2007年9月歌舞伎座昼の部

当代の「熊谷陣屋」 

 

 第二回秀山祭の初日を見た。

 「龍馬がゆく―――立志篇」「熊谷陣屋」「二人汐汲」の三本立。いずれも

粒揃いだが、なかでも中心は「熊谷陣屋」である。

 吉右衛門の熊谷はこの人の当り芸の一つ。もとより悪かろうはずはないが、

今度は芝翫の義経と富十郎の弥陀六という両ベテランに囲まれて当代随一の

「熊谷陣屋」になった。

 吉右衛門七年ぶりの熊谷は、義太夫狂言らしい味わいと色気、芝居の面白さ、

芸の余裕が前回よりさらに深くなっている。

 花道の出は意外に淡泊で、数珠が刀に当る音も耳障りだが、右足を引いて体

を開いてその数珠を見る具合、懐へしまってのきまりと、ここらが義太夫物の

味であって、父白鸚が歴史劇的であったのとは違って、初代吉右衛門の義太夫

物の味の濃厚さに近づいている。初代は「ヤイ、ヤイ女」という相模とのやり

とりのせりふがうまかったが、当代もうまい。こういう細部が自然なうまさに

なったところが今度の吉右衛門の余裕であり進境である。

 物語では一つ一つのきまり鮮明なのは前回通りだが、前回と違うのはそのき

まりへの運びの自然さ滑らかさである。一つ一つが手に入って平山見得に向っ

てもり上がっていくところが滋味あふれる出来。

 二度目の出は、花道つけ際まで行って義経の声にも驚いたりせずに向き直っ

て、義経の姿を見てハッと腰をかがめる具合が行き届いている。義経の「ヤア

ヤア熊谷」でビックリする熊谷もあるし、その方が芝居っぽくもあるが、武智

鉄二流の理屈を敷衍すれば今度の吉右衛門の方が正しい。熊谷はすでに義経が

奥へ来ることを予期しているからだ。

 吉右衛門で今度改めて目にとまったのは制札の見得の直前、藤の方の「寄る

も寄られず」の時、義経を見てハッとなるところである。思わず手が緩む。そ

こへ藤の方が出るからとっさに平舞台へ下して見得になる。この義経を見てハ

ッとなるその段取り、その動き、その流れがまことに芝居を分厚くしている。

今度の熊谷の色気のもとは、こういう目立たぬ部分に行き届く余裕にある。

 「藤の方へお目にかけよ」といって、相模の「アイアイ」の間をジッとハラ

でうけているところもそうである。今までだまして来た女房への情が出ている。

仁左衛門でいけば、二人で首を持ち合うところだが、そうはしないでジッとた

えて情を見せるのが吉右衛門の特徴である。

 三度目の出になって僧形になっての幕切れ。その女房と平舞台で行き合って、

女房の視線を避けてうつむいて花道へ行くところ。「十六年は、夢だ夢だ」が

ホロリとさせるのもこの仕込みがあってこそである。

 ことに今度の幕外は、最初のドンチャンで右足を引いてキッとなり、二度目

のドンチャンではもうキッとならずに心持ちだけで右手へ目をそらして一つ廻

って本舞台を向くと思わずたまらなくなるという、その渋い行き方が、心理的

でなく、嫌味でなく、それでいて十分大芝居になって堪能させる。大芝居であ

りながら一方で渋くおさえて、たまらず笠をかぶるまで。十二分に味が出てい

る。円熟した熊谷。今が見ごろである。

 芝翫初役の義経は久しぶりで「親父待て」のせりふを自分でいう。当然なが

らこれが本文である。そうなると「爺よ満足満足」の子供に返ったような味が

生きるからおそろしい。

 対するは富十郎東京初役の弥陀六。むろん私は始めて見た。右手で左袖をつ

かんでツカツカと上手から出たイキが、キザッ気がなく透明感があってうまい。

こちらも「弥兵さん」などという入れごと一切なくて本文通り。ツケ際でちょ

っと止まり、かまわず七三まで行く。向き直って義経のせりふを受けている具

合。まことにいい弥陀六。本舞台へ来てのせりふはいささか義太夫からはなれ

て現代劇調になるが、芝居はさすがにしっかりして「頼朝、義経」といいわけ

るところから「獅子身中の虫」あたり、この老人の悔やんでも悔やみきれない

悲哀が鮮明。いつも退屈なところが生きている。梵字の襦袢もいい。熊谷への

「かたじけない」も情がこもって、この二人の大芝居に吉右衛門の熊谷で、こ

の「陣屋」は現代の歌舞伎の水準を示す舞台になった。

 福助初役の相模が引き締めてやっていいが、これだけの顔ぶれになると、さ

すがにくどきは物足りない。将来に期待したい。芝雀の藤の方、歌昇の軍次も

安定している。

 この「陣屋」をはさんで前が「龍馬がゆく」あとが「二人汐汲」である。

 「龍馬」は司馬遼太郎の小説を斉藤雅文が脚色演出した。これがなかなか面

白い。ここ数年の新作のなかで第一の出来。序幕が横須賀への間道、長州藩の

桂小五郎と龍馬が出会って肝胆相照らす。最初斬り合っていた二人が最後は酒

をくみかわし日本の将来を思って暗澹とする気味合いの幕切れまでが無理なく

しかも面白い。二幕は土佐藩内の内情を描いて龍馬が脱藩するまで。大詰が龍

馬が勝海舟を斬りに行ってかえって弟子になるまで。各場とも面白い。ただ一

つの欠点は大詰の勝と龍馬の政治的議論が長すぎること。ことに徳川幕府や山

内家のような大名の旧体制をこわすのに、天皇のもとに一致団結して国家をつ

くるという龍馬の理屈は矛盾にみちている。徳川家や山内家の政治がダメなら

天皇家のそれも同じことである。要は誰かの私有になる体制が問題なのである。

龍馬がその矛盾に気がつかないからこそ明治以後の日本―――敗戦までの日本

の運命があったというならば、それだけの視点がいる。もっともこれは原作の

問題だろう。ここがうまくいかないので幕切れの変にショウめいた夕日の中に

立つ龍馬という場面が生まれてしまった。

 染五郎の坂本龍馬は闊達なしかも柔軟かつユーモラスな、その人柄を描いて

いい。先ごろの富森助右衛門に続く大当り。歌六の勝海舟、歌昇の桂小五郎、

薪車の山田広衛がそれぞれによく、歌江の序幕の百姓女すぎが金を貰ってニッ

タリするところ、二人の斬り合いを障子の影でジッと見ていて急に「坂本クン」

といったりする具合、爆笑した。傑作である。音楽の洋楽と黒御簾音楽が不調

和。

 高麗蔵の千葉周作の甥はもうかる役なのにうまくいかないのは、性根のつか

み方が浅いからである。宗之助の池田寅之進は線が弱すぎる。

 最後が舞踊「二人汐汲」。

 在来の長唄の「汐汲」を松風村雨二人にして能の「松風」の感覚で洗いなお

した新演出。振付けは藤間勘吉郎だが玉三郎のアイデアだろう。松風が玉三郎、

村雨が福助。在来の「汐汲」とは一変して面白い踊りに仕上った。秀作。

 「松一木」のオキがあって本舞台の大ゼリで、白地の娘姿の玉三郎、赤地の

衣装の福助がせり上がる。そこで二人の手踊りから汐汲になるが、一人で踊っ

ているときは濃密な色気の人だと思っていた玉三郎が、福助と並ぶと意外に淡

泊で、幻想的で、大柄に見え、福助には小柄でもたしかな手応えと、濃密な色

気があることがわかる。いずれ劣らぬ名花二輪。その二人の女形の対照が面白

い。福助に叩き込んだ踊りのあることが鮮明である。

 玉三郎のうまいのは、烏帽子狩衣をつけての中の舞である。この中の舞は見

ものであった。それがくだけて、松風が男、村雨が女でくどきになる。この男

女のくどきには女姿の二人のラブシーンに不思議な色っぽさが出る。

 福助がうまいのは、そのあとの狩衣を使っての一人のくどき。濃密で、色っ

ぽくて、福助のこれまでにない面白さである。

 そのあと傘の段のかわりに「千鳥づくし」の踊り地。そして幕切れと、わず

か三十分余りだが、これまでの「汐汲」とは違う面白さで大いに堪能した。大

成功である。長唄は杵屋直吉勝国。ただし杵屋直吉の高音部は演歌じみて耳障

り。何とかならぬものか。

 以上三本。いずれも見応えがあって充実した佳作揃い。近頃の芝居には珍し

い落ちこぼれのない充実振りである。

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