2008年11月歌舞伎座

 源五兵衛の性格

 

 鶴屋南北の名作「盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)」の主人公薩摩

源五兵衛は、「薩摩」という名が示す通り、西鶴(「好色五人女」)、近松

(「薩摩歌」)以来、質実豪胆、色浅黒い立派な武士である。それほど立派な

男がフットしたことから深川芸者小万に迷う。そこにこのドラマの基本がある。

 「三五大切」初演の時に源五兵衛をつとめたのは、文化文政の実悪の名優五

代目幸四郎であった。当時六十二歳。前月には「四谷怪談」の直助権兵衛を初

演して、「三五大切」でも家主弥助と二役をつとめている。

 対する三五郎は親子ほど若い七代目団十郎。三十四歳。「四谷怪談」の民谷

伊右衛門を初演した翌月である。当然白塗りの二枚目。この対照からいっても

幸四郎の源五兵衛は薄肉だったに違いない。

 現にこの芝居が歌舞伎で復活された国立小劇場の郡司正勝演出では、初代辰

之助の源五兵衛は白塗りではなく薄肉、しかも弥助と二役をかわった。

 そういう剛直な武士だからこそ、小万と三五郎に騙されたと知っておそろし

い殺人鬼にもなるし、全ての謎がとけて赤穂義士たちが迎えに来るとなんのた

めらいもなく仇討に参加する。そこに一分の矛盾もないのは源五兵衛のなかで

男のプライドという一筋が通っているからである。

 南北の主題はまさにここにあって、南北はそういう武士のプライドを批判し

たのである。赤穂義士だの忠臣だのといったところで源五兵衛は所詮殺人者で

はないか。殺人者でも義士になれるのか、というところに南北のブラック・ユ

ーモアがあり、さらにその指摘は赤穂浪士の仇討に対する批判にもなる。源五

兵衛は多くの人を殺して、今また、新しい殺人に向う。仇討も一皮むけば殺人

にすぎない。これは社会制度によって公的に認められる殺人――戦争から死刑

に至るまでの、現象への批判である。そこが南北の新しさであり、現代性であ

る。

 しかし辰之助の復活のあとは、源五兵衛の顔が徐々に白くなり今回の仁左衛

門に至ってついに「縮屋新助」の穂積新三郎の如き優しい色男になった。仁左

衛門は、その色男が女のために一転殺人鬼になるいきさつを実に克明に掘り下

げている。むろん一つの戯曲を新しい解釈でもって演じることは否定すべきで

はない。仁左衛門のようにここまで源五兵衛の色男ぶり、たとえば(深川二軒

茶屋で三五郎に小万の前に突き出されて、小万に対するときの仁左衛門。ある

いは小万を殺すときのこの俺をだれが鬼にしたというところの仁左衛門)が徹

底すれば、これはこれで一つの解釈だということができる。

 しかし、そうなるとまことに困ることが三つある。

 第一に、源五兵衛に感情移入してしまうために怖くなくなること。第二に大

詰で義士に戻るのが不自然になること。仁左衛門のやり方では源五兵衛は戻る

ことが出来ない。そこで原作のせりふがカットされてあいまいになった。とい

うことは南北の主題である仇討批判が全て吹っ飛ぶこと。第三に源五兵衛が実

は不破数右衛門であり、小万実はお六、三五郎実は千太郎という南北のからく

りがリアリティを失うこと。

 「三五大切」が終ったあと私はロビーですれ違った若い女性二人が「バカバ

カしい芝居ねえ」とつぶやくのを聞いてガク然とした。しかしそう見えてしま

う無理があることも否定できなかったのである。

 菊五郎の三五郎は手に入っているが、もう一つ細かい粋の表現がほしい。こ

のままだと小万は三五郎よりも源五兵衛にほれそうだ。

 時蔵の小万は三度目とあってようやく大胆な色気と実直さのウラオモテが出

ていいが、これに深川芸者の仇っぽさが加わればなおいい。

 今度の「三五大切」が今までの舞台のなかで一番いいことは周囲がよく揃っ

ていること。

 なかでも傑作は歌昇の六七八右衛門。その若党らしいまめまめしさ、忠義ぶ

りから、鬼横町の幕開きにますます坊主の歌祭文を荷物を片付けながら無念の

思いで聞いている具合、源五兵衛の身替りに立つ哀れさが抜群である。この狂

言第一の当り。

 つづいて団蔵の内びん虎蔵がサラサラしていてよく、翫雀の出石宅兵衛、菊

十郎の夜番、松之助のますます坊主、時蝶の長屋女房がいきいきしている。

 田之助の了心、左団次の家主弥助、東蔵の富森ほか。

 「三五大切」のあとは藤十郎の「吉田屋」。

 仁左衛門型とはまた違った鴈治郎型が面白く、「由縁の月」を黒御簾にとら

せて懐手で襖によりかかった姿に、この人の味わいが出る。今度はことに夕霧

との間の子供を語るところに切実味がある。

 夕霧は魁春。我当の喜左衛門、秀太郎のおきさ。

 夜の部は「寺子屋」「船弁慶」「八重桐廓噺」。

 「寺子屋」は仁左衛門の松王が後半の述懐で堪能させる。ことに今度は「な

にとて松のつれなかろうぞ」という菅丞相の歌に対しての、世間の「松はつれ

ない」という風聞を受けた松王の喪失感が胸を打つ。暗澹たる思いがにじんで

いる。「内で存分ほえたでないか」と千代をたしなめる前後、ことに「コレコ

レ女房笑うとや」の女房への情愛もすぐれている。

 藤十郎の千代がよく、くどきで左袖へ紫のふくさをかけての芝居がいい。

「美しう生れたが」で小太郎への想いがふき出す。

 梅玉の源蔵、魁春の戸浪、段四郎の玄蕃。

 全段を語った綾太夫、宏太郎の床が秀逸である。

 「船弁慶」は、菊五郎の静と知盛。

 富十郎の義経、芝翫の舟長、左団次の弁慶、東蔵、歌六、団蔵の舟子という

豪華版だが、一面折角のベテラン揃いなのにいずれも手持ち無沙汰に見えて、

もったいないという気がする。ほかに企画があってもよかった。

 最後が三代目時蔵五十回忌追善の「廓噺」。もう五十回忌にもなるのかとい

う思いを禁じえない。

 時蔵の八重桐は花道の出が慌てて走って来たように見えるのがよくないが、

夫坂田蔵人との出会い、しゃべり、後半の山姥に変わる奇蹟と十分の出来。

 梅玉の煙草屋源七が切ってはめたような本役。但しいつものことながら八重

桐のしゃべりの間上手へ入ってしまうのはよくない。その間ジッとそこに居る

というのも無理な話であるが、これには、八重桐、源七、お歌の三人がからむ

演出が必要だろう。こういうところこそ新しい創造が行われるべきである。

 歌昇のお歌、錦之助の太田十郎、梅枝の沢潟姫の万屋一家に、孝太郎の白菊。

 

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