2008年7月歌舞伎座

再演の「夜叉ヶ池」

  

 玉三郎海老蔵二人の人気で超満員の歌舞伎座。ことに今年一月新橋演舞場で

三十歳の若さで初座頭をつとめて以来、四月金丸座の「夏祭」の団七九郎兵衛

のヒットといい海老蔵の人気はエライものである。

 しかし昼夜を通して個々には二人のいいものもむろんあるが、芝居全体がま

とまっているのは、この二人が出ない「夜叉ヶ池」(玉三郎監修、石川雅士演

出)の再演であった。二年前にはまだ海のものとも山のものともわからず、と

かくダレがちであったこの芝居が今度はいい。その理由は、前半段治郎の萩原

晃、右近の山沢学円、春猿の百合の三人の芝居が、言語明晰かつ嫌味がなく自

然で、鏡花苦心の珠玉のせりふの多層的な意味、詩情がよく生きて面白いから

である。歌右衛門玉三郎はむろん芥川比呂志演出の舞台も見たが、第一場の三

人だけのやり取りがこんなに面白かったのははじめてである。

 ただ春猿の百合が座敷で立ったままでいるよりも女形だから座ったほうが景

色が変わるのにと思うところがあるほかはほとんどキズがない。ことに右近の

山沢学円はいつものせりふの口籠るようなクセが出ずに秀逸である。

 たった一つ顔ぶれが代わったのは、前回は春猿が百合と白雪姫の二役だった

が、今度は百合のみで白雪姫は笑三郎の初役。これも早替りのバタバタや白雪

姫と百合がイメージ的に混乱しないでスッキリした。

  上村 吉弥の万年姥、新車の穴隈鉱蔵、猿弥の黒和尚、欣弥の神官、勝見史郎

の百姓、鈴木章生の小学教師、その他の役にも落ちこぼれがない。アンサンブ

ルのよさである。

 かくしてこの戯曲の自然や神と人間の共生、ほとばしる白雪姫の恋情と掟、

人間の信頼と無信仰、小の虫を殺して大の虫を生かそうとする世俗の論理と暴

力が、劇全体としてきわめて現代的にうかび上がった。泉鏡花の戯曲は二十一

世紀の今なお、いや今だからこそ新鮮である。

 夜の部は、このほかに鏡花の小説の傑作「高野聖」。小説で読めば面白いが、

芝居には難しいのだろう(石川耕士、玉三郎補綴演出)。歌舞伎座の大舞台に

目を驚かす峨々たる岩山の大仕掛け、さまざまな化けもの、悪獣毒蛇の大から

くりにもかかわらず、芝居はドラマがなくて平板。

 全六場の大詰で、ようやく玉三郎のせりふ(玉三郎の女はさすがにこの長ぜ

りふがうまいが)と歌六の親仁の話で、この深山の美女が、自分の魔性を悲し

んで海老蔵の青年僧を山の峰に仰ぎ見ながら別れる哀しさが、芝居らしくなっ

た。

 海老蔵の宗朝は目もと涼しく、道心堅固な青年僧を好演。せりふにもクセが

なく、昼の部の狐忠信とは大違いの自然さ、リアルさである。

 玉三郎の女は、宗朝より年上という設定はわかるが、化粧、鬘のせいか色気

が薄く、どんな男の心もとろかす美女には見えない。どうせ深山の妖女、ウソ

でももっときれい作りにした方が説得力があるだろう。

 二人が上半身裸での湯浴みが話題であるがそれほどのこともなかった。

 歌六の親仁が秀逸。この人の語りで大詰が生きた。市蔵の薬売り、右之助の

百姓、男女蔵の猟師、右近の次郎。

 夜の部の鏡花二本立てに対して、昼の部は「千本桜」の海老蔵の忠信中心の

半通し。鳥居前、道行、御殿の三幕である。

 まず鳥居前。この場は初役の海老蔵の忠信は、恰幅のよさ、堂々たる忠信で

あるが、揚幕のうちの「待てええ、待ちやがれえェ」の第一声からしてせりふ

廻しがよくない。総体に甲高すぎて下の声が出ず、しかも随所でせりふをうか

め、また語尾が締まらないことおびただしい。「尾上家の暫」(杉贋阿弥)と

までいわれた大荒事、海老蔵にはうってつけのニンであるにもかかわらず、せ

りふの難点はいかんともしがたい。折角期待したのに残念である。ついでにい

えば「御姓名までうけたまわり」は「御姓名までたまわるは」の間違いだろう。

 もう一つ、見得のたびにうなるのも聞き苦しい。立派なニン、きれいに形が

きまっても、このうなり声一つで醜悪になる。

 段治郎の義経は生硬。終始不気嫌そうに見える。むろんこの場のいきさつ、

義経が気嫌がいいわけはないが、役柄としては暗さ一方では困る。春猿の静は

義経の顔ばかり見ているのがよくない。もとより静の情愛さもあるべきだが、

歌舞伎は時に男女が背中合わせになるところもある位だから、リアルに顔だけ

見ているのも考えものである。見ずに見て情を通わせるのが歌舞伎である。

 権十郎の弁慶、市蔵の早見藤太。

 次が道行。

 いつもの清元と違って今度は全て竹本仕立て。初代猿翁歌右衛門以来の文楽

式。幕が開くと一面桜の書割。「恋と忠義」のオキが終るとその書割を上手下

手に引いてとる。正面に桜の大樹、上手が傾斜になった丘、その丘の上に赤地

に破れ菱形の着付、打ち掛けのいつもの静御前が立ち、下手に滝車のある川の

流れを見せる。

 この丘の上にあらわれた玉三郎の静御前、さすがに大歌舞伎の立女形。今日

一日の見ものである。平舞台へおりてすぐ「見渡せば」に飛んで辺りを見回し、

あらためて上手下手を見る具合、それだけでもう全山桜の花ざかりである。つ

づいて「天井抜けて」は静一人。この里の唄を聞いてさすがに恥ずかしそうに

微笑む具合など久しぶりに玉三郎を堪能させる。ほんの形だけの万歳があって

「谷の鶯」になる。

 この場の海老蔵の狐忠信もはじめて見た。揚幕向きでセリ上がって、大きな

源氏車の衣装に車鬢の鬘もよく似合っているが、しきりに狐手を使うのと目の

ギョロつきが少しうるさい。

 清元ではないから「女雛男雛」もなくすぐ「御着長を取出し」になり、この

時、静も下手へ行き、「人こそ知らぬ西国へ」は真中で踊る。そのあとがこの

一幕の白眉「雁と燕」の手踊りになる。玉三郎海老蔵二人でこの手踊りがまこ

とに楽しい。今回の「千本桜」中第一の見ものである。ことに忠信が「可愛い

可愛い」で抱き子を見せる辺りに海老蔵の愛嬌が出る。

 最後はいつもの戦物語があって、これが終ると一度忠信は桜のかげへかくれ

て人形遣いの狐が出て静の旅仕度を整える。鳥居前があるので早見藤太は出ず、

再び忠信が出るが、猿翁や猿之助の時と違ってこれも四の切があるために引き

抜きも引込みもない。本舞台で静が上手に立身、それを忠信がうやまう形で絵

面の幕になる。

 いつもの清元版とは違って沢潟屋一流の「道行初音旅」。これはこれで面白い。

 さて大詰四の切は、海老蔵の二役本ものの忠信がいい。ことに感心したのは

「黙して」の下緒をさばいて突袖のあとの、眉を動かして向うをうかがう表情

の味わいである。普通だれでも見込むまではするが、そのあとの余韻の色気は

マネ手がない。引込みもウラオモテのあと左足を出して向うを見たあとの表情

がいい。

 花道の出にわが君恋しの情がうすいのと、義経への敬意がやはりうすいが、

まずはこの本ものの忠信が、今度の三幕中一等の出来である。

 それに反して狐忠信はよくない。

 前回よりもさらにわるくなっているのは、狐詞をただのばしたり、せりふが

うかめたいい方だったり、それでいて単調なことである。

 狐詞はのばすのではなくイキをつめるのだろう。山城少掾の「葛の葉」や綱

大夫の「四の切」を聞けばすぐわかるはずなのにどうしたことか。

 せりふばかりでなく、動きも女性的で気味が悪い。「狐の子」とはいいなが

ら、親は千年歳古る狐である。したがって源九郎狐も立派な大人の狐であり、

雌狐ではなく雄狐である。役への入り違いである。

 この幕では玉三郎の静がいいのは当然だが、思いがけなくいいのは門之助の

義経。「静はいかがいたせしぞ」のふっくらとした丸味と色気、「聞いた聞い

た」のうれいのハラ、「日かげ鞍馬に」あたりの哀愁。まことにいい出来。玉

三郎を向うに廻してヒケを取らぬ、近来のいい義経である。まずこの一幕の殊

勲賞。

 新車の駿河、猿弥の亀井、寿猿、吉弥の河連夫婦。

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