2007年10月歌舞伎座

「奴道成寺」の面白さ 

 

 初日の夜。「奴道成寺」の花四天がからむ山づくし「祈り北山稲荷山」で、

三津五郎の狂言師が赤の枝垂れ桜にぶっかえった瞬間、客席に大きな「オーッ」

というどよめきがおこった。舞台一面に花が咲いたようなはなやかさだったか

らである。

 むろん演出がいつもと違うわけではない。三津五郎の「奴道成寺」は襲名以

来の当たり芸、その面白さ、今に始まったことでもない。にもかかわらずこの

瞬間はじめて見るような驚きが客席に満ちわたったのは、そこへ来るまでの今

度の三津五郎の舞台が一きわ引き締ってキビキビと充実した出来で、客席を堪

能させたからである。

 冒頭の白拍子の舞いの面白さ、ことに「後夜の鐘をつくときは」でスーッと

右足が出て鐘を見込んだ時の、やわらかさ、色気は、歌舞伎座の大舞台にひろ

がる見事さであった。

 男と見あらわされて常磐津の「まず春は花の本」からの一つ一つの形のよさ、

形がきれいだとか美しいというのはとかく薄っぺらなものであるが、三津五郎

のそれが厚味をもっているのは、一瞬の形に前後の動きが集約されているから

である。

 つづいてまり唄の坊主がからむ踊りのユーモラスな具合、くどきの三つ面の

三人の踊り分けのあざやかさはいうまでもなく、一幕五十分、十分に堪能させ

て、幕が閉まった時にはじつにゆたかな気分になった。昼の部の「封印切」の

八右衛門、夜の部の「牡丹燈籠」の円朝と馬子久蔵とワキに廻って来た三津五

郎が、一挙にその実力を爆発させて万丈の気を吐く出来であった。

 夜の部は、「奴道成寺」の前に仁左衛門、玉三郎の十八年ぶりの「牡丹燈

籠」。

 ご承知の通り三遊亭円朝原作の「牡丹燈籠」は、歌舞伎に三世河竹新七が五

代目菊五郎のために書いた台本があり、今度上演されているのは文学座のため

に大西信行が書いた台本である。つい先頃吉右衛門、魁春が久しぶりに上演し

たのが新七本であり、この方が歌舞伎役者の芸を見せるためにはよく出来ても

いるし、世話物の味にも富んでいる。たとえばお峰のせりふが全て歌舞伎の女

形のせりふになっている。一方大西本は、話が手っ取り早く現代式になってい

る点では現代人向きだが、歌舞伎の芸ではなく、現代劇の心理描写を見せるよ

うに書かれている。その分凄味よりもおかし味、芸よりも人間性に傾いている。

たとえばお峰のせりふは全て杉村春子がしゃべりやすいように女ことばになっ

ている。

 十八年ぶりの仁左衛門、玉三郎は、その現代的なところを前回よりははるか

にうまくつくって、これはこれで一つのドラマに仕上げた。ことに二幕目の関

口屋が傑作である。

 順序通り書くと、序幕は大川の船上から新三郎の死まで。伴蔵のうちでは仁

左衛門の伴蔵、玉三郎の女房お峰がイキの合ったところを見せる。伴蔵とお峰

が幽霊から金を取ってこれで幸せになれるといってぺったり抱き合って頬をく

っつけるあたりが、このコンビでなければ見せられぬところ。しかしお峰が幽

霊に金を貰えばいいじゃないかという辺りは、市井の貧乏な長屋に住む女のし

ぶとい心理を見せるのはやはり女優だと思わせる。杉村春子が、けなげななか

に必死の智恵を絞る女のしたたかさを見せたところだからである。

 仁左衛門の伴蔵は、大西本だと悪人ではないから凄味がないのは是非がない。

したがって序幕はさしたることはなかった。

 驚いたのは二幕目である。二幕目は幸手宿の宿はずれの非人小屋からお峰殺

しまで。この関口屋の店先から次の同じ場の夜更けが前回とは違って玉三郎の

お峰、仁左衛門の伴蔵ともに抜群の大出来である。

 新七本でいけば、お峰が久蔵から伴蔵とお国の情事を聞き出して焼餅をやく

のは、祭りの日の料理屋の座敷で、人なかでお峰に旧悪をしゃべられて困った

伴蔵が殺意を起こすところが二人の芸の見せ場になっている。型通りといえば

型通りだが、大西本はそれを二場にして、夜更けの夫婦喧嘩にしている。それ

だけ地味で心理的である。

 私が驚いたのは、その地味さを逆手にとって二人が現代のホームドラマにし

たこと。ことに玉三郎のお峰のうまいことである。まず障子を開けて出たとこ

ろのみずみずしさから、おろくをなつかしがって、今の幸手の生活の不満、心

細さ、亭主の手綱さばきの難しさから、昔の貧乏時代をなつかしむところすみ

ずみまで行き届く。久蔵を呼び込んで酒を勧めて亭主の浮気を書き出すうけの

芝居から、自分よりお国の器量がいいと聞いてムッとなる具合から幕切れの口

惜しいねえというまで、間然とするところがない。ここは杉村春子以上である。

玉三郎は結局新七本よりも大西本のほうがその芸風に合っているのかもしれな

い。そこに玉三郎の女形としての特徴と現代性があるのだろう。これは「玉三

郎論」の重要なデータである。

 しかしもっと驚くのは次の夜更け。伴蔵とお国たちの花道の芝居の間、オモ

テの話を聞くでもなく聞かぬでもなく下手の門口へ立つあたり、この女の寂し

さが実によく出ている。それから亭主を家へ入れてのジワジワと真綿で首をし

めるようなせめ方のうまさ。対する仁左衛門の伴蔵も女房に頭が上がらない小

心な亭主をうまくみせて、さながら現代のどこの家庭にもありそうな夫婦喧嘩

を見せてうまい。一度はおさまったかに見えた喧嘩がおろくのことからもう一

度再燃して大騒ぎからそれがようやくおさまるまで。おさまったお峰のガラリ

とかわったしおらしさ、心細さが、一貫してお峰の哀れな人生をうかび上がら

せて大いに盛り上がる。今回のこの芝居一番の見どころ。

 大詰の殺しも、亭主と元へ戻ったお峰の喜びを見せて殺されるまで。伴蔵が

お峰の死体を抱いての「お峰ッ」という絶叫で幕になるところまで行くと、結

局、伴蔵とお峰は愛し合いながら、欲望に引きずられてこういう結末になる主

題が鮮明である。カネに支配された哀れな人生が身にしみる。

 三津五郎の円朝は序幕で船頭から円朝にかわって高座へ向って歩き出す瞬間

の体つきに鏑木清方の画像を思い浮かばせ、二役久蔵はいささか智恵の足りな

い男ではなくお人好しの普通の人間になっているのがいい。

 ニンにぴったりなのは錦之助の源次郎、愛之助の新三郎、七之助のお露、竹

三郎の飯島平左衛門。いいもの吉弥のお国、吉之丞のお米、松之助の山本志丈、

歌女之丞のおろく。壱太郎のお竹、お梅二役が新鮮で印象に残る。

 昼の部は、藤十郎の「封印切」の忠兵衛が自由自在な円熟した芸である。こ

とに今度は今までに二枚目の和事一方ではなく、柔らか味に短気なイキを見せ、

かつは色事師と地の芸を自然にからませた具合がうまい。「梶原源太はおれか

しらん」の軽さから廻って裏屋敷の梅川との色模様で、最初は梅川が立って忠

兵衛が座ってのきまり、二度目は逆に忠兵衛が立って羽織を持ち合ってのきま

りと、カドカドは上方の味をこってり見せながら、あとはサラサラとはこぶリ

アルさが自由である。封印切りもアッサリしていてカドカドは締め、ことに引

込みはその味と「近日近日」というリアルさが渾然一体、今までとは違う深さ、

渋さである。

 時蔵の梅川は、舞台ぶりが大きくなったのは収穫。ただ封印切りの間ハラが

抜けるのはよくない。

 三津五郎初役の八右衛門は、十分突っ込んで藤十郎に対抗してはいるが、大

坂の地の味が不足するのは是非もない。

 秀太郎のおえんは「てれくサ」をほとんど素でつぶやくようにいう渋さ。む

ろん一幕中の出来である。歌六の冶右衛門がしっかりしている。

 つづいて「新口村」。藤十郎の忠兵衛はさしたることなく、時蔵の梅川は、

「借駕に日をくらし」あたりこなしに工夫が足りない。

 我当の孫右衛門は年輩相応、味もあるが芝居が平板。竹三郎の忠三女房が嫌

味がなくていい。

 この前に木下順二作、福田善之演出の「赤い陣羽織」。あとに舞踊「羽衣」。

 「赤い陣羽織」は翫雀の代官がヒット。この人にだけ民話の面白さが生きて

いる。錦之助のおやじはもう一歩突込んでもよく、孝太郎のおやじの女房は野

生的なことと表現の荒っぽさを時々取り違えている。

 亀鶴の子分が好演。奥方は吉弥。

 「羽衣」は長唄の舞踊。玉三郎の天人が前半地唄舞のようにゆったりとして

いて長唄の踊りらしくない。のちの舞いも身体から流れ出るものがないが、最

後の愛之助の漁師が上手上をながめ、玉三郎の天人が下手で下をながめて花道

へ行くところは、さすがに天人が天上へのぼるさまを思わせていい。振付藤間

勘吉郎。

 

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