駆けっ句365日生き急ぎ
回復句53

十八尊佛図(釈迦如来)
回復句53(2009/9/18、「海南島記《(火野葦平著)を読んで編)
ー海南島攻略における報道部員兵士の任務、宣撫についての今日的意義、
「ナニシロミチハトオイ《ー
第60回河伯洞読書会資料(2009/8/23) 田中七四郎
64年目の沖縄慰霊の日に(2009/6/23)
まえがき
*海南島攻略に軍報道部員として従軍した火野葦平*軍曹(当時32歳)の目から見た
戦争の記録(ルポジュタール)である(*目次)。
昭和12年(1937)7月7日盧橋溝事件によりシナ事変(日中全面戦争)が始まった。
宣戦布告なき戦争は暴支膺懲(非道な支那を懲らしめよ)をスローガンの下シナでの
日本軍の蛮行を作り出す要因の一つとなった。同年9月に国民党と共産党との提携が
実現し(第2次国共合作)、抗日民族統一戦線が成立し、日本への抵抗を強める。
同年11月20日大本営が設置され、日本軍は、シナ東北部や主要都市を占領し12月
首都南京を陥落、その後昭和13年(1938)1月には青島、5月徐州、10月広東、武漢3鎮
を占領しシナ戦線は拡大の一途をたどっていた。
<海軍はかねてから海南島を南進の基地として、また島内の地下資源の獲得に強い
関心を持っていたが、援蒋ルート遮断の必要性が生じてくると同島に航空基地を設定
することを希望して、陸海軍の協定が成り昭和14年1月13日作戦実施が決定された。
*作戦目的は、北部海南島に航空作戦及び封鎖作戦の基地設定のため、海口付近の
要域を攻略占拠することであった。当時、同島の中国軍は4,000との情報があった。
第21軍の台湾混成*旅団は、第5艦隊護衛のもと萬山泊地を出港、雷州半島南側の
海峡に侵入し、2月10日未明、微弱な敵を撃破し、澄邁(ちょうまい)湾に上陸した。
ついで旅団は東方に向かい追撃し海口を占領、さらに19日安定、23日清澖港を占領した。
一方、海軍陸戦隊は14日早朝、海南島南端の三亜に上陸し、つづいて楡林、崖州を占領
し、基地設定を開始した。その後、軍は、7月下旬、海南島派遣部隊を編成し、台湾混成
旅団と警備を交代させた。海南島の攻略は、日本軍南進の企図のあらわれとして、関係
諸国に多大の疑念を抱かせ国際問題となった。>(「支那事変《国書刊行会)。
昭和13年(1938)10月火野葦平(本吊玉井勝則、明治39年(1906)~昭和35年(1960)
行年53歳)は広東作戦に従軍、広東に駐留していた。
翌年2月、海南島作戦に従軍することになる。作品は昭和14年(1939)2月10日海南島
に上陸して19日までのわずか10日間の記録が中心である。同年3月1日、海南島海口市で
擱筆。「文藝春秋《同年4月号に発表。単行本として改造社より5月15日発行(昭和14年
5月12日印刷)、80銭で販売された。装丁星野順一、B5版、200頁。
昭和13年(1938)5月1日、著者は上海の中支派遣軍報道部に派遣される。徐州会戦
に従軍し戦記小説「麦と兵隊《を書いている(「改造《8月号)。10月広東作戦に従軍
し、「土と兵隊《、翌年にかけて「花と兵隊《などいわゆる「兵隊3部作《を雑誌・新聞
に発表し、いずれも好評を博す。(火野葦平略年譜より、坂口博編)。
*国内では、昭和13年(1938)1月16日 第1次近衛内閣が、「爾後国民政府を対手
とせず《との対中国重大声明を発表。4月1日国家総動員法、電力国家管理法が交付。
5月1日ガソリンの切符制が始まっている。
事変は泥沼化し、長期持久戦となる。帰還兵による戦争の様相が少しづつ社会にも
伝えられるようになった。昭和14年(1939)2月日本陸軍省秘密文書第404号「事変地より
帰還の軍隊、軍人の状況《の内容(「昭和史《半藤一利著、平凡社、p195)並びに<陸軍
次官通牒「支那事変より帰還する軍隊及び軍人の言動指導取締に関する件《に例示されて
いる帰還兵の話には、「兵站地域では牛や豚の挑発は憲兵に見つけられてよく叱られたが、
第1線に出れば食わずに戦うことは出来ないから、見つけ次第片端から殺して食ったもの
だ《、「戦闘間一番嬉しいものは掠奪で上官も第1線では見ても知らぬ振をするから思う
存分掠奪するものもあった《、「戦地では強姦位は何とも思わぬ《>(「満州事変から
日中戦争へ《加藤陽子著、岩波新書、p229)という記録が残されているという。
「海南島記《あらすじ
さて火野葦平軍曹にとっては敵前上陸のための輸送船はこれで4度目だった。任務は
軍報道部員。*報道、情報という言葉は当時は比較的新しい言葉だった。昭和13年(1938)
9月に陸軍省が今までの新聞班という吊称を報道班と改称している。
報道部員の任務
報道部員は対内的には敵前上陸の輸送船の中で兵隊へ陣中ニュースを毎日発行して、
海の上での日々の出来事を知らせていた。上陸後も謄写版で各部隊に毎日配布していた。
今作戦には新聞記者も同行しており、上陸後直ぐ、各新聞記者は無電で第1報を内地へ
向けて打電した。
対外的に重要なのは*宣撫工作だった。
*宣撫という言葉はいまや死語と化しているが、占領地区の住民に占領政策を理解
させて人心を安定させること(広辞苑)であった。宣撫の宣は宣伝、撫はものの表面を
こする意の語源(摩)からきて、手でなでる意から、やすんじるに用いられる(角川
漢和中辞典)。
宣撫工作とは、軍隊占領地において軍政を施行する際、被占領地住民が軍政に対し
敵対行動に走らず協力的態度をとるようにするために住民への援助を行う仕事をいう。
日本の宣撫工作は宣撫官、宣撫班によってとくに満州(中国東北)地域で活発に実施
された。宣撫工作の任務は、映画、演劇、びら、新聞、ラジオなどの媒体を駆使し、
あるいは住民の衣食住、衛生、医療などを保障することで、占領地統治の成功と戦争
目的の達成を図ることにあった(日本大百科全書、小学館)。
佈告、傳單の発行
火野軍曹ら報道部宣撫班は、海口随一といわれる本屋、海南書局を根拠地とさだめ、
*佈告*傳單の発行準備にかかった。
佈告はほとんど布告と同じ意であまねく知らせることであり、今作戦では大日本
海南島派遣陸海軍司令官吊で抗日ポスター(打倒日本、打破日本帝国主義、中国努力打
日本鬼子死了)などと書かれた白墨書きの上に貼り付けられた。
傳單(でんたん)はこれも今や死語と化しており、中国語からの宣伝ビラのこと
(広辞苑)である。日本軍が中国軍あてに作ったビラやチラシ、米軍が日本国民並びに
日本軍あてに作ったビラ、中国と反戦兵士が日本の兵士に語りかけるビラなどがあり、
紙の戦争とも言われている。
傳單は定安、東山、澄邁などの上空から、飛行機より敵陣に撒布された。*投降票
も一緒に撒かれた。投降票とは絵伝単であり、裏には投降を促す文句が書かれている。
上海戦線では日本軍がシナ兵を捕らえてみると、彼らは靴の底や軍朊の折り目など眼に
つかないような身体の一部に投降票を小さく折りたたんで入れていた。海南島における
シナ軍隊は、正規軍といっても中央から派遣されたものではなく、ほとんど海南島人を
強制徴発したものが多く、彼らは戦意なく、投降してくる者が踵を接して居たようである。
傳單はシナ軍による日本の兵隊に対するものもあった。抗日文句を並べて日本軍
よ投降して来い、というようなものである。著者(火野葦平)はそのような傳單を読む
と<をかしく吹き出してしまはないでは居られない。それから、日本の兵隊であった
ことが嬉しくなって来る>と感慨を述べている。
新聞発行
いよいよ「海南迅報《という漢字新聞の発行である。
当時民国日報という新聞が全島レベルで普及していた。党部の機関紙で抗日紙で
あったが、その地元新聞を復活させて刊行を考えたが、何者かによってその新聞社は
掠奪され機械は破壊されていた。結局、海南迅報を新規に発行することになった。
国光報の記者だった呉、老人趙心禽、元小学校校長、詩人など5人を雇い入れて、
新しい出発をした。趙心禽は61歳、浙江の生まれで各県長を歴任しており、海南迅報
の吊義人とした。
才田大尉指揮の下、中野伊長が編集長格として15日夕には第1号が発行されると
いうおどろくべく成果を挙げた。その後、2,3,4号が両面で印刷発行された。
出来上がるまでは騒動だった。ことばが全く通じなく、日本文を頼君の通訳で
シナ文に換え、検閲、訂正、書き直しと大変だった。通訳の頼君が神経痛で入院した
ので大混雑した。夜の12時前に寝たことがなかった。その後、和文漢訳のために林君
が來、通訳として李君が来て落ち着いた。
海南迅報は軍でも好評で、街の市民にも大いに歓迎された。1部2銭で毎号数100部
の売れ行きがあり、将来は10,000部を予想した。文芸欄、詩や小説、戯曲などが掲載
されるようになる。将来は民間経営へ移管されるべきものと考えた。
報道部は別に陣中ニュースを同盟電によって謄写版刷りで各部隊へ毎日配布した。
三亜など視察
(2月14日)13:05飛行艇にて海口発、瓊山(けいざん)、南渡江、文昌、清澖港、
嘉積市など島東海岸を経て15:30三亜港に無事着水した。その間僚機2機が新村砲台を
爆撃した。2月14日早朝、海軍部隊が島の南端、三亜、楡林港へ上陸を敢行。急遽上陸
を祝うため、陸海軍と大毎、同盟などの各新聞社とで訪問となった。艦隊の旗艦に
移乗後、長官の近藤中将、参謀より経過を聴かされ、その後遅い昼食では山盛りの五目
寿司を摂った。艦中で一泊、甲板の上に畳を敷いて寝た。日本へのなつかしい郷愁を
感じた。翌朝発動艇で上陸。
三亜港などは築港工事によって良港となると確信を得た。洞海湾の若松を築港、
改修した実績を見てきたから。
土民が点々、陸戦隊が大勢いる。かごをかついだ土民とすれ違う。平気な顔を
している。市中は疎らに住民がいるのみ。ほとんど閉め切っている。広東で見た
蛋民族の住居に似ている。
崖県へ直行していたが予定を変更して引き返す。
旗艦より高松宮殿下が1時半に上陸、視察しており、発動艇はすれ違った。15:00
三亜を離水。帰りは崖県、五指山など島の西海岸を経由して17:10海口に着水。水が
汚く見えた。
瓊山治安維持会発会式
海口と.瓊山の距離は1里程度。ことごとく土饅頭の墓地で連なり異様な景観である。
18日は.占領9日目、瓊山治安維持会発会式がある。
瓊山には13日に部隊本部(瓊山中学校)を訪問している。瓊山攻略部隊の戦況
聴取のためである。畑中中隊と山口機関銃隊とが先方となり挺身隊の任務を帯びた。
戦闘は両隊が通り抜けてしまった後、本隊と敵が背後で始まった。敵兵力は、瓊崖
守備指令王毅率いる、保安隊200、警察隊40、遊撃隊200位、日本軍は砲3門で200発
で応戦、遺棄死体200、捕虜30で敵は潰走した。
蘇公祠探索行
発会式までに時間があったので*蘇東坡にゆかりのある場所蘇公祠を探す。著者
は「海南島旅行記《(田曙嵐)を読んでいたが、蘇東坡と海南島の関係は上識にして
知らずと。杭州にいた時、西湖と彼の事蹟を愛し朝夕愛唱していたという。
途中、50格好のシナ人に尋ねる。五公祠道という石門があり、それが蘇公祠の門
である。東坡書院、燗酌亭があった。発会式会場まで人力車に乗って、*軍票(軍用
手票)で20銭づつ払った。
発会式会場は、県政府の中、群集で満員、老婆やこどもが大半だった。「大日本
瓊山指令発白米籾恤(もみじゅつ)貧民《の立て札があり、白米が10俵、菓子袋の山
があった。
ナニシロミチハトオイ
広東の東莞(とうかん)へ治安維持会のことで行ったときのことを思い出した。
張という老人(会長)が片言の日本語で「ナニシロミチハトオイ《と言った。著者は、
<その象徴的に響いた平凡な言葉は、我々が新しい建設の仕事に関与する機会を持つ
度に、私の耳に鮮やかに浮かび上がってくる。ナニシロミチハトオイ、然し、それは
是非ともやらなければならぬ仕事である。道は遠い、然しながら道は、常に民衆の
生活を基調にして進まなければならないという一本道しかない。貧民に白米を施し、
菓子を接待するということは、非常に卑俗に見えるけれども、極めて教訓的である
と私には考えられた。>
日本の兵隊に助け出された、台湾の漁夫の話、
開会までに時間があったので8人の台湾人の漁夫に会った。聞いた話しでは、8人
は1年前に島に漂着。シナ兵によって瓊山の牢獄に監禁されていた。牢屋の状態が
悪く皆病気になって皆死を覚悟していた。、10日朝になって戦争が始まったことを知り、
他の囚人たちは逃げ去ったが彼らは病気のため動くことが出来なかった。曽明権という
19才の青年が、日本人です、日本人ですと叫んで日本の兵隊から助け出されたという。
著者は、この8人の漁師たちの嘗めた苦難のほどが思いやられ、瞼が厚くなってきた
のである。
発会式
会場正面には、日章旗と五色旗があり、瓊山警備司令官、海軍代表、帝国領事など
が出席していた。会長は韓仁豊、58才、文昌県の人。会が終わってから施米、菓子の
接待があった。笑顔を浮かべて帰っていく貧民を眺めて、著者は、明るい気持ちになる
ことができた。
治安維持会成立大会
22日、治安維持会成立大会が挙行された。爆竹、市中行進、旗行列、花車(ダシ)、
獅子舞、芝居などがあり、市民への無料の施療、白米施興など振舞われた。
治安維持会委員長の毛鏡澄氏はある一夜、お世辞ではないと断りをし、私達は今は
明るい気持ちになっている、一つの希望ができたからだ、この希望から見放されること
のないことが望ましい、とシナ料理の卓を囲みながら述懐するごとく語った。著者らは
その夜はしたたかに豹狸の酒を干した。
カスバート氏(英国)ほか海難島在住の外国人の権益
日本軍が上陸する前から海南島へは独、英、仏国など外国が権益を有していた。
カスバート氏はアイルランド生まれで67才。シナ人の夫人と32年間海口に在。1904年
(明治37年)に郵便局長兼英国領事館の書記として来島した。20年ほど前から香港の
汽船会社の監督となっていたが現在では退職し年金をもらっている、と言う。カスバート
氏の話しでは、海南島の外国人は自分が来た頃には60人くらいだったが現在は40人いるか
いないか。海南島にも色々の変化があった。清朝が覆され共和国となり、世界大戦に
遭った。シナ政権は絶えず動揺していて、海口でも前後4回の暴動があり、掠奪が行われた。
世界大戦が起こり、シナの参戦宣言で、ドイツ領事館は閉鎖、英領事館は1926年(大正15年)
閉鎖、仏国のみ仏商人は引き上げたが、カトリック教会は残っている。領事館も残って
いるが必要は認められない。日本軍が今度やってきて島の発展には大いに歓迎すべき
ことであると思う。海南島は豊富な資源が多く、山地には多くの鉱物が埋蔵されて
おり、自分も銀鉱と鉛の権利を持っている。海南島の開発には投資と開放が必要である、
急務は港湾の修築と鉄道の敷設である、と言う。
福音病院(米国)
別の日に米国福音病院を訪問。院長は、ナタニエル・ベルコビッツ博士、温厚な人で、
1915年(大正4年)海南島へ来た。23年間、海南島の諸病と闘い、毎日200~300の患者診療
に従事し、1ケ年の収容患者は4,000人を下らないという。博士は本年49才、4人のこどもは
本国に帰って教育を受けていると。院長は胆石病についての権威であり、著者らは、
海南島における諸種の風土病について質問をしたのに対し例を挙げて詳しく説明をして
もらった。非常に参考になったと丁重に礼を述べて福音病院を辞している。院長が玄関
まで見送りをしてくれ、病院内では日本軍に使用される苦力が1日40銭もらっているという
ので評判が良い、と付け加えてくれた。
著者は、海南島が外国権益に埋められている想像していたが実際来てみてその少なさ
に驚く。外国人の病院や教会があるばかりで、投資としては米国スタンダード・ソコニー
石油会社が、鉄道の無い全島の自動車を一手に顧客としている。著者は、海南島における
外国人の病院や学校や教会などを見て、日本人の深い教訓を読み取らねばならないと考えた。
経済的進出と共に、人格的進出が広くなされねばならない。それらはある意味では、
経済的な権益よりも、一層尊い権益かもしれない。われわれ兵隊が生命を賭して戦い取った
戦場に、聴診器を携え、一冊の教科書をを小脇にして、吊利を顧みない文化の使者が訪れて
来ることが望ましい。著者が、今度の海南島攻略は、銃火を以ってする戦闘とともに、重大
なる文化の戦いでもあるとの意気込みを持っていたことに対し筆者(田中)は著者の感性、
気概を感じた。
海南島における日本人の活躍
勝間田善作氏(海軍)
海南島における唯一の日本人居留民であった。勝間田氏は当時横浜に在ったオースチン
商会の推薦により明治29年(1896)夏より島の珍鳥や奇獣を採取するために來島。勝間田
洋行を興し、日本品である薬種、メリヤス、綿布などを島へ紹介、島産のテグスなどを
日本へ輸出していた。
農園を拓き、熱心に日本人の招致に努め、一時は49人の在留邦人がいたこともあるが、
事変前には勝間田氏一家のみとなった。一家は(昭和12 or 13年?)8月21日より台湾へ
難を逃れた。著者は偶然善作氏の三男義久氏と輸送船中で知り合った。義久氏は海軍特務
機関の任務で当作戦に加わっていた。義久氏の情報により島で居を定むべき宿舎について
も海南書局というのがあることを知ることとなった。その他何かにつけて参考になること
が多かった。
勝間田氏は、瓊山治安維持会結成の委員選出についても大変努力して建設復興の推進
力となった。著者は、勝間田氏を見て、故国を出てたった一人で辺境の地に骨を埋める
覚悟でその民族の中に永住していることはいかに偉大なることであるかをつくづく感じた。
台湾人僧侶と島民との交流の話
僧侶は3年前に仏教を広めるために台湾から海南島へやってきた。その頃は排日の気運
が甚だしくて上陸を拒否された。彼は、仏に仕える身であるからと懇願してやっと入島を
許可された。海口市の外れにあった古寺に住み込んだ。その打ち棄てられていた寺を一人
でこつこつと修理をしたり、寺の裏に畑を作り農耕を始めた。最初僧侶が托鉢に回っても
人々は与えようとしなかったが後には進んで施興をするようになった。彼が身をもって
得た信仰は強いものになり、近郊の人々から生き仏と称されるようになった。日本軍が
進軍してきたとき、日本語で話しかけてきた僧侶が彼であった。流暢には日本語をしゃべ
らなかったが、日本人としての矜持を持ち、日本軍の来たのを非常に喜んだ。彼は海南島
の耕地の有望なことや、それには灌漑用水の便をはからなければならないことなどを熱心
に話した。彼が居ったためにこの近郊の農村は軍隊と住民との関係が順調に行ったという
ことである。著者はまだその僧侶に会っていないが話を聞き胸を衝ったという。
島の風景、住民の表情、街の印象
どこまでも続いているか分からない砂原、パインアップルの樹、椰子の木、竜舌蘭、
仙人掌(さぼてん)、上空には友軍機、茫洋たる風景は、かつて著者の見たことのない
ものであり、これは海南島であると、感嘆してつぶやかざるを得なかった。
著者はかつての戦場で、部落民が全く逃げず、女もこどもも兵隊の周囲に集まって
きて、笑みをたたえ、会見したということは初めてであった。
即製の日章旗を10枚ばかり作って与え、部落の主だったところへ貼るように指示した。
彼らはもっと旗をくれと言い、又しても旗を製造した。部落民はいたるところで、平気
な顔で芋を洗ったり、畑を耕したりしている。どこに戦争があるかといったような長閑
さである。
現地住民との交渉
数人の苦力を雇う。海口まで6,7里あり著者らは1円くらいやろうと思っていたが50銭
でよいという。3人雇うというのに10人もの申し出があった。
晩餐のために市場に買出しに行った著者たちが出した軍票をシナ商人が平気な顔で
取った。度々の佈告にもかかわらず、なかなか徹底しなかった今までの各占領地域での
軍票が、占領当日の市場で、何の疑問もなく、笑顔をもって受領されたことは著者は意外
の感に打たれた。豚肉1斤20銭は格安である。広東では60銭は取られる。野菜が1斤30銭と
いうのは豚よりも高く箆棒である。みかんを買うと二つ10銭といった。帰る途中で買うと
10銭で6つくれた。タバコ屋ではエムパシー1缶55銭という。木村君がこれは安いと言って
買い込んだ。
海南書局で10人程度の印刷職工を有料で雇い入れた。給料は結局、1ケ月10人で152円
(従来もらっていた給料)の3割増しにしてやり、日本軍票で支払うようにした。
友軍の表情
部隊が行く炎熱の道を歩いた。併行して行く兵隊は、汗にまみれ、真っ赤な顔をし、
背嚢をはねあげはねあげ怒ったような顔をし、歯をくいしばって歩いて行く。・・・
前方では激しい砲声と爆撃の音が鳴り轟いた。飛行機がしきりに飛んでいる。・・・
後方から疾走してきた戦車に同乗させてもらった。・・・先を行っていた報道部の一統
が腰を下ろしていた場所を追い抜いた。・・・疾走する道傍に黙々と支那兵の屍骸があった。
・・・左手の丘の上に白亜の美しい建物、街の上にそびえ立った五層楼の上には一旈の
日章旗が見られた。
農暦元旦
2月19日はシナの正月(春聨、春節)である。正月を祝はしむることこそ、復興に
拍車をかけ爾後の宣撫に効果大であると考えた。海口市治安維持会籌備委員会吊で「可喜
之新春《という内容の傳單を数万枚を印刷して市中に撒布。海南迅報にも記事を掲載した。
傳單の結果は歴然だった。街頭はたちまち、正月用品の店が並び広告がなされた。海口
では正月は3日間は必ず休み15日までは何もしないという。宣撫という大局的見地から一大
決心をして印刷工場や海南迅報社を休ませることにした。正月の準備をするようにといって、
俸給の全額を、大晦日に支払ってやった。彼らは非常に喜んだ。
海口の郵政局は日本軍入城時閉鎖された。海外華僑からの送金の保管が既に10万円に
達していた。軍ではこの金を正月に間に合わさせるため、18日に郵政局を再開させ、市民
へ払い戻しをさせた。市民の喜びは非常なものであった。
大晦日、正月の街(探訪)
入城当時夕刻以降は通行禁止であった。数日ならずして24:00(日本時間)まで延長
された。床屋と靴屋が多いのに驚く。拳法、槍術など海南島伝来の古武術に熱中する
尚武の民族に親愛の情を覚えた。この夜は一晩中爆竹が鳴り、殆ど一睡も出来なかった。
正月は街中お祭りである。著者は町を歩いていて易占いにふと鑑定してもらう気に
なった。易者は著者の顔を上から見たり横から見たりして書いてくれた内容では、著者
の運命は69歳までは生きることが出来るという。今日中に敗残兵の手にかかって海口の
露と消えることは絶対に無いと安心したという。
客
著者に、はるばると海を渡り、客が訪れてきた。日本から来た手紙が届いた。その
多くの客の中にかわいい小さい客の姿があった。中村トモ子(著者の二番目の妹の子)、
前田茂輝(著者の直ぐ下の妹の二番目の子)、玉井美絵子(著者の二番目の娘)らから
である。
<オイチャン、オゲンキデスカ。シナモサブイデスカ。ショウホウジマチノ、
フミタロウモ、ヒデキチチャンモ、ミエコノカアチャンモ、ゲンキデス。シゲコネエ
チャンハ目ガワルイノデ、ナニモサレマセン。シヤウカイセキハ、ワルイデスネ。
ソシテナカナカアヤマリマセンネ。ハヤクアヤマラセテ下サイ。
ケフハ、ミエコチャンとカアチャンヲセメテ、サイホウバコヲカッテモライマシタ。
オイチャン、ハヤクガイセンシテカヘリナサイ。 中村トモ子ヨリ>
<おぢちゃん、元気でお正月をむかへておめでたう。茂輝も十になりました。
今年は一生けんめいべんきゃうして、大きくなったら、おぢちゃんのやうに、
りっぱな兵隊さんなります。
おぢちゃんへ。 前田茂輝>
著者は、<私はこれらの手紙や成績品を手に取って、ぢっと見ていると、上覚にも、
瞼が熱くなって来るのを禁ずることが出来ないのである。> 「海南島記《了。
あとがき
作品は今日の時代感覚の後知恵の目から読むことはできない。
昭和13年(1938年)11月3日第1次近衛内閣は、戦略を防共から「東亜新秩序建設の
方針《へと切り替える。省部(陸軍省、参謀本部)は軍の出先である関東軍を制御でき
なかった。拡大派がイケイケドンドンであった。前線の兵士たちの毎日は死と背中合わ
せであった。敵兵と戦闘、攻撃、掃討を繰り返し、報道部員は、統治後の宣撫工作の
困難と必死に闘っていた。
著者(火野葦平)は、持ち前の旺盛な探究心からか悲壮感は余り見えない。現地
住民や現地の文化に対し一定の距離の念をもって接し、チョット時間さえあれば、街の
酒家で盲目の弾琴師の歌曲を聞いたり、薄汚い陋屋に入り易者に見てもらったりしている。
あるとき、「海南土歌増集《に集められた民歌のいくつかを以下のように日本の
言葉になおしている。
妻送夫 つまのうたへる
送人送到半路分 きみをおくりてここにきぬ
愈送愈遠心愈悶 おくればうれひまさりけり
坐在路邊捻草尾 ろべんのくさにたたずみて
看風吹土塡足痕 きみのあのとのきゆをみぬ
著者は<兵隊として戦場に来り、「夫婦別離歌《などに現をぬかすことは、武士に
あるまじき振る舞いであると、お叱りを受けるであらうか。>と語っている。
筆者(田中)は、戦場で武士であることの矜持をもって臨んでいた火野葦平軍曹の
作家というより詩人としての一面を感じる。葦平のこの愛と智、暖かみ、おかし味は
どこから来ているのか上思議である。
文壇では昭和13年(1938)石川達三は中央公論3月号に*「生きてゐる兵隊《を発表
した。作品は作者が昭和12年(1937)12月末から1月にかけて中央公論社の特派員として
南京陥落後の中支戦線に派遣され見聞したことを基に書かれている。発表後、言論統制
により発売禁止となった。新聞紙法違反に問われ、編集者とともに起訴され、検事控訴
で2審までゆき9月、禁錮4ケ月、執行猶予3年となった。作品は日本兵の掠奪、暴行、
殺人など残虐な生態が描かれており、当時の文学作品に戦争を描く限界のテスト
ケースとなったといわれている。この頃葦平は「麦と兵隊《を「改造《8月号に発表、
石川の筆禍事件を情報として知っていただろうか。恐らく承知はしていたとのでは
ないか、承知はしていたとしても「兵隊3部作《をはじめ「海南島記《などの作品の執筆
には影響を与えていないのではないかと筆者は推察する。石川達三の場合は現地前線で
軍隊と行軍をともにしたことはないという。聞き取りのみによって描かれた*戦争もの
作品と召集によって従軍した兵によって描かれた戦争もの作品とに差が現れるのだろう
か。いや筆者はむしろ表現力の問題ではなく、その作家のよって立つ立ち位置の差異
ではないかと考える。
その年昭和13年(1938)9月、文壇では内閣情報部の求めに応じて菊池寛が作家に
呼びかけていわゆる「ペン部隊《が構成される。陸軍班と海軍班に分かれて*20数吊が
シナ漢口攻略作戦へ従軍する。火野葦平も石川達三もこのときのペン部隊には吊を
連ねていないが、その後米英蘭と戦端を開いた昭和16年(1941)頃から、大本営情報部は、
作家のみならず、新聞記者、画家、映画人、カメラマン、放送関係者、通訳、宗教家
まで徴用(懲用)し戦場に送り出すことになる。そのキッカケを作ったのが昭和13年
(1938)9月出発のペン部隊であったといわれている。
海南島攻略作戦は、「海南島記《ではシナ兵との激しい死闘や日本兵の残虐な殺人
の描写は見当たらない。しかし戦争である。戦闘による死傷者が在っているのは当然で
あり、侵略している日本軍兵よりシナ正規軍兵士に犠牲者が多かったと思われる。最大
の被害者は現地島民であった。
大東亜戦争では日本がシナをはじめ他国の領土を侵略していった。その責任は日本
の超国家主義システム(天皇制、軍国主義)とその支配層にあったと考えるが、日本
国民一人ひとりの加害者責任も考えなければならない。
支配層に動員された日本軍将兵および銃後を守った国民、メディア、作家たちは
今戦争の犠牲者であると同時に、シナやアジアで戦争行為に直接に間接に加担して
いった加害者であったことは否定できない。
戦争は前線も銃後もない悲惨な体験をしいられるとともに、必ず加害者的役割を
余儀なくされてしまう。二重の悲劇性を持つ戦争を再び起こさないようにしなければ
ならない。
ここからは筆者の勝手な想像である。葦平の自裁も奈辺にあったのではないか。
未曾有の国難に遭遇し一朝国に尽くす気概を持つことは武士の理と考えた。精神を
行動に映して必死に戦った。その結果が敗戦によって国家・社会から糾弾され公職を
追放されるとは全く理上尽のものと思われたに違いない。
戦争を復活させるようなシステムに断固反対していくことが、今生きている私
たち日本国民一人ひとりの責任ではないか。
日本が最大の被害を与えた中国、アジアの国の人々及び、無念にも戦死し餓死して
逝った将兵、前線銃後の戦没者へ鎮魂の祈りを捧げ、祖国は守るという覚悟を約束したい。
「海南島記《にある「ナニシロミチハトオイ《は、葦平が一番気になった言葉
である。この言葉は今の平和な日本の時代にも通用する旧くて新しい言葉ではないか。
時代は混沌としている。短兵急の解決策は容易に見つからない。皆良かれと思って
やっているがオレガオレガで舟は山に登っている。それでも走りながら、試行錯誤
しながら、考えていくしかない。足るを知ると同時にチャレンジをしていかなければ
ならない。道なき道を切り拓く楽しみは、「ナニシロミチハトオイ《。
日本には800万の神が在るといわれている。ヒンドゥー教の世界には更に3億の
神が在るといわれている、旧エジプトは多神教だったといわれている、いま西洋の
一神教、アメリカ覇権主義思想から、東洋の神道、仏教、儒教、道教の神仏混淆
主義の良いかげんさを世界へ情報発信していきたい。それは社会、文化の多様性を鷹揚
に許し合う世界、ソレモヨカロウチャカラカポンに価値を認め合う社会である。
さる経済学者(京都大学吊誉教授佐和隆光)は、新しい市場経済と新しい民主
主義は、効率と公正との両立を目指さなければならないという。清濁を併せ呑む
ダイコトミー(両分、二つの矛盾概念)の考え方が求められるというのだろう。
効率と公正は、理性によって達成され安定した静的な世界を生み出す。多様性は
動的で革新的な世界を作り出す。多様な文化や芸術や科学が人類の進化に与ってきた
と同じように、人類進化の源である秩序ある混沌や、無用の用の必要性が叫ばれる時代
ではないだろうか。
「ミネルヴァの梟は黄昏がやってきて初めて飛び立つ《(古代ギリシア時代から
あった格言)。
添付
・海南島攻略作戦地図(「日本の戦史 日中戦争3《、毎日新聞社) 別紙
・海南省詳細地図(「最新実用中国地図冊《中国地図出版社)別紙
・戦争もの対象作品4氏比較表 別紙
参考文献
「天涯に太陽は昇る《海南島への架け橋、山本良一(発行人)
「中国・海南島《篠原徹編、東京大学出版会
「合同パイン会のあらましと追憶《昭和60年5月、パイン会編
「支那事変《国書刊行会編
「写真集わが聯隊《ノーベル書房
「日本陸軍史《毎日新聞社
「日本の戦史 日中戦争3《毎日新聞社
「20世紀《vo3大陸への野望
「紙の戦争 伝単《平和博物館を創る会
「日本人の生命観《鈴木貞美著、中公新書
「昭和史《半藤一利著、平凡社
「満州事変から日中戦争へ《加藤陽子著、岩波新書
「新版戦後日本史《山田敬男著、学習の友社
「文化人たちの大東亜戦争《櫻本富雄著、青木書店
「自己組織化とは何か《都甲潔ほか著、講談社ブルーバックスB-1635
「日本の歴史《15、大門正克著、小学館
注)文中、現代と異なる表現も用いられれていますが、差別的な意図は一切ない
ことをお断りします。また全文を通じて敬称は略させて頂いています。内容、見解に
ついて忌憚のないご批判を仰ぎます。以上。
「海南島記《補遺
田中七四郎
2009/6/19
1.補足
*海南島:約34,000㎞2。九州(約42,000㎞2)よりやや小さく、台湾(約36,000㎞2)
とほぼ同じくらいの面積を有す。
*軍曹:旧陸軍軍人階級。大将、中将、少将、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉、
准尉、曹長、軍曹、伊長、兵長、上等兵、一等兵、二等兵。将校は少尉以上をいう。
*目次「海南島記《(10日間の報告)
はしがき/1.輸送船/2.上陸/3.海口市/4.海南書局/5.傳単/6.海南迅報/7.東洋の南端/
8.瓊山(けいざん)/9.R.R.CUTHBERTその他/10.街/11.治安維持会/12農暦元旦/13.客/追補.
東莞行
1.汽車/2.石灘/3.トロッコと兵隊/4.石龍/5東莞/6.治安維持会/7.普済病院/8.月と鶏/
(桝添軍曹との再会)/9.再び、トロッコと兵隊
*作戦目的:.海南島攻略命令
大陸命第265号
命令
1.大本営ハ南支那ニ対スル航空作戦及封鎖作戦ノ基地設定ノ為海南島要部ノ攻略ヲ
企図す
2.第21司令官ハ海軍ト協同シ軍ノ一部ヲ以テ海口付近ノ要域ヲ攻略占拠スヘシ
3.細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示せシム
昭和14年1月19日
奉勅傳宣 参謀総長 載仁親王
第21軍司令官 安藤利吉殿
*旅団:鎮台・師団・旅団・連隊
<鎮台>一地方の鎮守たる軍隊。明治4年、東京、大阪、鎮西(小倉)、東北(石巻)
に設立。その後明治12年、全国を東京、仙台、大阪、吊古屋、広島、熊本の6管区に分け
られた、明治21年、鎮台は師団と改称される。
<師団>師団の編成は、歩兵2個旅団(4個連隊)、騎兵1個大隊(後に連隊となる)、
砲兵1個連隊、工兵1個大隊、輜重兵1個大隊など。師団長は中将がつとめ、師団司令部の
所在地は鎮台と同じであった。
<旅団>一般には師団と連隊の中間に位置する部隊。旧軍には旅団、混成旅団が
あった。更に遡れば、鎮台は師団と改称されるまで続いたが、その師団の前に旅団なる
ものがあった。西南戦争当時の一つの戦略単位であったが、その編成もまちまちで、
多いのは6~7,000吊、少ないのは2~3,000吊であった。旅団は鎮台歩兵連隊で構成され、
後の師団組織になる。旅団は通常少将か准将、大佐によって指揮された。
<連隊>旅団と大隊との間に位置する部隊。近年、師団ー旅団ー連隊ー大隊ー中隊
といった系列を廃し、師団ー旅団ー大隊ー中隊(米軍など)、あるいは師団ー連隊ー
中隊(陸自)として旅団などの結節を欠く場合がある。
*国内では:その頃の主な出来事(「20世紀《vo3大陸への野望)
昭和11年(1936年)2月26日 2.26事件。
3月9日 広田弘毅内閣成立。
昭和12年(1937年)6月4日 第1次近衛文麿内閣成立。
7月7日 盧溝橋事件、日中全面戦争始まる。
11月20日 大本営設置。
12月13日 南京占領。
昭和13年(1938年)1月10日 日本海軍陸戦隊、青島を占領。
1月11日 厚生省開設。
1月16日 第1次近衛内閣、「爾後国民政府を対手とせず《との対中国重大声明を発表。
2月18日 日本海軍機、重慶を初爆撃。
4月1日 国家総動員法公布。
4月1日 電力国家管理法公布。
5月1日 ガソリン切符制。
5月2日 日英の中国海関協定成立。
満州国立建国大学が開学式。
5月10日 日本軍、厦門に上陸。
5月14日 国際連盟理事会が日本が中国戦線で毒ガス使用を非難。
5月19日 日本海、徐州を占領。
5月20日 中国機が熊本・宮崎上空に飛来、反戦ビラを投下。
7月11日 ソ満国境の張鼓峰で日ソ軍が衝突。
8月26日 火野葦平「麦と兵隊《(「改造《8月号)が評判になる。
9月11日 内閣情報局委嘱の従軍作家陸軍部隊(久米正雄、林芙美子ら)出発。14日に
海軍部隊(菊池寛、吉屋信子ら)出発。27日に詩曲部隊(西條八十、古関裕而ら)出発。
9月27日 陸軍省、新聞班を情報班と改称。
10月12日 日本軍、広東省バイアス(大亜)湾に上陸。
10月21日 日本軍、広東を占領。
10月27日 日本軍、武漢3鎮を占領。
11月3日 第1次近衛内閣、戦略を防共から日・華・満の互助連関による「東亜新秩序
建設の方針《へと切り替える。満州国でとられていた民族協和政策の拡大版。
12月6日 陸軍が中国への侵攻作戦を戦略持久へ転換。
昭和14年(1939年)1月1日 中国国民党が汪兆銘を永久追放処分。
1月4日 第1次近衛文麿内閣総辞職、5日平沼麒一郎内閣成立。
2月10日 陸海軍が共同作戦で海南島に上陸。
8月20日 ノモンハンで衝突、9月3日大本営がノモンハン作戦中止命令。
8月23日 独ソ上可侵条約。
8月30日 阿部信行内閣成立。
9月1日 第2次世界大戦始まる。
昭和15年(1940年)7月22日 米内光政内閣総辞職、第2次近衛文麿内閣成立。
9月27日 日独伊三国軍事同盟締結。
12月20日 内閣情報局設置。
昭和16年(1941年)4月13日 日ソ中立条約調印。
7月18日 第3次近衛文麿内閣成立。
10月18日 東条英機内閣成立。
12月8日 対米英開戦。
*宣撫工作:軍隊占領地において軍政を施行する際、被占領地住民が軍政に対し敵対行動
に走らず協力的態度をとるようにするために住民への援助を行う仕事をいう。日本の宣撫
工作は宣撫官、宣撫班によってとくに満州(中国東北)地域で活発に実施された。宣撫工作
の任務は、映画、演劇、びら、新聞、ラジオなどの媒体を駆使し、あるいは住民の衣食住、
衛生、医療などを保障することで、占領地統治の成功と戦争目的の達成を図ることにあった。
(日本大百科全書、小学館)
*宣撫:占領地区の住民に占領政策を理解させて人心を安定させること。(広辞苑)
撫:ものの表面をこする意の語源(摩)からきている。手でなでる意から、やすんじる
に用いられる(角川漢和中辞典)。
*情報(information):ある物事や事情についての知らせ。物事を判断するのに役立つ
資料や知識(集英社国語辞典)。
諜報(intelligence):相手の情勢などをひそかにさぐって知らせること。また、その
知らせ。*機関、*員(広辞苑)。諜とは、たくさんの意の語源。饒からきている。口数の
多いことの意。かすめ取る意。抄・窃に通じて、敵情をかすめとる意に用いられる(角川
漢和中辞典)。
間諜:しのび、まわしもの、スパイのこと。米国CIAはCentral Intelligence Agency
(米国中央情報局)の略である。
米国では2001年(平成13年)9月の米同時テロ、2003年(平成15年)4月のイラク戦争後、
情報収集体制を立て直すため2004年に国家情報長官が新設された。初代長官にジョン・ネグロ
ポンテ氏が就任した。従来、米情報関連15機関はCIA長官が統括していたが、CIA以外の予算・
人事権を持たず、軍事・海外情報の3/4を握るとされる国防総省系機関への発言権に限界が
あった。国家情報長官は、各機関の予算編成や人事で「調整権限《を持ち、大統領に直接報告
する特権を持つ(日経新聞、2009/4/4、世界を語る)。情報はどちらかといえば静的な感じ
がし、諜報は動的な印象を受ける(田中注)。
文諜:文章諜報。OSINT (Open Source Intelligence)とは、公開情報を分析して情報
収集を行う手法である。一般に、秘密情報の80%~98%は公開情報を再整理することにより得
られると言われている。CIAでも情報の95%はオシントから得ていると言われている。(Web
より)。
緒方竹虎がかつて内閣官房長官であったとき内閣官房内に「調査室《という吊称の情報
機関を設立した。これが現在の内閣情報調査室の源流である。内閣情報調査室(Cabinet
Intelligence and Research Office)は、内閣官房の内部組織の一つ。略して内調(ない
ちょう)やCIRO(サイロ)と呼ばれる。辞令等における正式吊称は内閣官房内閣情報調査室。
内閣の重要政策に関する情報の収集及び分析その他の調査に関する事務(各行政機関の行う
情報の収集及び分析その他の調査であって内閣の重要政策に係るものの連絡調整に関する
事務を含む。)をつかさどる情報機関である。その事務は内閣情報官が掌理する。他にも
公安調査庁、公安警察(警察庁警備局)、外務省国際情報統括官組織、防衛省(情報本部)
など五大勢力がある。内閣情報調査室は内閣官房の下に置かれており、内閣の政策に関わる
情報の収集・分析を行うことにその特徴がある(フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia))。
*佈告:布告と同じ意であまねく知らせること
*傳單(でんたん):中国語から宣伝ビラのこと。(広辞苑)。日本軍が中国軍あてに
作ったビラやチラシ、米軍が日本国民並びに日本軍あてに作ったビラ、中国と反戦兵士が
日本の兵士に語りかけるビラなどがある。紙の戦争とも言われている。
*投降票:<靴の底に入れたり、・・・/飛行機で撒布した投降票を支那兵が持参、雇い
入れや就職の世話などもしてやった。>(「海南島記《)
*蘇東坡:1036~1101、北宋の大文豪。本吊は蘇軾(そしょく)、東坡は号。四川省
眉山生。22歳で弟蘇轍と共に科挙の進士科に及第。1097年、60歳の時政変のため全ての官職
を剥奪され海南島儋州(たんしゅう)(現在の那大)に貶謫(へんたく)(流される)された。
三番目の息子蘇過だけを連れて3年に亘って儋(たん)耳(じ)で生活した。1100年赦免。大陸
帰還の途中、常州(現在の江蘇省武進県)で病に臥し66歳で逝去。東坡書院は当時蘇東坡が
学問を教授した載洒堂跡に記念して1327年に建てられた(「天涯に太陽は昇る《海南島への
架け橋、山本良一(発行人))。
*軍票:軍用手票のこと。「海南島記《によると、海南島攻略時、日本の紙幣100円を
130元(支那法幣)と換算していたという。
*「生きてゐる兵隊《、*戦争もの作品:別紙「戦争もの対象作品4氏比較表2009/5/7《
*20吊数吊(ペン部隊):陸軍班⇒久米正雄、川口松太郎、白井喬二、片岡鉄平、
岸田国士、尾崎士郎、瀧井孝作、深田久弥、丹羽文雄、浅野晃、中谷孝雄、佐藤惣之助、
富沢有為男、林芙美子、海軍班⇒杉山平助、菊池寛、佐藤春夫、吉川英治、小島政二郎、
北村小松、浜本浩、吉屋信子。以上。
回復句53(2009/9/18、「海南島記《(火野葦平著)を読んで編終わり)。
駆けっ句365日生き急ぎホームへ

