2008年2月歌舞伎座

白鸚二十七回忌 

 

 光陰矢の如し。八代目幸四郎の二十七回忌。もうそんなになるのか。

 夜の部に追善の「口上」がある。いつもの一座総出演の口上と違って、施主

長男幸四郎とその息子染五郎、次男吉右衛門、故人の義弟雀右衛門、やはり故

人の弟二代目松緑の孫四代目松緑と、たった身内五人の口上。故人白鸚にとっ

ては長兄十一代目団十郎のあとつぎ当代団十郎が居ないのがさびしいが、一家

親族のしみじみした口上、清々しくもあり、好もしくもある。

 追善狂言は昼に「忠臣蔵七段目」、夜に「熊谷陣屋」。

 「七段目」は、幸四郎の由良助、染五郎の平右衛門、芝雀のお軽と、これも

一家一門水入らず。幸四郎の由良助は、この人の芸風からどうしても実録風に

なる。お祖父さん七代目幸四郎もそうだったから是非もないか。前半の酔態、

洒落っ気のないのもそのせいである。しかし七代目と違って当代幸四郎は天性

口跡もよく、風格もあり、名調子でもあり、芝居もうまいのに、なぜか義太夫

狂言のツボを外す。たとえば釣灯篭の件り。「ようまあ」と懐紙を後ろへ廻し

ながらベッタリ座る。「吹かれていやったのう」という、これだけの動きが一

つの流れにならない。散文的で盛り上がらない。あるいはお軽に「それほどま

でにうれしいか」と聞くところ。このせりふでもう泣くのも困るが、「アノ、

嬉しそうな」と前へ出てお軽の背中をついて扇をシャンと開いてきまる。泣く

ならここで、しかもハラで泣くのだろう。この動きも段取り然としてバラバラ

でツボに嵌っていない。どうして型のツボを外すのか。こういうやり方を私は

この人のために惜しむ。幕切れの「獅子身中の虫とは己がことよな」も折角お

いしいせりふなのに義太夫味が薄く散文的である。

 染五郎の平右衛門は、お軽に勘平のことを聞かれるのをなんとか避けようと

するところが実にうまい。怜悧な、繊細な、機転の利く青年である。しかしそ

ういう人間像を描くと、義太夫狂言のなかの、この陽気な奴の役とは矛盾し、

かつ芝居が面白くない。この役が染五郎のニンにないため。染五郎の進むべき

道は平右衛門ではなく、判官勘平であり、何でも出来るというのは歌舞伎に限

っては決して美徳ではない。二人に引きずられてか、芝雀のお軽も陰気で、色

気、情が薄く平凡。友右衛門、家橘、秀調の三人侍、高麗蔵の力弥、錦吾の九

太夫、幸太郎の伴内。

 夜の「熊谷陣屋」は、幸四郎がかつて前名染五郎から八代目を襲名した記念

すべき披露狂言。あの時は歌右衛門の相模、芝翫の藤の方、松緑の義経、勘三

郎の弥陀六という大顔合わせ、新幸四郎も規範にかなった立派な熊谷であった。

それからに十数年、大分崩れている。もっともいけないのは、前半物語の前段

を全て相模を試験する新手法。これは武智鉄二の説でもあるが、熊谷が一番気

になるのは、他ならぬ女房――知らせもせずに息子を討ってしまったからであ

る。その説が間違っているとはいわないが、それを神経質にやるのは底割りに

なる。第一熊谷の豪快さを失うばかりか、時代物の強固な描線を失う。

 十六年の花道の引込みも、ドンチャンであまりキッとしない。そうなると当

然西の桟敷の方を向いて一つ廻る必然性を失う。型はどこかを直すとよほど細

心の注意を払わないとドミノ現象が起きて全体が崩壊する。

 もっとも「七段目」と違ってこちらは周囲に傑作が揃って見応えがある。

 まず芝翫の相模が、その風格の大きさ、立派さにおいて今日第一の見事さ。

「日も早西に」で出たところ、チラッと上手障子屋体を見て、そのまま下手向

きに胸に手を当てて俯いて膝をつく姿のよさ。立派この上ない。

 続いて段四郎の弥陀六がいい出来。「鉄拐ケ峰鵯越」あたり、面白くて珍し

く聞き惚れてしまった。次に梅玉の義経が申し分のない逸品。出過ぎず遠慮過

ぎず十分心情を聞かせてまことにこの役のお手本。いい義経は他にもあるが、

行儀と品位はこの人が第一である。魁春の藤の方の品位もいい。松緑の堤軍次、

錦吾の梶原、幸右衛門以下の花誉めの百姓まで、手揃いの陣屋である。

 この二本のほか、昼の「七段目」の前に、「小野道風青柳硯」の蛙場、「車

引」、「関の扉」。夜の「陣屋」の前に「対面」と「口上」、後に「鏡獅子」。

以上合計五本のなかで断然いいのは「関の扉」。今月一番の見ものである。

 吉右衛門の関兵衛がいいのは今さら言うまでもない。今日第一の関兵衛。し

かし今度とりわけていいのは、踊りこんで前半の洒脱、円やかさ、艶っぽさ、

余裕が出たことである。今までとは違って踊りの面白さを堪能させる。後半大

伴黒主になっての星繰りの怪異さ、大きさ、いかにも黒主らしい。

 福助の小町、墨染の二役が、先月の常盤、揚巻につづく大ヒット。去年のお

光以来、福助大躍進である。花道へ出たところの「翡翠の簪」のたおやかさ、

上品さ、「袖狭き」の左袖をもった清澄さ。歌右衛門の小町を思い出した。さ

すがにくどきの「立てし誓い」の歌右衛門の絶望の深さには及ばないものの今

一歩のところまで迫って大手柄である。ここを歌右衛門に近い深さでやる人は

他にいないからである。

 二役墨染は、前回の子供っぽさとは違って凄艶をきわめる。ことに私が感心

したのは二点。一つは「根ごしで植えて」あたりにこの女の人生がうかんだこ

と。もう一つは夫安貞への情熱が鮮烈なこと。今まで歌右衛門でさえあまり感

じたことがない安貞への思いが強く出ているのには驚いた。それでいて一方で

は安貞の遺書の片袖を口説の起請として扱う、その差がはっきりしている。こ

れは福助自身の努力でもあるが、同時に吉右衛門の黒主に芝居を引き出されて

いるからでもある。

 染五郎の宗貞は、今月の三役中一番の出来。これがこの人の本役である。三

人の手踊りが近来にないたのしさ。常磐津の一巴太夫一寿郎も今日他にない一

級品である。

 「青柳硯」の蛙場は、私ははじめて見た。

 ドラマとして見ればこれだけではなんのことかわからないだろう。話として

小野道風が蛙を見て悟りを開くことと、独鈷の駄六との相撲の勝負の二つしか

ないからである。しかし今度梅玉の道風、三津五郎の駄六で、この場を見てあ

らためて歌舞伎は話やドラマだけではないと思った。役者のニン、姿、体の動

きの描くもう一つのドラマが歌舞伎なのである。梅玉、三津五郎ともニンにあ

る本役。二人の身体の力で、この不思議な物語の面白さが出ている。

 たとえば池から這い上がった駄六が蛙の動きをするのは単なる洒落や趣向で

はない。蛙のイメージが、道風と駄六あるいは道風と橘逸勢との関係のなかで

重要な役割を果たしてドラマを作っている。なんで駄六が蛙のマネをするのか

などといったらば、それで歌舞伎とはお別れ。縁なき衆生は度し難し。そこの

困難を梅玉と三津五郎がうまく超克している。

 「車引」は、橋之助の松王がなかでは立派だが、松緑の梅王とともに下半身、

ことに足の扱いが不安定で、そのためにとかく腰がのびて力の表現に迫力を欠

く。松緑はやっと二本隈が顔に乗るようになって、いい顔になったのに残念。

錦之助の桜丸は、十一月の「吃又」の修理助の大出来とは違って、柔らか味、

色気うすく不出来。歌六の時平がさすがにしっかりしている。

 夜の「対面」は、富十郎の工藤が足が悪いのか、高座に座ったままの幕開き。

幕切れも座ったままで生彩を欠く。白地の衣装も珍しいが、模様が見えない。

もっとも三津五郎の五郎との「五郎エエ」「なんだエエ」「盃くりょう」「頂

ますべえ」のところは、二人とも口跡がよく調子がいいために迫力満点。昼の

蛙場と同じく役者の身体がもつ一つの物語を描く面白さ。これが歌舞伎である。

 三津五郎の五郎のハコに入ったような立派さ、面白さに対して、橋之助初役

の十郎は、意外にうるおいに欠けて物足りない。この人は工藤の人なのだろう。

歌昇の朝比奈、芝雀の虎、孝太郎の少将、市蔵、亀蔵の梶原父子、最後に東蔵

の鬼王が出て舞台を締める。

 最後の染五郎の「鏡獅子」は、女形らしい色気、あふれる情、柔らかさは欠

けるものの、歌の文句の意味はよくわかっている。この位わかっている「鏡獅

子」は近来ない。実技は問題でも理論はパス。将来に望みがある。後ジテも、

さまざまな毛のふり方をして見せているが、そんなことよりも霊獣の精気がほ

しい。再演がたのしみである。

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