2008年1月歌舞伎座

「大蔵卿」と「助六」

 

 今さらながら古典劇は面白いと思った。何十回も見た作品でも役者の出来に

よって見るたびごとに新しい発見があるからである。

 たとえば昼の部の吉右衛門の「大蔵卿」、夜の部の団十郎の「助六」。二つ

とも二人の当り芸。しかし見れば見たでまた新しい側面がうかんでくる。

 吉右衛門の一条大蔵卿は、すっかり手に入って今回は前回とはまた違って全

体に「公家」という独特な人間像が出ている。単なる風俗としての公家ではな

い。一般社会から疎外されながら同時に社会を疎外しておのれの世界を閉じこ

もって、決して簡単には人を寄せ付けぬ特殊社会。そこに生きざるを得なかっ

た人間。この役はとかく武将か侍になりがちだが、今回の吉右衛門はその特殊

社会の人間、特殊社会を背負った人間が出ているのが面白い。なるほど一条大

蔵卿とはこういう人間かと思った。

 その性根がしっかりしているから、この人の作り阿呆と本性のかわり目が少

しもあざとくない。パッと変る面白さよりもジンワリ変って面白いのである。

こういう面白さが私には新しい発見であった。発見といえば、いつも私は大蔵

卿がなんで今さら保元平治の乱の源為義、義朝父子の滅亡を物語るのかわから

なかった。そんなことはこの場の登場人物はむろん観客にしても衆知の事実だ

からであり、直接今ここで起きている事件とは関係ないように思えるからであ

る。しかし今度はそれがよくわかった。なぜか。これこそ大蔵卿が目のあたり

にした戦争体験であり、歴史体験だからである。もともと大蔵卿は源氏の類葉。

偶然公家になった。公家社会に住んで武家の争乱を体験してはじめてこういう

人間が出来た。だからこの体験は、彼のルーツであり、それを語らなければ、

彼がいまここでしていることの意味がわかってもらえないのである。技巧にだ

け走ると、そういう性根が見えなくなる。

 今度の吉右衛門はこの物語の一つ一つの動きがあざやかをきわめる。コクが

あって面白い。最初の御簾の内の「不忠の家来の成敗なるわ」も名調子である

が、「六条の判官為義は」からのノリの面白さ、「長田が館」でパッとギバで

三段に落ちる具合。せりふ、動きともに充実している。後の件りの後六法の味

わいの面白さから、ぶっかえりの大見得の大きさまで。義太夫狂言の技巧的な

面白さが生きているのは、一方にこの人間像の深さがあるためであり、公家と

しての大蔵の人生の体験の深さが表現されているためである。

 周囲の役々も揃っている。

 福助の常盤御前は、夫としての大蔵を愛していることがよくわかった。こう

いう常盤をはじめて見た。ただ前半の有名なせりふが今一歩。梅玉の鬼次郎、

魁春のお京、吉之丞の鳴瀬は常盤御前が歌右衛門でも通用する出来。むろん段

四郎の八剣勘解由も手強くしっかりしていい出来である。

 昼の部は、この前に梅玉、染五郎の「猩々」、後に雀右衛門が女の情を見せ

る「女五右衛門」と幸四郎の「魚屋宗五郎」と団十郎の「お祭り」。

 もう一つ今月の歌舞伎座の見ものは夜の部の「助六」である。「大蔵卿」と

同様、この「助六」も周囲が適材適所、ニンにピタリと合った本役揃い。そう

なると江戸の世界がひらけてくるから不思議である。二時間たっぷりかかるこ

の長丁場で、私は今さらのようにこの芝居が主役はもとより端役に至るまで実

に面白いせりふ劇であることを痛感した。そんなことは台本を読めば知れた話

しだといわれそうだが、そうではない。舞台で生きてこそのせりふ。生きてい

るから言葉の面白さが耳に生きる。たとえば歌昇の朝顔仙平の「もさ言葉」は

台本を読んだだけでは決してわからず、歌昇の芝居をもってはじめて生きるの

である。

 団十郎の助六は、今度はさすがに安定もし余裕もあって闊達さがあるのがい

い。野放図に明るくなにも屈託のないのがこの人のよさである。せりふの高音

部がわれるのと、せりふ尻が締りのないのが欠点だが、芝居は十分。名のりの

あとのお約束の大見得がこの人一番の出来である。道一つへだてた演舞場の息

子の歌舞伎十八番に負けてはいられぬところ、親は親だけのことがある大舞台

である。

 新しい揚巻が誕生した。福助初役の揚巻である。初々しい新鮮さと、清潔な

気品が、今までの揚巻とは違う正統さ。ことにいいのは、悪態の初音で「雪」

と上を見て「墨」と下を見る風情、意休が刀に手をかけるのをうけてとっさに

死の覚悟を決める具合、花道へ行って白玉のせりふをジッと聞いている心持ち、

二度目の出で星をながめるあたり、助六をとめての二回のキマリに漂う品格と

大きさ。団十郎の助六を向うに廻して立派な歌舞伎座の立女形である。

 ただ問題は花道の出と前半のせりふ。花道の出は酔態は十分だが、時々やり

すぎで気持ちが悪そうに見えるのがよくない。美女の酔態、酒の香気がほしい。

せりふは気張りすぎて聞きづらい。ことに強くいうときに声で強くいうのが耳

立つ。声ではなくて台詞廻しで強くきかせるべき。もっと自然なしゃべり方に

すればいい。折角ニンといい芝居といい十分なのに残念である。

 梅玉初役の白酒売りが、ほどがよくて、嫌味がなくていい出来である。とか

く中途半端で面白くない十郎が多いなかで、これも本格。聞きなれたせりふで

思わず笑ってしまったのは、この人の真面目さである。江戸和事はこうでなけ

ればならない。亡き梅幸以来の十郎である。

 左団次の意休、孝太郎の白玉、段四郎のかんぺら門兵衛と口上、錦之助の福

山のかつぎ、東蔵の通人、家橘の茶屋の女房、歌江の新造、寿猿の遣り手まで。

地味ではあるがみんなニンにある本役である。歌舞伎はスター性もむろん大事

だが、それ以上にニンにある本役が大事。しかしこの役の持つ味が現代の観客

にどこまで理解されるだろうか。

 最後に芝翫の満江が出て舞台が一度に締まる。いいおっかさんである。ただ

紙子を呉服屋の畳紙につつませるのと、引込みに辺りの夜桜をながめながら入

るのは変に生々しくて疑問である。

 この「助六」の前に富十郎、芝翫の「鶴寿千歳」。今度は白髪仕立てだが、

この曲ではさすがの舞踊の名手二人も手も足も出ず、見ているこっちも唖然呆

然、口も筆も出ない。あたら人間国宝をもったいない。次に幸四郎、染五郎の

「連獅子」。

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