駆けっ句365日生き急ぎ

回復句52


十八尊佛図(釈迦如来)

回復句52(2009/9/18、あしへいと父のこと編)       「あしへい《第12号投稿、会員田中七四郎 2009/9/8  あしへいと父のこと   今回「海南島記《(火野葦平著)を読んだのは2度目だった。 最初は2001年(平成13年9.11米国同時多発テロ事件の年)5月の 連休時単身、福岡空港発海南島三亜行きツアーの飛行機の中で 読んだ。海南島へは父が海南島北部南渡江沿い澄邁(ちょうまい) 県金江市に昭和15年末から4年半ほど滞在していたことがあった ので一度行ってみたかった。8年後「海南島記《を読みなおして 詳しく父稔の兵籍簿を調べているうちに、偶然面白い事実が見つ かった。ミステリーといえばおおげさだが父とあしへいが限り なく接近した時期があったことが分かった。  ちなみに兵籍簿とは、旧軍人の軍歴を記録したもので、陸軍の 場合は各都道府県庁の福祉労働部保護・援護課(福岡県の場合) に保管されており、海軍の場合は、厚生労働省社会・援護局業務 課に保管されている。手書きで読みづらいが写しの交付は三親等 内の親族などは可能である。  養父稔は明治35年下関市壇ノ浦で生まれ、大正13年21歳のとき 戸畑市金谷町(当時)から1年志願兵として小倉北方(きたがた)に あった歩兵第47聯隊第11中隊に入隊した。大正14年歩兵軍曹にて 現役満期で予備役編入、召集解除になったが、昭和4年7月(27歳) より歩兵第14聯隊にて勤務演習を繰り返していた。  あしへいは明治39年生、父とは4歳の差がある。生前に二人が 直接会話した記録は残っていないが、超接近した舞台(部隊)が 14聯隊だった。もしかしたら営内で袖触れ合っていたかもしれな い。今では確認する術もないが。  序でながら14聯隊について。創設は明治8年4月。創設の場所は、 慶長13年、細川氏が築いた小倉城、勝利に因んで「勝山城《とも 呼ぶ。城は、慶応2年、長州の奇兵隊に囲まれ自焼。明治維新に なると西海道鎮台本部や12師団が設けられ、森鴎外が軍医部長で 勤務したこともある。初代聯隊長は、山田頴太郎少佐、二代目 聯隊長(心得)は乃木希助少佐、明治10年2月22日の西南の役、 椊木の戦闘で、旗手、河原林少尉が奮戦戦死、軍旗を薩摩軍に 奪われた。軍旗は、再び明治11年1月21日,親授された。三代目は 豊津藩出身で元帥府に列せられた奥保鞏(やすたか)少佐。最後の 聯隊長は、三十三代目の鎌浦留次大佐、昭和20年8月22日、軍旗 は奉焼された。小倉出身の杉山元陸軍大臣(元帥陸軍大将)は 旗手を務めたこともある。その他乃木聯隊長に仕えた小倉城野 出身の檪(くぬぎ)哲造軍曹、田原坂で戦死した日向諸県郡出身の 谷村計介伊長、玉井勝則軍曹などが14聯隊軍人として特筆されて いる(「北九州地区軍施設跡保存の会回顧録《、同委員会編纂、 昭和49年3月10日)。  あしへいは昭和12年(この年7月7日に盧橋溝事件、いわゆる シナ事変が勃発して国内は風雲急を告げていた)9月10日、31歳 の時、臨時召集により14聯隊に応召した。  父も同じ年の昭和12年10月23日、35歳の時、昭和4年より勤務 演習を繰り返していた14聯隊に応召している。あしへいは応召 即日第18師団第114聯隊第7中隊に編入され、翌月10月9日には7 中隊分隊長として門司港を出発、11月5日柳川兵団に属し杭州湾 敵前上陸戦闘に参加している。  父が正式に応召入営した日(10月23日)には既にあしへいは 内地には居なかったことになる。  父は昭和14年5月(37歳)、北支派遣のため博多港を出発する まで14聯隊留守隊本部付として小倉北方(きたがた)にあった。 同4年5月7日、博多港から河北省塘沽(たんくう)へ上陸、北京を 経由して山西省蒲(ほ)州から、夏(か)県(山西省)付近東部中 條山脈、臨晋(りんしん)(山西省)、郷寧(ごうねい)(山西省) 等北支山嶺奥地を転戦、部隊は郷寧城を占領。一旦内地帰還の ため昭和15年10月3日門司港上陸、10月30日召集解除された。 昭和16年1月より台湾鳳梨株式会社の支店(出先機関)か、海南 物産株式会社に勤務するために台湾高尾を経由して海南島へ渡 る。海南島北部南渡江沿い澄邁(ちょうまい)県金江市に居を構 え、将校としてではなく何らかの理由で民間人の立場で、国策 会社か、いまでいう多国籍企業に近い会社かに3年3ケ月間勤め た。その間は兵役ではなかったので兵籍簿には顕れていない。  昭和19年4月1日(41歳)再び現地で海南島純兵団に応召。翌 年昭和20年(1945)3月29日(42歳)現地で独立混成第23旅団司令 部に応召、昭和20年3月29日より同年8月13日迄南支地区に於い て警備勤務、その間同年4月29日独立歩兵第130大隊に転属、 昭和20年9月24日独立歩兵第130大隊中隊長となり、終戦。昭和 21年(1946)4月6日(43歳)復員のため新埠(海南島)集結、4月 10日虎門(広東省)出帆、4月17日浦賀港入港、5月15日浦賀 上陸、5月22日召集解除。運良く復員できるまで4年間6ケ月海南 島に居たことになる。  父が生きているうちに一度海南島に連れて行ってやりたかっ た。残念である。  結局父とあしへいは14聯隊で時間と空間を共有することは なかった。しかし戦後、日本は上戦は貫かねばならない、と いう信念は共有していたのではないかと勝手に想像している。  なお「海南島記《と兵籍簿については、本誌「あしへい12号《 の○(○ページ)の「海南島記を読んで《、「海南島余譚《に 詳しく載せています。ご一読をよろしく。以上。   回復句52(2009/9/18、あしへいと父のこと編終わり)。


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