)、時間(8%)、健康面(7%)、余暇の過ごし方(3%)、生活全体(0%)であり、能楽愛好者は現在の生活への満足度が高く、余暇の過ごし方にも満足している者が多い。
謡や舞を習い出す前の能楽に対するイメージは、「文化の継承・保存」(28.8%)、「華麗・優美」(23.3%)を抱いており、「眠い・地味」、「古い・時代遅れ」はいずれも0.0%であった。
能楽の謡や舞を習い出した決め手となった理由は、「友人・知人が習っている」(23.2%)、「家族が習っている」(22.0%)であり、周囲の人々の影響が認められる。
習い出す前に能楽を見たことがある者は74%で、そのうち80.6%は能楽堂での鑑賞である。また、家族(42.6%)や友人(35.3%)と初めて鑑賞するケースが多い。一方、学校教育の一環として鑑賞した者は11.8%にすぎない。
過去の教育や周囲の人々による環境が及ぼす影響について、「謡や舞を始めたのにはそれなりの機会や基盤があった」という設問に対し、「そう思う」と答えた者は57%、「友人・知人が影響している」に対し、「そう思う」(43%)、「家族の趣味が影響している」に対し、「そう思う」(33%)である。一方、「伝統芸能に対するよい学校教育を受けた」に対し「思わない」と答えた者は53%である。家族や友人・知人の人的な影響は大きく関わっているが、伝統芸能に関する教育面においては学校教育からの影響が小さい。
過去の余暇活動について尋ねた結果、学生時代に琴、日本舞踊、茶道、華道といった日本の伝統文化に関する稽古事を経験している者が少なくなかった。また、家族の趣味を尋ねた結果、祖母や祖父、両親が能楽の謡や舞、囃子の稽古をしている者が多く、邦楽に関する稽古事に携わっている場合も少なくないことが明らかになった。
人々が余暇活動を行うまでの経過として、特定の領域や内容に関して全く関心をもたない状態から多かれ少なかれ関心をもつ状態を経て、余暇活動に対する関心が余暇欲求となり、現実に余暇活動として行動化していくものと考えることができる。藤岡(1990)は、行動化の可能性の大小によって、学習(本研究においては余暇活動と捉える)関心を、@顕在的関心、A潜在的関心の2つのレベルに区分している。顕在的関心とは「日常的に意識の表層にあり、行動化の可能性の高いもの」のことをいい、潜在的関心とは「なんらかの外からの刺激や手がかり(例えば学習内容のリスト)を与えられてはじめて意識化されるもの」のことをいう。このことを本研究の調査で得られた結果を合わせて考えると、能楽愛好者が能楽に関心をもつに至った経過は、能楽愛好者がはじめから能楽に関心を抱いていた者ばかりではなく、家族や友人からの情報や伝統文化に関するよい環境などの影響により、潜在的関心が生じ、それが顕在的関心となり余暇行動に至った者がいるであろうことが伺える。
以上をまとめると (図1)のように表すことができる。
能楽がより広く普及するためには、潜在的余暇関心・顕在的余暇関心層を発掘していくことが望まれる。本研究の調査対象となった現在の能楽愛好者の生育してきた「昔」の環境と、「今」の環境や社会状況ではかなりの違いがある。例えば、現在の能楽愛好者は伝統文化に関し、十分な家庭教育や学校教育を受けてきたとはいえないが、家族や友人といった周囲の人々の影響が能楽への関心に結びついたものと思われる。しかし現代では、核家族化による祖父母との接触機会の減少、地域社会の衰退など、現代では日常生活を送るうえで、人との関わりから影響を受けることが少なくなっている。また、高学歴が重視される社会となり、学生時代の余暇活動時間の大部分が学業に置換されていること、さらに社会人となっても資格取得や技術習得の希望者が増加していることなども、伝統文化に関する「稽古事」への関心の低さに結びついていると思われる。このことから、現代において、多くの人々に潜在的余暇関心・顕在的余暇関心が形成されるためには、伝統文化に接する機会の多い地域環境の整備や学校教育に力をいれることにより、伝統文化への関心を高めていく必要がある。無関心層へ能楽を普及させるには、人々が情報の入手方法として「ふだんよく使う」新聞・雑誌の広告や紹介記事、市町村の広報といった手段を効果的に利用していく必要がある。また、伝統文化の振興に適した、地域環境の整備および家庭教育や学校教育の充実を図るとともに、能楽が余暇活動として選択されるための時間的・経済的・空間的条件が、現代社会において「一般的」に位置し、誰もが無理せず親しみ楽しめるような形態にしていくことも怠ってはならない。
最後に、本研究の調査は、調査対象を阪神間の個人教授形式で能楽の謡と舞を習っている者に限定して行ったものであり、地域の能楽堂の件数による影響や地域特性の違いなどを踏まえていないため、能楽の普及について十分に考察されたとは言い難い。今後、全国的な視野での能楽の普及に関する考察、あるいは、若年層の意識を追及した上で能楽の普及に関する考察をしていくことが、将来に向けての能楽の普及に関する実質的な解決策と成り得るであろうと考えられる。
阪神間に居住し能楽の謡と舞を個人教授式で稽古している者を対象に「余暇歴にみる阪神間の能楽愛好者の活動動機の傾向」についてアンケート調査を行った。明らかになった傾向は次のとおりである。