2008年7月国立劇場

歌昇 花咲く

  

 実力はありながらとかく役に恵まれぬ歌昇が、「四の切」の忠信で万丈の気

を吐いた。

 時あたかも歌舞伎座の海老蔵との「四の切」競演、あっちに花があればこっ

ちには実がある。向うが猿之助型ならば、此方は富十郎が御師匠番の純音羽屋

型。歌舞伎は型の芸術だから、その型の違い、その違いの面白さを見比べるに

はもって来いの一幕である。

 まず本物の佐藤忠信。歌昇は花道の出からして情が厚くていい。七三で大刀

を腰から抜いて前で持って腰をかがめるが、海老蔵が太刀を逆にするのと違っ

て、この方が自然でいい。本舞台にかかって座ってからも義経への慎み具合、

敬慕の表現、行儀がいい。ただこの人に限ったことではないが、最近は後の義

経に話しかけるときに振り向きすぎる。前を見ていても後ろに話していると見

せるのが歌舞伎ではないか。

 「こは存じがけなき御仰せ」は、五代目菊五郎の口跡が声色にまでなった名

ぜりふ。せりふのうまい歌昇のこと、「堀川の御所没落、ト、サア」あたり大

いに聞かせる。

 「イャ転合でない、大真実」もきっぱりしていいが、静と指さしになるとこ

ろはもっと芝居ッ気があってもいい。静に衣紋を見せるところも相応である。

 「黙して」の下緒さばきは気組み十分で、向うをグッと見込んでそのために

自然に手が動いていく具合。うまいものである。海老蔵はその役者ぶり、味わ

いで見せるのに対して、こちらは向うかける意気込み、芸で見せて面白い。

 引込みも気組みがうまい。総じて気組みのいい忠信である。

 二役狐忠信は「斬らるる覚え、かつてェーなし」辺りはそれ相当の出来であ

るが、静の「さてはそなたは狐じゃな」で、「コーン」といって消えるほか、

「官上り」の「カーン」、二度目の下手柴垣への引込みと何回かの「コーン」

が少しあざとく聞こえる。もっと清澄かつ哀感がほしい。これを含めて狐詞は

今一歩である。

 狐の物語はせりふのうまい人だから、それ相応にこなしてはいるが、哀れを

効かせようとしてか、間を取るためにテンポがおちて間延びがするのが残念。

トントンと運んで、その運びのうちに味も哀れもにじませてこそだろう。ここ

がなおれば将来この人の当り芸になる。

 もっとも印象的だったのは、義経から貰った鼓を捧げ持って、次に頬をすり

つけるところである。ここは動きが丁寧で、心がこもっていて、思わず胸が熱

くなった。こういうところが歌昇の芝居のうまさであり、よさである。

 ここと幕切れに上手の桜の木へ行く、クイッと上手をふりあおいだ顔が、ま

ことに輝いて美しい。決して男前ではない歌昇の顔が輝いたのは芸の力である。

 桜の立木へ上がってからも十分に絵になった。

 高麗蔵の静は、落ち着いて、神妙にして、この人近来の出来。種太郎は三月

の保名は失敗だったが、この役は若くもあり、時代物でもあるために、教わっ

た通りキッチリ精一杯やってサマになっている。合格。

 橘三郎、京蔵の河連夫婦は、法眼の戻りから芝居があって丁寧。さすがに品

も威あって、いい夫婦。大舞台である。

 幸太郎の駿河に宗之助の亀井。

 解説は宗之助。

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