2007年10月前進座

三軒目の「俊寛」

 

 初日の早い順に新橋演舞場、国立劇場と見て、これが今月三軒目の「俊寛」

である。亡父翫右衛門の俊寛を受け継いだ梅之助の俊寛。それを書き留めてお

きたい。前の二軒とは違う型の、異色の俊寛だからである。

 幕が開くと、正面に幕切れに使う岩組みの裏側のくぼみの小屋掛け、そこに

俊寛が頬杖をついた姿で眠っている。まず梅之助のその姿が印象的である。一

風変っているが、いかにも島に流人となって三年の俊寛らしい。

 そこで俊寛がうわ言をいう。「不遜なり清盛」以下の清盛に対する怒りは、

おとろえた俊寛とは違って闘う俊寛。そこに翫右衛門以来の俊寛の人間像があ

る。

 つづいて「夢か」があって、上手の磯辺に水を汲む。ここは十分に近松の本

文をせりふと床に生かして、俊寛がその思いを語る。「凡日数も三年余り」。

梅之助のせりふは義太夫の節廻しにつかないのが残念だが「いのちーィ待つ間

ぞ」など哀感をつくして胸をうつうまさである。梅之助の俊寛第一のよさはこ

こである。

 このあと康頼が下手岩組みにかじりついて降りてくる。それを見た俊寛が自

分の姿かと思うところは歌舞伎ではほとんどカットするが、前進座ではここが

あるのが面白い。第一に俊寛の流人生活の悲惨さ、第二にその幻覚によって俊

寛の現在の精神の位置が出るからである。しかも浄瑠璃本文では少し難解な錯

覚をことばを補足してわかりやすく、「衰え果てしか」のせりふもうまい。山

崎辰三郎の康頼。

 嵐広也の成経は花道から出る。新作がうまい広也も義太夫が体についていな

いのでぎこちない。台本にも問題があって、成経が俊寛に千鳥を引き合わせる

のに「妻の千鳥でござる」などという。

 三人が出会うところは、中央に俊寛、上手に康頼、下手に成経と三人とも立

身なのが散文的で、感情が身にしみない。 成経の千鳥の馴れ初めの物語は短く

カットするのが普通だが、前進座はカットはほんの一部で本文に近くかなり長

い。しかしこれは語りだからこそ生きる

のであって芝居ではなかなか生きにくいのも事実である。

 千鳥を呼ぶのも本文通り成経。国太郎の千鳥は一度入らずに七三で逃げかけ

て篭を成経に渡して二人ともに本舞台へ来る。俊寛の「わが娘」で千鳥が俊寛

のひざにすがりつくのも従前通りで印象的である。

 俊寛が一さし舞うのは歌舞伎の入れ事で本文にはないが、これを前進座は俊

寛ではなく康頼でやる。どうせ入れ事をやるならば俊寛の方がいい。俊寛の仕

どころになるからである。

 いよいよ船が来る。「さては帰参の船かいやい」が本文通りカットなのはい

いとしても、正面に船が出ないのはさびしい。

 丹左衛門が瀬尾と一緒に出るのも本文通り。小佐川源次郎初役の瀬尾は仕事

はともかくもガラの手強さ、立派さはいい。対する嵐圭史の丹左衛門はしっと

りと柔らかく潤いがあって一級品。国立の梅玉と互角の出来である。

 俊寛の「もしやと頼紙を」は翫右衛門以来きわめてリアルである。最初の、

「ない」が現代語調であることは幸四郎と同じだが、こちらは低く小さく、そ

のあと「ないないない」と重ねていくので幸四郎ほどは耳立たない。

 しかし紙をすかして一廻りする動きはなく、「分けへだての」も際立った動

きがなく、義太夫にも一切つかず、心持だけでのり切る。ただし「もしやと永

らえて」の竹本で両手に紙をもってキッと上手向きに瀬尾を見込んだところは、

この俊寛第二の出来。キッパリときまって俊寛の怨念が鮮明。闘う俊寛像の白

眉である。

 三人赦免と聞いての「踊りつ舞いつ」で三人で変な手ぶりで踊るのはよくな

い。踊ってもかまわないが、盆踊りみたいな手ぶりで閉口する。

 丹左衛門の俊寛赦免を聞いて瀬尾が自分は全く知らなかった、自分を出し抜

いて勝手な振る舞いだと怒るのはおかしい。のちに瀬尾自身が「二人とある二

の字の上に、能登殿が一点加えて、三人とせられし」ことを瀬尾は知っている

からである。ましてそれに対して丹左衛門が船番所の通行切手らしいものを出

して差しつけるのは「水戸黄門」の葵の印籠じみている。

 「流人は一致(一体といっている)」は、昔の型通り。これが本格である。

東屋の死は、瀬尾が自分が清盛に取り持ったのに東屋が拒否したので殺したと

いう。それを信じない俊寛が、丹左衛門に東屋自害の真相を聞く。むろん本文

にはない入れ事である。俊寛の東屋への思いを強調するのはいいが、瀬尾が自

分が取り持ったなんだというのは余計なことである。

瀬尾の引込みはむろんイトにのったりはしない。

 千鳥のくどきは、せりふで持たせて明快。彼女が死を覚悟する事情もよくわ

かるが、国太郎は肝腎の動きに曲がなく、どれも同じように見えるのは研究不

足である。両手を広げて海を泳ぐふりが前後二度、それぞれ違って見えなけれ

ばならないはずである。

 千鳥の覚悟を聞いて船から俊寛が転がり出る。瀬尾の殺しは翫右衛門が物凄

い殺気を見せたところだが、梅之助も蹴倒された時にはっきり殺意をもつのが

よくわかる。殺気も十分。

 立ち廻りは最初の俊寛立身で刀を両手で差し上げた形のほかは大したきまり

がなく、リアルにすむ。

 さて、梅之助この一幕の大出来かつ三番目の見どころは、瀬尾を斬り倒して

の関羽見得である。三座中第一の出来であるばかりでなく、この見得に関する

限り今日だれの俊寛よりも立派である。他の人と違うのは梅之助の年功にもよ

るが、芸の工夫にもよる。すなわち左膝を立ててグッとにらむ。この膝と手の

間隔である。しかもとどめを刺したあと竹本の「首押し切って立上れば」で立

ち上がって立身、右手の刀を流して左手を前に出して大きくきまる。その迫力

に俊寛のうらみ、闘争心があふれて印象的な工夫である。これでなければ関羽

見得らしくない。梅之助の芸の円熟である。

 俊寛の願いによって丹左衛門が「いかにも女を乗船させん」というのをウケ

ている芝居もうまく、これで俊寛が本望を達したというドラマの骨格がはっき

りする。梅之助、第四のいい所である。

 「地獄道」と両手をひらいて客席を見るところもうまい。鬼界ヶ島の風景眼

前である。しかし千鳥に「乗れッ」というのは現代語調である。精神は現代劇

と同じというの理屈はわかるが、表現は古典的であってこその近松だろう。

 幕切れはやはり綱引きがあって型通り。ここを盛り上げたのは、この一段ま

ことにいい出来であった竹本の泉太夫松也の功績である。

 以上梅之助の「俊寛」は、本文を尊重し、亡父翫右衛門の工夫を加え、さら

に関羽見得の如き梅之助独自の風格、年功をもって、問題があり異色であるこ

とを前提にしても三座第一の当りである。

 二番目は落語ネタの「子は鎹」。

 矢之輔の大工辰五郎、菊之丞の女房お浜、山崎辰五郎の家主で軽い世話物。

しかしもう少し演出(鈴木龍男)のテンポが早いほうがいい。矢之輔も菊之丞

もよくやっているが、第一場の菊之丞の幕切れでも第二場の矢之輔の幕切れで

も、もう一ト間早く終った方が余韻がのこるし、二人の思い入れも凝縮しただ

ろうに惜しい。ことに菊之丞は五代目芳三郎をほうふつとさせる出来だけに残

念。もっとこの人の歌舞伎が見たいと思うのは私だけだろうか。

 

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