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2006年5月新橋演舞場 吉右衛門三面鏡 吉右衛門奮闘公演である。 昼の部の「夏祭」の団七の男伊達、夜の部の「石川五右衛門」の実悪、「紅 長」の三枚目と吉右衛門という当代歌舞伎の立役者の魅力がよくわかる公演で ある。 三役中では「夏祭」の団七がすぐれている。序幕住吉鳥居前は、牢払いの役 人が引込んでからの玉島兵太夫への感謝、気持ちの真実が出る。これあってこ そ磯之丞琴浦をかばっての義平次殺しの悲劇がよくわかる。 総じて吉右衛門のよさは、この団七にしろ五右衛門にしろ紅長にしろ、芝居 の筋が通ってよくわかることである。玉島兵太夫の恩義がなければ団七の悲劇 は起きようがない。そこをうまく見せて、のちの一寸徳兵衛との出会いにもっ ていく。一見なんでもないように見えるが、芝居が粒立っている面白さである。 現に私は、この団七を見ていて男伊達というものの本質がはじめてわかった 気がした。男が立つの立たぬのと、立派な男がいうから意味がある。ただのチ ンピラがいうのでは実体のないただの強がりにすぎず、命を賭ける実感も出な い。吉右衛門だとそこに男の生きる本分があると同時に、その反面、そんなこ とに命を賭けてしまう愚劣さも出る。この二面性は団七役者の恰幅から出る。 ニンがおのずから芝居の本質を示すのである。 二幕目三婦内は、義平次を追っかけての「長町さして」の引込みが、両裾を 両手に持って腰を落とした形があざやかをきわめる。 大詰長町裏になるとこの団七は俄然光彩を放つ。まず義平次への芝居がうま い。ここでも 次と団七か衝突するのはこれが二回目。だから抜き差しならぬ憎悪が生まれ、 それを金でつり、つられて決定的になる。ここは歌六の義平次と相もちである が、このいきさつが息をのむ面白さであった。 殺しはまず刀を抜きかけて足を組んだまま飛び上がって下へ落ちる。義平次 が釣瓶につかまっての見得があざやか。つづいてお約束の見得のカドカドが、 線が太くて、大きい。その迫力さながら極彩色である。まことに見ごたえがあ る。 周囲の役々では、歌六の三河屋義平次が傑作。 吉右衛門と芸の上で正面から四つに組んでいる。「忠臣蔵」の師直に成り兼 ねまじき大芝居で、この芸の火花が吉右衛門を引き立てている。とかく調法に 使われ勝ちだったこの人の実力を示して当り芸になった。 段四郎の三婦、芝雀のお梶がよく、吉之丞の三婦の女房おつぎが老巧。信二 郎の一寸徳兵衛は精一杯やっているが、吉右衛門に対して見劣りするのは仕方 がない。格が違う。 よくないのは福助のお辰である。異風な女というところを出そうとするため に、とかくせりふが口先だけで耳立つ。「ヘェヘェ」という言い方もいやだが、 ことに「立て下んせ、もし、三婦さん」を「サブサァー」と浮かめて言うのは 以ての外。ここは三婦に押して迫るのだから、キッチリ言うのが大事ではない だろうか。先月の「伊勢音頭」の万野同様、ニンにないのである。 昼の部は、「夏祭」の前に歌昇、芝雀らの、宇野信夫の「ひと夜」と、歌六、 染五郎、亀治郎の舞踊「式三番」。 「ひと夜」は斉藤雅文演出だが、ほとんどの登場人物に生活の実感がなく、 それらしい人間に見えないので、つまらない一幕になった。 「式三番」は染五郎、亀治郎二人が元気いっぱい。二人の振りがピッタリと は揃わず、その揃わぬところが面白くもあれば、つまらなくもある。二人の芸 風の違い、個性の違いがはっきり出ている。同じ方角を見るのも、高低、角度、 気持ちが違うのは、二人の学校が違うからだ。 夜の部の「石川五右衛門」は、先年吉右衛門が復活した「葛籠抜け」に「山 門」をつけて物語を通している。したがって五右衛門はただ次右衛門が育てた 子友市というだけではなく、大内義隆の落胤になっている。山門で五右衛門が、 自分は落胤でも大名の子、百姓出身の此下東吉とは一つにならぬというのが面 白い。 前半、にせ勅使が露顕するところは、東吉に友市といわれていきなり五右衛 門が告白してしまうのは残念。見あらわしの大芝居が見たかったが、これはつ なぎ合わせの台本ゆえ仕方がないか。 「葛籠抜け」の宙乗りから「山門」になって、吉右衛門がスケールの大きい 実悪ぶりを発揮する。ことに「山門」は立派で錦絵、今日の五右衛門である。 ことにどてらを脱ぎかけた大見得、幕切れ見得が立派である。 対する東吉は、染五郎精一杯の力演で、それだけ見ればいいが、吉右衛門に 対すると貫禄が違うのは、昼の信二郎の一寸徳兵衛と同じで是非もない。 段四郎の次右衛門は、白塗りすぎるが、この次右衛門と芝雀の小冬で「壬生 村」が見たかった。 次が福助の襲名以来、東京では十四年ぶりの「娘道成寺」。道行問答はカッ トだが、乱拍子急の舞が入って鐘入りまで。初演の歌右衛門指導の緊張感が失 われて、大分自己流になっているが、それでも争われぬのは歌右衛門の香りが 随所に残っていること。横顔が似るのは血筋だろうが、女形の心持で運んでい く、身体のリズム、手ぶりの似方は血筋というよりも、歌右衛門の薫陶の賜物 である。先月終わった歌右衛門五年祭、ここで歌右衛門の面影を見ようとは思 いもかけなかった。 最後が「紅長」。吉右衛門の紅長は芝居がうまい上に、テレビのギャグを使 って大サービス。観客大喜びである。初代の濃密な愛嬌とは違って観客を喜ば せる今風の芝居のうまさである。ただ一つ一つのギャグが単発に終わっている のはもったいない。たとえばお七が吉三をくどくところも、二人の背後からの 紅長の芝居とお七の芝居がもっとからめば喜劇として面白くなるのに惜しい。 ここでも芝居の筋がよくわかる。木曽義仲の軍勢が板橋宿まで迫っている上、 範頼公がお七を妾に差し出せといっている。大変な危機である。ところがそれ でも紅長は娘たちの機嫌をとって商売の紅を売ろうとしている。そういう滑稽 な状況が吉右衛門の芝居でよくわかる。 歌六の釜屋武兵衛、芝雀のお七の母、染五郎の吉三、亀治郎のお七、信二郎 の長沼六郎。 大切に亀治郎の「櫓のお七」がつく。先月の金丸座の「かさね」といい、今 月のお七といい、亀治郎の女ッぷりが近頃大いにあがって、立派な女形になっ たのは目出度い。このお七の人形ぶりも、玉三郎や時蔵とはまた違って人形の 不自由な動きを誇張してみせる面白さがこの人の芸風にもあって、かえって色 気が出た。芸が上がれば器量も上がる。きれいに見えるのは芸の力である。
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