秀山祭。初代吉右衛門生誕百二十年を期に今度新たに始まった初代追悼の催
し。秀山は初代の俳名である。祭主当代吉右衛門は昼夜に三役、昼に「引窓」
の南与兵衛、「寺子屋」の武部源蔵、夜に「篭釣瓶」の佐野次郎左衛門。その
いずれにおいても大きく躍進している。目一杯、手一杯突っ込むところは突っ
込んで芝居をしている。決まるところは決まり、調子を張るところは張って名
調子をきかせる一方、細かいところは丁寧に運んで大サービスである。三役い
ずれもすでに実験済みであるが、これまでとは一味も二味も違っているのは、
そのためである。
たとえば南与兵衛。吉右衛門の与兵衛はこれまで何度も見た。しかし私は感
心しなかった。どこか上ッ面でうそっぽく、身にしみない。吉右衛門は初代の
役を大抵マスターしていて、なかには初代以上のものもあるのに、この役だけ
は到底初代に及ばなかった。それが今度はじめてよくなった。まず前半女房お
早とのやりとりが、細かく、気持ちの運びの 真実味、せりふの面白さが客を
引き込む濃密さである。その上笑いを含んで引き締ってトントンと運ぶ面白さ。
つづいて、二階の濡髪を見つけてからの母とのやりとり。「ナニせがれの私へ
お頼みとは」のうまさ。母が濡髪の人相書きを売ってくれというのを聞いて、
向うを見てさては母の実子と気づいての、そのあとの思い入れがうまい。なん
ともいえぬ暗然たる気持ちが出る。「母者人、あなた」といって「なぜものを
お隠しなされます」。そこには継子の自分より実子を愛する母への複雑な思い
がある。せりふがハラの底から出るからおのずと名調子になる。
「丸腰なれば」とかわるところもうまい。こういうところが生きたのは、前
半のお早との喧嘩の運びが生きているからであり、町人与兵衛と南方十次兵衛
の両方の人間性をうまく描いてあるからである。これでこそカンどころが生き
てくる。私が今度の吉右衛門はカンどころで目一杯大きく突っ込んでいるとい
うのは、こういう事情をいう。メリハリ、濃淡、芝居が立体的になって、細か
いしぐさが立ってくる。たとえば幕切れの濡髪を花道へ送って、格子戸をソッ
と閉めて行くところの手、顔つき、姿、無類の味である。
ただ一箇所問題なのは、幕切れに家の裏から腕組みでなにか考えながら出て
くるところ。不自然に見える。与兵衛の関心は家の中にこそあるべきで、何を
考えているのか、私には分からなかった。
周囲も吉右衛門につられ、かつ吉右衛門を支えている。まず富十郎の濡髪。
前半「喜ぶ母の」姿から目をはなしてジッとうつむいて母のいうことを聞いて
いるハラがうまく、「おまめでお暮らしなされませ」の情愛したたるばかり。
後半は与兵衛と二人対照的な男の明暗――母に愛された実子と愛されなかった
継子の対照があざやかである。
芝雀のお早は裾を引く型で、「オオ、笑止」を下手向きになるあたりに残ん
の色気があって佳作。なにより前半吉右衛門の与兵衛によく相手になって芝居
を盛り上げたのは大手柄。
吉之丞のお幸、歌昇の平岡丹平、信二郎の三原伝造と揃っている。
昼の、吉右衛門二役の武部源蔵はすでに定評のある当り芸。花道七三で腕組
をほどいて門口へ来る辺りから、「思わずふりあおのき」のうまさ、戸浪との
「せまじきものは宮仕え」の芝居まで。これも突込むところは十分突込んで円
熟している。ことに後半松王との大見得はシテの松王へ譲りながら十分に堪能
させる。小太郎の最後を語る「にっこりと笑うて」がうまく、いろは送りのガ
ッと合掌する姿がこの男が一生背負って生きていかなければならない罪を思わ
せて印象的であった。
松王は幸四郎。声量といい、ニンといい立派な松王だが、惜しいかな芝居の
仕方が義太夫狂言のきまった型から方角がそれている。たとえば首実検。「出
かした」と首にいって「源蔵」と言いかえるところがごちゃごちゃしている上
に、「よく討った」とあげた右手をヒラヒラさせる具合など、とかく描線がゆ
らぐ。蓋をした首桶に手を置いてジッとしている間の父の悲哀がうまいが、そ
の人間的な描写と義太夫狂言の手法のバランスが取れていない。
ことに泣き笑いの「けな気な奴」からの言葉の切り方、桜丸への思い、小太
郎への思いが説明的である。小太郎の死を思ってつい桜丸と対照させるのが本
文で、桜丸を悼む心のかげに小太郎への想いがあるべきだろう。
芝翫の千代が古風で、スケールが大きい。
「小太郎はいずれにおります」と下手向きにうつむいた姿に悲しみが手に取
るようであり、奥に居ると聞いてさてはまだ生きているかと一縷の希望を持ち、
「小太郎や」の背中に不安を見せ、源蔵に切りかけられて上手向きになっての
空笑いで、ああやっぱりという絶望がうかぶ具合。千代の気持ちが手に取るよ
うにわかるのは偉いものである。説明ではなく、心持ちが生きている。
いろは送りで焼香しながら、乳をおさえて倒れる姿が印象的だった。
段四郎の玄蕃、魁春の戸浪、福助の園生の前。
昼の部は、「引窓」の前に「車引」、後に「六歌仙」の小町業平と文屋があ
る。
この「車引」が意外の上出来である。
ことに幕開きの松緑の梅王丸、亀治郎の桜丸がいい。
松緑は言語明晰、よくせりふが通る上に、故人二代目松緑を思い出させる上
出来。編笠をとったところの顔も立派、勢いといい、イキといい引き締まって
いる。後半の肌をぬいでの見得が立派、これで時々カンの声がつづかずについ
一本調子になる欠点を克服すれば立派な梅王丸である。
対する亀治郎の桜丸もいい。これも前半せりふのやわらかさ、せりふ廻しの
明晰さで、思わず長ぜりふに聞きほれた。後半も動きが柔らかで肌脱ぎになる
ところのお約束の見得でスッーと出す左足の動きの色気がいい。
今日の第一線クラスの「車引」の水っぽさにくらべれば、断然新鮮かつ若く
て面白い。これでいいのだと思っている幹部たちのそれと違って無心に芸に熱
中しているからである。
染五郎の松王丸は、二人に比べてニンの上で損をしている。体に踊りがない
ために体、動きに緊密さがなく、せりふも苦しい。しかしこれは当人のせいで
はないだろう。
段四郎の時平、錦吾の金棒引。
「六歌仙」は最初の雀右衛門の小町が美しい。見る前はさぞ貫禄十分で梅玉
の業平を圧倒する立派さだろうと思いのほか、楚々として梅玉と釣り合いが取
れているのはさすがである。正面の二重をとったのは、年齢の上に緋の長袴、
当然のことだろう。幕切れ上手へ行きかけて、業平に桧扇の房をとられてのあ
たり、情愛こぼれるばかりである。
梅玉の業平が本役。
染五郎の「文屋」はフリから踊りになる形容のイキ、フリそのものの風情、
意味が不明瞭である。あの手ぶりでは浅間山は大噴火だろう。
夜の部、吉右衛門の三役目は佐野次郎左衛門。何度も見た次郎左衛門だが、
今度格別なのは四箇所。まず第一に見染めで八ツ橋にぶつかって顔を見てトン
トンと下がってきまった形がきっぱりしていること。見染めはやりすぎかとい
う際どい線まで突っ込んでの大芝居。観客大喜びである。
第二に、兵庫屋二階の引き付けで栄之丞を見た丈助がいい男だというのを聞
いて思わず煙管をしまいながら立ち上がるところのうまさが無類。しかも深い
味が出て来た。単なる心理描写ではなく歌舞伎の芝居になっていて、しかもこ
の男のコンプレックスが鮮明である。
第三に愛想づかしの八ツ橋とのやりとり。ことに「そりやぁおいらん、袖な
からうぜ」の聞かせどころ。言葉の切り方、その間、決して流麗に流れるので
はなく、出直し、くりかえし、つみ重ね、たたみ込む具合、その多面性は、次
郎左衛門の激情そのままに、岩にぶつかり、瀬に流れ、滔々として思わず知ら
ず引き込まれてしまった。しかも一方ではあきらかに八ツ橋と出来ている男の
愛情溢れて、胸をうつ。この多面性は初代にはなかったものであり、吉右衛門
自身にもこれまでなかった、今度の収穫である。
第四に、殺しの凄味にゾッとした。今度の進歩は、その凄味を幕切れで「篭
釣瓶は」と刀を見込んで「よく切れるなア」と歌舞伎の芸にしていることであ
る。
以上四点。長足の進歩である。
福助の八ツ橋も、歌右衛門直伝とあっていい。愛想づかしはいささか甲高さ
に流れるところがあるが、それでも歌右衛門の面影を見る思いがした。しかし
福助の八ツ橋は歌右衛門と違ってまことにあわれなところがある。たとえば廊
下へ出ての引っ込みで思わずうつむくところに次郎左衛門への真情があふれて
いる。
幸四郎が立花屋長兵衛を付き合って、さすがに舞台が大きくなった。梅玉の
栄之丞、東蔵の立花屋女房、芝雀の九重、歌昇の治六、歌江のお針、鉄之助の
遣り手。
歌江と鉄之助がさすがにこの芝居の世界の人である。
この前に「菊畑」。後に「鬼揃紅葉狩」。
「菊畑」は染五郎の虎蔵がニンといい、調子といい、今月染五郎昼夜四役中
一番の出来だが、体に踊りがないために体に色気がないのが難点である。この
人が踊りをみっちり修行したらばどれほど出世することか、残念である。
幸四郎の智恵内はニンは立派だが、活達な明るさが足りず陰気臭い。左団次
の鬼一、歌六の湛海、芝雀の皆鶴姫。三人ともに性根が通っているのはいいが、
「菊畑」全体としては味が薄い。これも時代のせいか。
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