2009年9月歌舞伎座

大出来の「鈴ヶ森」

 

 秋、シーズンのトップを切った九月歌舞伎座は、七代目幸四郎没後六十年、

初代吉右衛門没後五十五年を偲んで、施主はすなわちその孫現九代目幸四郎と

二代目吉右衛門、ゆかりの狂言がならぶ昼夜七本立て。なかでは初代吉右衛門

の当り芸だった「鈴ヶ森」が一番の見ものである。

 吉右衛門の長兵衛は、駕籠のなかからの「お若えの」からはじまって幕切れ

の歩き出すまで、終始江戸ッ子の大親分、花川戸の人入れ稼業をする男の生活

の実感、リアルな気分を失わぬのがいい。江戸が遠くなった二十一世紀の今日、

とかくこの役は形式に流れて空疎になる。そこをしっかりつかまえてこの男が

どういう暮らしをしているのか、どういう性格か、権八をどう思って、その気

性を見込んだか、それらが短い間に手に取るようにわかる。提灯をさしつけて

刀を改めさせる具合、「かげ膳すえて」という人柄、そういうリアルさがすみ

ずみまで生きている。

 その上で、ただリアルなだけではない。歌舞伎は近代劇ではないから、長兵

衛の性格だの人生はどこかでこえなければならない。そのこえ方がうまい。

 たとえば刀をあらためるところ。片手に提灯、片手の袖口を口にあてて、上

手からグッと大きく首を廻して刀を見込む。そこまでリアルに権八への情を見

せておいて、そうなる。そこが大芝居。この距離感で円熟の味が出る。あるい

は名のりの長ゼリフ。中国筋まで名の高い、いや、それは違う、近くはと初代

吉右衛門にふれて、愛嬌を見せ、「阿波座烏」から「藪鶯は京育ち」まで、そ

の名調子を聞かせる芝居ッ気。

 幕切れの「これでなんにも白井氏」から「水に写りし人影は」へ自然に芝居

が移って行く具合。このリアルさを失わぬ大芝居がいい。

 対する梅玉の権八が、その柔らかさ、その若々しさ、どれもナマの柔らかさ

若さではなく芸でつくったよさである。したがって厚味がある。

 今度は黒にした紋付の黒と、踏ん込みの赤、白い顔が照り映えて、まことに

いい権八である。

 「雉も鳴かずば」あたりはあえて技巧を弄さずに素直に嫌味がない。うまい

のは「当時浪人」といって声を落して「白井権八」というところ。

 ただ一点、惜しいのは、闇夜で手が廻って人を斬っていく、その具合がいま

一つなこと。つい対象を見てしまうのが欠点。たとえば刀の鞘を取るところも

モロに鞘を見て取るから闇が浅くなる。足で探っていって手探りで取るのだろ

う。

 飛脚は家橘でほどよく安定している。雲助のなかでは橘太郎が目にとまる。

 短い一幕だが、歌舞伎の面白さを十分に味あわせる秀作。

 夜は、この前に「鞘当」。後に「勧進帳」と「お土砂」。

 「鞘当」は、役者の持ち味、芸で見せる一幕だから、まだ松緑の不破、染五

郎の名古屋ではムリである。二人とも姿、形はともかくも、芸の寸法がつかめ

ていない。たとえば芝雀の留女との芝居にリアルに顔を見るのは困る。顔を直

接見ずに観客には見てるなと思わせる方向があり、そこが芸の寸法の基本にな

り、その距離感が味になる。それでなければこの古劇の味が出ない。南北の作

といっても、南北は元禄の古劇をここへはめ込んだだけだ。

 芝雀の留女に一日の長がある。花道七三へ出たところ、五代目半四郎の口伝

のあるむずかしいところが、この人だけは絵になっている。

 「勧進帳」は幸四郎の弁慶。口跡といい、芝居の運びといい立派な弁慶なの

だが、問題がないわけではない。

 花道の出は座っていて「やあれしばらく」で立つ。

 本舞台へ来て「言語道断」から「いでいで最後のつとめをなさん」で富樫を

尻目にギョロリと見るのは、もとより弁慶は死ぬ気はないのだから行き届いて

いる。そこまで研究していながら、いざ祝詞になるとその性根が消え、急に余

裕もなく迫力もなくなる。この性根のつながり、芝居の流れに欠けるのが、こ

の弁慶の欠点である。

 勧進帳読み上げのあと急に歩き出すのは、この人だけではないが間違い。体

の向きを変えるくらいならまだしもこの人ほど何歩も歩くのは珍しい。

 山伏問答は吉右衛門の富樫の歌舞伎味たっぷりなのに対して、前半はほとん

ど動かず、単に動かないだけでなく弁慶の苦悩が出ていないから、ここで火花

が散らない。暗く沈んで芝居が盛り上がらず。

 戻って義経を打つところも「腹立ちや」の思い入れで打つ決心をするのはい

いが、いざ打つとなると判官に頭を下げたりするから、富樫でなくとも不審に

思うだろう。一貫していないのである。

 この人でいいのは、「鎧に添いし」の一節。踊りとしてや形をいうのではな

く、いかにもそれらしい「物語」になっている。

 延年の舞はちょっと瀧流し風の三味線の手があって七三まで行き、例の能う

つしの飛び上がるのが一度ある。

 上演回数が千回を越える弁慶。新しい演出を考えるのもむろんいいが、性根

をこそ深く掘下げて芝居の流れを工夫してもらいたい。

 この「勧進帳」を支えたのは吉右衛門の富樫である。最初の名乗りこそ矢車

会ほどの気迫がなくて淡彩であるが、山伏問答では高音をうまくつかってたっ

ぷりした大芝居。

 私は勧進帳をのぞきにいくところでも右手を上げるのは反対であるが、今度

の吉右衛門だと、なんとかのぞこうとして自然に手が上がる具合がうまく、そ

のうまさが不自然さを感じさせなかったのには、成るほどと思った。

 「疑えばこそ」の芝居も脱線せずに、することはして嫌味にならず上出来。

 幕切れの袖をかざしての見得まで、その顔が美しく絵になっているのは、芸

の円熟の結果。以前から見ればまことによくなって当代の富樫である。

 染五郎の義経。

 「お土砂」は、吉右衛門東京三度目の紅長で、さすがに初役の時の不自然さ

がなくなった。長兵衛、富樫と十分に見せたあとの大サービス。さながら吉右

衛門奮闘公演である。

 しかし初代吉右衛門が独特の愛嬌一つで見せた喜劇。今になって見れば、木

曽の軍勢が板橋にまで攻めて来たの、範頼公が八百屋お七に懸想しているのと

いう状況がわかりにくい。戦争の疎開騒ぎでおきるからこその喜劇。もう少し

台本演出を整理すべきだ。

 東蔵のお七の母、福助のお七、錦之助の吉三、歌六の釜屋武兵衛、歌昇の十

内、歌江のお杉、桂三の長沼六郎、由次郎の住職と手揃いのワリにはこれとい

った仕どころもなく残念。

 あとに福助の人形振りで「櫓のお七」。

 まことにキレイだが、振付のせいか、人形のグロテスクさばかりが目立って、

玉三郎のそれのように人形振り独自の世界がひらけてこない。かえって花道七

三へ行って人間になってから人形のような美しさが出たのは、そもそもこの人

には人形振りがあっていないのではないか。歌江のお杉が、歌右衛門のお七で

も十分通用する逸品。

 さて昼の部は、第一が司馬遼太郎原作、斉藤雅文脚本演出の「竜馬がゆく」

三部作の完結編。坂本竜馬暗殺の一日を追った作品である。暗殺現場となった

京都 河原町 通り近江屋の店先、裏口、二階座敷、渡り廊下をドキュメンタリー

風にグルグル廻す趣向が目まぐるしいのと、竜馬の人間的な魅力、その識見の

多面性を描こうとしてかえって断片的で散漫になった。

 竜馬暗殺の手引きをする近江屋の奉公人桃助(男女蔵)と女中おとめ(芝の

ぶ)の恋をからませて時代を描いたのと、暗殺犯人二人の説明を一切しないの

がミソだが、全体としてはドラマが組まれて(構造化)されていないために平

板になった。

 染五郎の竜馬は線が細い。松緑の中岡にはせりふに聞きとりにくいところが

ある。もっとも言葉がむずかしい上に状況が説明不足なためもある。

 門之助の後藤象二郎、猿弥、高麗蔵の近江屋夫婦、竹三郎の薬屋。ちょっと

出るだけだが松之助の桃助の兄がうまい。

 第二が、吉右衛門の「馬盥」。

 「饗応」「馬盥」「愛宕山」の三場。

 正面御簾が上がったところ、まだ二日目のせいか、のちに仕掛けで落ちる烏

帽子のためか、鬘つきがわるく姿にいつもの吉右衛門らしい幅がない。春永へ

の諫言もごくあっさりとして春永との個性、考え方の違いが鮮明に出ない。蘭

丸に鉄扇で打たれる前後の芝居も突っ込みが足りない。初代の大芝居に観客の

喜びようを思い出した。

 富十郎の春永は上手揚幕から出る。「黙れ、光秀」のイキはいいが、とかく

せりふが活歴調になるのは、この芝居に合っていない。花道の引込み、七三で

の本舞台の光秀を見込んでの芝居も悪くはないが、とかく淡彩。

 錦之助の森蘭丸、芝雀の桔梗、歌昇の山口玄蕃。いずれも平凡。

 「馬盥」になるとさすがに吉右衛門も富十郎も盛り返すが、それでも南北の

描いた、歌舞伎劇の面白さの味は出ていない。型どころといい、芝居の仕打ち

といい、こってりした大芝居に乏しいからである。皐月の切り髪を見るところ

もあっさりしているし、花道の引込みも謀反を決意したようには見えなかった。

 芝雀の桔梗、吉之丞が園生の局。さすがに年は争われないが芝居はしっかり

している。

 吉右衛門が本領を発揮するのは「愛宕山」。一陣の風に灯が消えての「とこ

ろはここも愛宕山」からで、やっと本道へ出た。上使を斬ってからの三方をふ

み破っての大見得、幕切れの四王天に刀をふかせての笑いまで。やっと大播磨

と掛け声をかけたくなる大芝居で胸がすく。凄味といい、顔といい、初代吉右

衛門をほうふつとさせた。しかしここまで本心を引っ張っておくというのが吉

右衛門の解釈かも知れないが、それにはムリがあると私は思う。

 幸四郎の四王天但馬守、魁春の皐月、歌六の安田作兵衛、家橘の丈巴。

 次が芝翫の芸者、歌昇以下六人の鳶頭、芝雀と孝太郎の手古舞の、レビュー

もどきの「お祭」。

 最後が幸四郎の「河内山」。

 幸四郎の河内山は今月の三役中一番の出来。ことに松江侯をネチネチと理攻

めにしていくところがうまい。

 梅玉の松江候が品があって、しかも我がままに見える本役。段四郎の高木小

左衛門、門之助の宮崎数馬、錦吾の 北村 大膳、高麗蔵の浪路と揃って大舞台。

もっとも高木と大膳の芝居は二度気味合いになるところは、二人とももっと突

っ込むべきだ。黙阿弥はそう書いている。こういうところで芝居が薄味になる

のだ。

 

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