六月の歌舞伎鑑賞教室は、「国性爺合戦」の楼門と甘輝館の二幕。松緑の和
藤内、芝雀の錦祥女、信二郎の甘輝、右之助の母、秀調の老一官と全員初役で
ある。どうなることかと思ったが、二幕目第一場の甘輝館が意外な上出来。近
松の名文、名趣向をそのまま読むが可き感動があって、さんざん読み慣れ見慣
れたこの一場がはじめて見る芝居のように新鮮だった。ウソだと思う人はご自
分の目で確かめられることをお勧めする。
伍常軍甘輝は、韃靼王の居城から出世して戻ってくる。むろん錦祥女も夫の
出世を喜ぶ。しかしこの喜びが実は夫婦にとって大きな運命の罠であったこと
がすぐにわかる。
錦祥女の義理の母が現れて甘輝に和藤内への味方を頼む。甘輝は仰天する。
近松は「大きに驚き」と書いている。この驚きは、日本の和藤内がわが妻の義
弟と知ったからだけではい。昨日、甘輝は韃靼王の御前で、その和藤内討伐の
司令官として数千人の臣下のなかから抜擢されたからである。甘輝は和藤内が
義弟とは知らずに王はもとより数千人の前で和藤内討伐を誓った。それがわが
城へ帰ってみれば、この母の頼み。とりあえず甘輝は返事を延ばそうとする。
しかし母が承知しない。そこでやむなく甘輝は女房を殺そうとする。女の縁に
ひかされて和藤内に味方しては、王をはじめ数千人の眼前で誓った言葉が反古
になるからである。これは単なる裏切りではなく、軍人としての名誉の問題で
ある。
むろん母は甘輝を止める。「止むる母の詞には慈悲心こもり、殺す夫の剣の
先には忠孝こもる」。名文句である。この名文句を聞くから錦祥女は死ぬ気に
なる。芝居だから人を殺すのは何でもないだろうと思うかも知れないが、人一
人の命。人が死ぬにはそれ相応の理屈が要る。それを近松はたった一句。こう
いわれたらば錦祥女は死ぬしかない。
しかも彼女は「一生に親知らず、ついに一度の孝行なく」どうして父母への
御恩を返す方法もない。この境遇こそ彼女の死ぬもう一つの理由である。昨日
会ったばかりの義理の母は命を賭して自分をかばってくれた。母か甘輝に向か
っての「今までとは違うて親のある大事の娘」という言葉は彼女の心を貫いた。
彼女にとってはじめて知る親の恩、親の愛だったからである。彼女が死のうと
するのは義理などではない。生まれてはじめての親の愛情に報いたいからなの
である。
一方母は、昨日出会ったばかりだから、今まで錦祥女にはなんの愛情もかけ
たことがなかった。だからこそ命を賭してかばう。まして継母。実の母よりも
母を演じなければならない。しかも彼女は「母」の日本代表。老母の肩には一
国の運命がかかっている。そのつらさ、その悲しさは次の一句に鮮明である。
「屍は異国に晒すとも、魂は日本に導き給え」。運命のために異国に死ぬ人間
の、この悲痛な叫びは、今も昔も変らぬものだろう。
今度ほどこの場の戯曲に巧妙さ、奥深さがわかったことはない。それはひと
えに信二郎、右之助、芝雀が、なんとか高校生にもわかるようにと、初心にか
えって力演しているためである。高校生たちの客席はいつもと違って水を打っ
たようであった。
三人のなかでは右之助の母が一番上出来である。情愛、柔らかさ、体の動き
の面白さには欠けるが、骨っぽく手強く、芝居がキッカリと締まってドラマの
骨格を鮮明にしている。
芝雀の錦祥女も幕開きの夫甘輝へのせりふが報告なのか、嘆きなのかわから
ぬのは困るが、それ以外はあわれでよく、信二郎の甘輝は大きく立派、ハラも
あって、声が少し甲高い点を除けば上出来である。
以上三人。この第二幕第一場が上出来。
この甘輝館の前に楼門、後に紅流し、もとの館があるが、そっちは大したこ
とはない。
まず楼門から。芝雀の錦祥女は、初日のせいか意外に心持ちが単調。さては
父かという思い入れも浅くて客席に届かず、後半のノリ地も「この城のめぐり
に掘ったる堀の水上は」で右手の唐扇で浪のうねりを見せ、「紅をといて流す
べし」で同じ動きを見せるが、この二つのしぐさが全く同じにしか見えないの
は心持ちが足りないからだ。前は客観的な自然描写、後は絶望と不安の入り交
じった彼女自身の気持ち。この区別がなければならない。
秀調の老一官は無事。だれでもやることだが錦祥女に向かって顔を見せるの
に舞台中央後ろ向きになるのは本当はおかしい。舞台上手表向きで上下の姿が
歌舞伎の文法ではないか。
松緑の和藤内はいかにもはまり役。紅流しの三本隈はまだ顔から浮いている
が、この場の一本隈はピタリときまって、飛び六法もきりっとしていい。
甘輝館の前半が終わって、屋体を上手へ引いて正面奥へ石橋がせり上がって
舞台端へつきだして、紅流しになる。この石橋のセリが奥すぎてせり上がった
所が貧弱。
松緑の和藤内は前場とは違って不出来。「南無三紅が流れた」もなにをいっ
ているかわからず。立廻り、六法ともに腰高で、弱々しい。荒事になっていな
い。
紅流しが終わるともとの甘輝館。
この場は全員一通り。ドラマと同時に形容が物を言う場だからで、さすがに
信二郎も見伊達がなくなる。かつて梅幸の錦祥女と多賀之丞の母が大いに泣か
せたこの場も、芝雀と右之助ではそこまではいかなかった。
和藤内、甘輝二人が着替えの間、和藤内の刀を唐人たちがもてあつかう笑劇
は、もういい加減やめたらどうだろうか。他にチエはないものだろうか。
「国性爺」の前に亀三郎の「歌舞伎のみかた」。歌舞伎の歌は音楽、舞は踊
り、伎は演技だの、歌舞伎は日本のミュージカルのというのは、国立劇場だけ
に問題がある。もっともこれは亀三郎の罪ではないだろうが。
戻る