2006年6月歌舞伎座夜の部

変わった「暗闇の丑松」

      

 幸四郎の「暗闇の丑松」を見ていて、これは私がこれまで見て来た「暗闇の

丑松」という芝居ではないと思った。

 むろん私がこれまで見て来た「暗闇の丑松」は長谷川伸の戯曲を六代目菊五

郎が演出したものであって、それ以後の松緑勘三郎にしろ、あるいは富十郎、

猿之助、菊五郎にしろ六代目演出によっている。なかでは猿之助のそれが変っ

ているといえるが、それでも基本はあくまで六代目である。

 ところが今度の幸四郎は、六代目演出の芝居のトーンとは違うのである。ど

こが違うか。六代目演出は江戸市井の人間をリアルに描いている。そのリアル

さが身上である。それがここにはない。たとえば序幕の鳥越の二階の幕切れ、

屋根の上の立った丑松が、お米を抱いて右手で下を指すところ。幸四郎は一度

ポンと膝に手を置いて大きくきまる。そしておずおずと指で何かを指す。その

あと二人の後姿を奥のほうへかなり長く見せて幕になる。六代目演出はこうい

う誇張した演技をもっとも避けて、追詰められた二人の緊迫感を出した。それ

が六代目のリアリティだった。

 むろん私は新演出反対ではない。六代目演出が全てだとも思っていない。し

かし新しい演出がされるときには次のような条件が守られる必要がある。戯曲

の意図に矛盾しないこと。その上で新しい視点が確立され、その視点が論理的

に一貫して全体像をつくり十分説得力をもつこと。演出者の責任が明示される

こと。以上の三点が最低必要条件である。

 今度のようになんとなく、無責任に、なし崩しに、私がこれは別な芝居だと

思うような舞台になってしまうことが一番問題である。

 新しく作るならば、徹底的に戯曲を読み直してきちんと作り変えるだけのこ

とをしてもらいたい。そうしないと実は戯曲そのものの設定が危なくなるから

である。

 たとえば二幕目の板橋宿で丑松がお米に再会して死ぬ場を見ていて、私は戯

曲の設定そのものが実にウソッぽいと思った。今まで一度もそんなことを感じ

たことがなかったのにである。板橋に何百人飯盛女がいるか知らないが、丑松

とお米が出会うのは偶然だろう。それが苛酷な運命にみえるか、作者のご都合

主義に見えるかは、それまでの芝居の運び、緊密なタッチ、全体の感覚による

のだ。そこがポイントである。

 はじめてこの芝居を見た人が、「暗闇の丑松」とはこんなものだと思われる

ことを私は悲しむ。

 もっとも私はたった一人、幸右衛門の板橋の使いに感心した。この役は故人

照蔵の当り芸だった。今でも正面の格子戸の向こうに立つ照蔵の姿が忘れられ

ない。幸右衛門は下手の入り口から舞台端へ出るが、そこにはまさに長谷川伸

の描いた江戸市井の人間の生活の実感があり、夜だちをして来たのに、このあ

しらいかという思いがよく出ている。しかしいくら幸右衛門一人ががんばって

も舞台全体の実質は変えられない。衆寡敵せず。この状況を変えるのにはどう

しても演出家が必要である。

 このあと、菊五郎、仁左衛門の「身替座禅」と、梅玉、魁春、時蔵の「二人

夕霧」。

 「二人夕霧」でも私は演出家の必要を感じざるを得なかった。戸部銀作の台

本では、今日の観客に通じにくいと思われるからである。

 まず傾城買いということが分からないだろう。それを稽古するというも同じ。

たとえそれが分かったとして、死んだはずの夕霧が生きていること、二人の夕

霧が和解すること―――つまりドラマのもっとも大事なところがよく分からな

い。芝居と竹本のかけ合いや、ちょっとした演出の不注意、演技自体の起伏の

なさが芝居を分からなくしている。

 ただなんのことか分からずに呆然としている客席を見渡して、私は暗然とし

た。ほんの一行のせりふ、演出のポイントのかけ方でもっと分かりやすくなる

のに残念である。

 魁春初役の先の夕霧が堂々たる出来だし、東蔵のおきさがこれもいい出来だ

が、それだけではこの大勢を挽回できない。

 さんざんいわれつづけてきたことだが、「丑松」にしても「二人夕霧」にし

ても、演出家の必要はもはや焦眉の急である。

 

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