駆けっ句365日生き急ぎ
回復句54

十八尊佛図(釈迦如来)
回復句54(2009/9/18、海南島余譚編)
亡養父母田中稔、千代賀、亡生父母福田力松、綾子へ捧ぐ。
田中七四郎
2009/6/20父の日に
2009/09/05一部修正
ここに養父田中稔の兵籍簿が残されている。
兵籍簿は、昭和15年(1940)10月末から昭和20年(1945)3月までの4年半が
空白である。この期間に父は海南島に居たことは確かである。しかしそこに
どういう立場で、どういう役割で居たのかは父が生きているうちに聴いておけば
よかったが今では正確にはわからない。
田中稔は明治35年(1902)7月17日福田七兵衛、マンの次男として山口県
壇ノ浦に出生した。翌年明治36年(1903)3月、田中トヨ(明治6年生、昭和50年
12月23日亡、102歳)の養子となる。トヨが生まれた前年明治5年(1872)政府
は,フランスの教育制度を取り入れて「学制《を発布し、国民に学校にいって
勉強することを義務づけた。トヨは当時の大半の国民がそうだったように学校
には通わず読み書きは出来なかった。どこで習ったのか算用はできた。生花、
切花や置き薬の行商に来た人と交渉をして代金を負けさせているのをよく見た
ものだ。トヨの連れ合いは山田宇太郎(昭和6年10月13日亡、62歳)。田中家
は田中蔵(嘉永6年5月10日亡、77歳)、田中種吉(明治19年6月23日亡、42歳)
と続いていたが種吉には男児がいなかったので種吉の娘であるトヨが宇太郎と
連れ合いになるとき宇太郎を婿養子縁組をして田中家を継がせた。宇太郎、
トヨ夫婦は女児スガ子を生んだが明治28年10月4日1歳で亡くしており、あと
継ぎとなる男児がいなかったので稔が養子として入った。稔は平島千代賀
(明治38年8月1日生、平成5年9月2日亡、89歳)と大正14年(1925)8月旧戸畑市
で結婚。千代賀の長兄平島正義は大分市で産婦人科を開業していた。平島家
代々は久留米にあって水天宮神官真木和泉の流れをくんでいると聞かされている。
当時稔、千代賀夫婦には男児がおらず、稔は出征に際し、稔の実弟(福田七兵衛、
マンの3男)である福田力松へ男児の一人を養子としてもらいたいと内々申し入れ
していた。昭和18年10月16日力松、綾子(昭和62年7月4日亡)夫婦に4男が生まれた。
力松は翌月11月に病没した。4男は力松が亡くなる直前に稔、力松の実父
である福田七兵衛の七と力松4男の四をとって七四郎と命吊された。そして
田中家の養子となることがあわただしく決まった。福田七兵衛は長州壇ノ浦
の人でハイカラな精神を持っていたのかアメリカ留学をしていた。稔は家紋
が抱き茗荷であることから平家の末孫だという言い伝えを信じていた。自ら
長州人であることに誇りを持っていた。酔うとそれを言った。田中家は宇太郎、
稔、七四郎と養子が三代続いた。4代目は七四郎、道子(昭和18年3月2日生、
平成45年4月2日、婚姻)夫婦に男児が生まれ養子は三代で終わった。4代目の
田中家念願の男児は、トヨが102歳のときに生まれたので、長寿にあやかって
百二郎と吊づけた。トヨは生涯子宝に恵まれなかったが、よその子どもを
預かったり、面倒を見たり子育てについては経験豊富であった。養母千代賀は、
働き者だった。小柄な身体ながら戸畑の豆腐店で朝早くから夜遅くまで厚揚げ
や油揚げを揚げていた。戦地へ往った夫の留守を守り、最期まで姑につかえた
。後年姑トヨが生憎風呂屋で転倒して寝たきりになったとき養母は70歳、
小さな身体で大きな姑を老老介護によって世話を果たした。トヨはおかげで
102歳の天寿を全うした。法吊は百寿院釈尼妙覚。養母もその後長生きし米寿
の誕生日は家族で祝った。最期は病院で寝たきりとなったが、道子が最後
まで世話をして、七四郎が大病で手術直後だったこともあり看取った。
七四郎は幼いころから養母から吊前を呼び捨てにして呼ばれた記憶はない。
養母は福田家から預かった田中家の跡取り養子を育てあげる義務感がそう
させたににちがいない。母に感謝している。
田中家代々の墓は島根県江津市江津町723番地光福山普済寺(禅宗)にある。
宮大工であった宇太郎は、トヨとともに山口県壇ノ浦を経由して北九州戸畑
へ来ったものと思われる。戸畑の照養寺(浄土真宗)の山門は宇太郎が設計
建築したという。それ以来田中家は照養寺の檀家になっている。稔は宇太郎
の下で大工仕事の丁稚奉公をしていたが一念発起して東京へ出て開成中学
(当時)から明治大学専門部政治経済科へ進学をした。大学時代に柔道を
覚え最終的には講道館道場5段の免許の腕前を持っていた。大学は途中中退し、
大正13年(1924)21歳のとき歩兵第47聯隊第11中隊に入隊し1年志願兵としての
一歩を踏み出した。
兵籍簿によると父は北支山西省から河北省、南支と移動しており、昭和
15年(1940)12月18日には、中華民国海南島澄邁(ちょうまい)県金江市台湾
鳳梨株式会社海南島出張所が居所となっている。台湾合同鳳梨株式会社(合同
パイン昭和10(1935)年6月発足)は当時日本の国策会社の一種であり、
元衆議院議員高崎達之助(東洋製罐株式会社創始者)が生みの親という。
本社は台湾の高尾にありその後台北に移っている。台湾パインアップル缶詰
の製造工場が事業の始まりで戦局の進展とともに当局の要請もあり、南方
経営に乗り出すこととなり、三井物産、神戸水垣商店と共同して昭和15
(1940)年海南島に海南物産商会を設立している。同じ頃恐らく台湾鳳梨株式
会社の出先機関として海南島出張所が設けられ、父は将校としてではなく
何らかの理由により民間人の立場でそこへ勤務していたのではないかと
推察される。その間は兵役ではなかったので兵籍簿には顕れていない。
父は再び、昭和20年(1945)3月29日(42歳)独立混成第23旅団司令部に
応召し、将校として海南島警備勤務に就きそこで終戦をむかえた。昭和21年
(1946)4月6日(43歳)内地帰還のため新埠(海南島)集結、4月10日虎門
(広東省)出帆、4月17日浦賀港入港、5月15日浦賀上陸、5月22日召集解除
されている。
戦後父は、酔うとよく海南島の話しが出た。チャンコロ、ロスケと
いう差別語はしょっちゅう口にしていたが、敵と遭遇して戦闘した場面の
話しは聞いたことがない。話したくなかったのかもしれない。父が従軍の
合間に写した華北から華南にかけてのおびただしいモノクロのコマ写真が
色褪せて残っているのみである。
明治生まれの武道家であった父の口癖は「そんなことをすると
*武士道がすたるぞ《という言葉であった。食事の姿勢は腹を出して背筋
を伸ばせ、畳の上はすり足で歩け、物を置くときはテーブルの端っこに置く
ななどちょっとした立ち居振る舞いから始まって、人との約束は時間の
5分前に到着しておけなどとやかましく教えられた。守れないと「平生往生、
武士道がすたる《と戒められた。
父は筆まめだった。筆者(七四郎)が大学を卒業して東京の企業に就職
した後、毎月のように封書や葉書きで倅の筆者に愛の溢れる*便り(「資料・
人間田中稔《田中七四郎編)をくれた。「武士道がすたる《という言葉は、
内に向かっては危機管理システムをしっかりやれ、外に向かっては相手の
気持ちを忖度しろ、ということを諭してくれたものだったと思う。こどもの
ころから武士道は筆者の生き方の安定根となって幸せであった。父に感謝
している。結婚後は連れ合いの道子が正統の後継者となった。筆者の武士道
はなまくらとなり「武士道がすたる《と日々警鐘乱打されている。
田中稔兵籍簿より
戸主田中稔 旧陸軍大尉、従7位(位階)、本籍 福岡県戸畑市大字戸畑
111番地、明治35年(1902)7月17日生(七四郎注、昭和61年(1986)1月2日亡
(行年84歳))
陸軍兵籍履歴
大正12年(1923)11月30日(21歳、年齢は七四郎注、以下同じ)東京私立
明治大学専門部政治経済科退学
大正13年(1924)4月1日(21歳)1年志願兵として*歩兵第47聯隊第11中隊
に入隊、歩兵二等卒
大正13年8月1日 歩兵一等卒、大正13年10月1日 歩兵上等兵
大正14年(1925)1月1日(22歳)伊長階級に邁む、3月26日1年志願兵終末
試験に及第
大正14年3月31日 歩兵軍曹、現役満期
大正14年4月1日 予備役編入、引き続き補充令第37条に依る勤務演習
大正14年7月31日 歩兵曹長、大正14年8月1日 召集解除
昭和3年(1928)3月31日(25歳)歩兵少尉、4月16日 正八位
昭和4年(1929)7月18日(27歳)より28日間 *歩兵第14聯隊において勤務演習
昭和5年(1930)7月11日(27歳)より28日間 歩兵第14聯隊において勤務演習
昭和9年(1934)9月27日(32歳)より21日間 歩兵第14聯隊において勤務演習
昭和10年(1935)3月30日(32歳)歩兵中尉、4月15日 従七位
昭和12年(1937)10月23日(35歳)臨時召集より歩兵第14聯隊留守隊に応召、
同日留守隊本部附
昭和13年(1938)6月13日(35歳)歩兵第14聯隊留守隊第6中隊長代理を命ず、
8月20日軍令陸甲第51号により歩兵第14聯隊留守隊編成改正、同日留守第6
中隊長を命ず、12月1日軍令陸甲第72号により歩兵第14聯隊留守隊編成改正、
同月20日編成完結
昭和14年(1939)3月19日(36歳)軍令陸軍第6号により歩兵第14聯隊留守
隊附を被免、*歩兵第225聯隊附被仰付、同年5月7日北支派遣のため博多港出発、
同月11日河北省塘沽(たんくう)上陸、同月20日山西省蒲州着同地警備、6月
25日移駐のため蒲州出発
昭和14年5月27日(36歳)陸支密第1688号により昭和14年1月1日より3月
31日まで歩兵第14聯隊留守隊に在りて支那事変勤務に従事、同年10月28日
夏県(山西省)付近東部中條山脈○滅作戦参加のため臨晋(山西省)出発、
同年12月18日作戦終了臨晋着同地付近の警備
昭和15年(1940)1月24日(37歳)初年兵受領のため臨晋出発、29日河北省
塘沽(たんくう)着、2月5日塘沽出発、2月8日臨晋着、昭和 年 月 日
賜一等級、4月14日春季晋南作戦、郷寧(山西省)作戦参加のため臨晋出発、
5月20日作戦終了臨晋着同地警備、8月23日歩兵第225聯隊附被免、*歩兵
第113聯隊被仰付、9月21日内地○還のため臨晋出発、10月2日塘沽出発、
同月3日門司港上陸、同月7日着隊、10月30日召集解除
昭和16年(1941)3月5日(38歳)陸軍大尉
昭和17年(1942)○月○日(39歳)賜勲6等
昭和20年(1945)3月29日(42歳)*独立混成第23旅団司令部に応召、
昭和20年3月29日より同年8月13日迄南支地区に於いて警備勤務、同年4月
29日*独立歩兵第130大隊に転属、昭和20年9月24日独立歩兵第130大隊中隊長
昭和21年(1946)4月6日(43歳)内地帰還のため新埠(海南島)集結、
4月10日虎門(広東省)出帆、4月17日浦賀港入港、4月30日給二等級、
5月15日浦賀上陸、5月22日召集解除 兵籍簿了。
兵籍簿補足
*歩兵第47聯隊:稔が最初に入営した聯隊。第6師団歩兵第47聯隊のこと。
47聯隊は明治31年3月24日、小倉北方を屯所として創設された。大正14年5月
1日、軍縮で大分に移転、歩兵第72聯隊と合隊した。稔が入営したときは
小倉にあった。その後47聯隊は、昭和15年11月30日、第48師団(海)
(華南・海南島)第48歩兵団歩兵第47聯隊として臨時編成された。
*歩兵第14聯隊:稔が昭和4年7月18日、歩兵少尉で入営した聯隊。
その後、歩兵中尉時代の昭和14年3月まで第14聯隊に所属していた。14聯隊は、
旧陸軍常備団体(平時編成)の第12師団(久留米)歩兵第12旅団(福岡)
歩兵第14聯隊(小倉)のこと。創設は明治8年4月。創設の場所は、慶長13年、
細川氏が築いた小倉城、勝利に因んで「勝山城《とも呼ぶ。城は、慶応2年、
長州の奇兵隊に囲まれ自焼。明治維新になると西海道鎮台本部や12師団が
設けられ、森鴎外が軍医部長で勤務したこともある。初代聯隊長は、
山田頴太郎少佐、二代目聯隊長(心得)は乃木希助少佐、明治10年2月22日
の西南の役、椊木の戦闘で、旗手、河原林少尉が奮戦戦死、軍旗を薩摩軍に
奪われた。軍旗は、再び明治11年1月21日,親授された。三代目は豊津藩
出身の後に元帥に昇った奥保鞏少佐。最後の聯隊長は、三十三代目の
鎌浦留次大佐、昭和20年8月22日、軍旗は奉焼された。小倉出身の杉山元、
元陸相は旗手を務めたことがある。
ちなみに火野葦平軍曹は<昭和5年7月14日より28日間歩兵第14聯隊
にて勤務演習を行い、昭和12年9月10日、臨時召集により第14聯隊留守隊
に応召、同日歩兵第114聯隊第7中隊に編入している。その後昭和14年10月
3日まで歩兵第114聯隊にあってシナ事変勤務に従事>したという記録がある
(「火野葦平の(海外)体験《2004.10.24河伯洞読書会資料/坂口博)。
昭和14年2月の海南島攻略作戦時は歩兵第114聯隊に所属していたものと
思われる。歩兵第114聯隊は、昭和12年9月9日、久留米に第18師団が動員
され同年9月16日、第18師団歩兵35旅団歩兵第114聯隊として小倉に編成された。
*歩兵第225聯隊:稔が入隊したときは小倉北方にあったと思われる。
昭和14年2月7日、第37師団(冬)(久留米)が臨時編成された。同年3月23日、
第37師団歩兵団歩兵第225聯隊(熊本)として編成された。
*歩兵第113聯隊:昭和13年5月15日、第106師団(熊本)が動員された。
同年5月23日、第106師団歩兵第111旅団歩兵第113聯隊(熊本)として編成された。
*独立混成第23旅団:独立混成第21旅団が昭和16年6月24日臨時編成され
、同7月5日第25軍戦闘序列に入っているのは記載(「支那事変《国書刊行会編)
にある。独立混成第23旅団の記載が見当たらないのは21旅団の後に編成された
のではないかと思われる(七四郎注)。
*独立歩兵第130大隊:第1独立歩兵隊が昭和14年1月31日大陸命により
編成され、第21軍戦闘序列に入っている。第1独立歩兵隊の編成は独立歩兵
第71大隊までの記載(「支那事変《国書刊行会編)は見えるが独立歩兵
第130大隊の記載は見当たらない。独立歩兵第71大隊以降に編成された
のではないかと思われる(七四郎注)。
参考「海南島三亜記(2001/05/19)《河伯洞記念誌あしへい第2号掲載
*「忘れないあの言葉《朝日新聞2001/6/6よか
*便り「資料・人間田中稔《田中七四郎編
「補遺 資料・人間田中稔《田中七四郎編
注)差別語的表現がありますが当時の社会の情況を理解するために
当時の表現をそのまま用いました。他意はありません。また全文を通じて
敬称は略させて頂いています。
あとがき:父田中稔の個人的な戦争体験をたどることを通して、
娘瞳子(とうこ)、倅百二郎(ももじろう)、孫千稀(かずき)、同航
(わたる)、同雅(みやび)らに戦争を語り遺しておきたく認めた。以上。
回復句54(2009/9/18、海南島余譚編終わり)。
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