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2006年4月金丸座 海老蔵初役の勘平 今まで見たことがない勘平であった。 運命の魔手に翻弄される、薄幸の若き貴公子ともいうべきか。むろんやって いることは菊五郎型で、他の人たちとさして違うわけではない。しかし微細な 部分が違い、感覚が違う。その結果、今までとは違う勘平の人間像が描かれて いる。そこが問題でもあり、面白くもある。 まず五段目、鉄砲渡しから。「晴れ間をここに」で笠をとると、まことにキ レイな勘平があらわれる。目のさめる美しさだが、いささか子供っぽい。総じ て五段目、六段目の前半は若さと柔らかさを強調するせいか、前髪立ちの若衆 のようにウブな勘平で線が細い。とても短い間におかるといちゃついて、仕事 をしくじるような大人には見えない。勘平は「三十になるやならず」。戯曲を 中心に考えればもっと大人だろう。江戸時代の三十歳は、現代と違って少年で はない。 つづいて二つ玉。花道の出から鉄砲をかまえての三段のキマリ、初役だから 手順をこなすのが精一杯。この形の味が出るのはまだ先の話である。しかし感 心したのは火縄を低く振ること。とかくカッコよく上で振る人が多いが、猪は 地面に倒れていると思うのだから下が正しい。海老蔵がそこまで考えたのはさ すがで、芝居をリアルに運ぶのは大賛成である。しかしその結果、花道へ行っ て思わず「あの金を」とつぶやくのは行きすぎだろう。気持ちを無言で示すと ころがこの芸のミソだからである。手が「半握り」でないのも気になる。過ぎ たるは及ばざるが如しか。そういえば、同じような身体のふるえ方にしても、 人を殺したと知った驚愕と金を盗む後ろめたさでは心持が違うはずだが、ここ らが混同されている。ただ一ヶ所、財布を袂にいれて上手向きにうつむいてチ ョッときまって左目を引く形は実に印象的だった。 しかし総体に五段目はまだ十分ではない。六段目になってぐっと見直すが、 その花道の出はまだ軽薄である。いくら金を千崎に渡して機嫌がいいといって も前幕の引っ込みの暗さは底に残っているべきだろう。つまりリアルな芝居の 運びと義太夫狂言の芝居のバランスがむずかしい。せりふ廻しがとかく空ッ世 話になってはては現代調になるのも耳立つ。 しかし海老蔵でいいのはこの後である。まず紋服に着替えて小刀を持った時 のおかるを見て思い入れの情愛である。これはたしかに「落人」をやった勘平 の色気になっているのは大手柄。いささか前髪風の幼さはあっても、これが海 老蔵の勘平の特色が出ている。 私が冒頭にふれた薄幸の貴公子の運命悲劇というのはここらからはじまる。 しかし勘平は貴公子でもなんでもない。たかが塩冶家で百五十石の侍であり、 いまは狩人にすぎない。それがいかにも貴公子に見えるところが海老蔵の特色 である。そう見えるのは、このいかにも儚な気な青年が運命にとらえられて死 ぬほかないドラマが鮮明だからである。そこに海老蔵の独自の勘平の人間像が ある。いかにも悲愁に閉ざされた、不幸で、哀れな青年である。こういう勘平 を私は見たことがなかった。 例の懐中の財布を見てのきまりは、両方を見比べるのに忙しく、肝腎のキマ リの形が流れて衝撃が薄い。 しかしそのあとの上手向きでおかるの芝居をジッとうけている間がいい。こ の青年は、自分で自分を追い込んでいる。もうどこにも逃げ場はない。いずれ にせよ勘平は追い込まれていくのだが、海老蔵だとどうしようもないという無 力感が強く出る。うつむいた横顔にその絶望が出る。はじめから「いっそうち あけ」たり出来ないのだ。 おかやの芝居の間もそうである。その悩み、哀愁、色気がいい。こういう感 覚が、この男の不思議な実感として生きている。 ことに私がそのことを感じたのは三ヶ所。一ヶ所は二人侍の声を聞いて「し ばらく」といってその場に打ち捨てられた財布に目が行って、慌てて袂にしま って片膝を立て、その袂を突き袖にきまる形の情感である。 一ヶ所は刀身で髪をなおして一呼吸あってトンと刀を杖に立ち上がるところ。 この一呼吸は全身で勇気を奮い起こして立つ間である。運命に流され続けてい る男がなんとかふりしぼる覚悟。所詮はそれもムダなのだが。 最後の一ヶ所は、刀を突っ込む前に天を振り仰ぐところ。菊五郎型にこんな 型があったかと一瞬私は思った。運命に従わざるを得ない、天命に散る青年の 悲哀がこの一瞬に色濃く舞台を覆った。他の人にない感覚である。 以上三ヶ所。前半のおかる、おかやとの芝居を通して、最後の天を仰ぐ絶望 まで。海老蔵のユニークな勘平像である。 むろんまだ問題はあるが、新しい人間像の勘平には違いない。 亀治郎のおかるが神妙につとめていい。 家橘の原郷右衛門、秀調の千崎。右之助のお才は愛嬌に乏しい。新蔵の源六 は芝居が沈む。よかろうと思った升寿のおかやが手強すぎて情がない。市蔵の 定九郎は化粧に工夫があるが、芝居はよくない。濡れた髪や袂をしぼるしぐさ が客席からはそれらしく見えないのである。 昼の部は、このあと三津五郎の「浅妻船」と「まかしょ」。「浅妻船」は品 よく踊ってさすがにうまいが、それよりも「まかしょ」に大いに感心した。ゲ スな味を見せて品格があるのは芸の格。面白く踊って哀愁に富む名品である。 私は始めてこの踊りを面白いと思った。 さて夜の部は「稲妻草紙」の山三浪宅と鞘当の二幕と「かさね」という鶴屋 南北特集。 三津五郎の名古屋山三は、前回よりも和事の輪郭が鮮明になって、顔、芸格 ともにふくよかになった。亀治郎のお国と葛城の二役。お国は可愛らしさは十 分だが、山三に惚れている情愛、主人に仕える身分差が薄い。下女の恋という ところが南北の趣向だからこの二つは是非ともほしいところである。二役葛城 は山三と二人っきりになって昔の女房岩橋に帰るところがうまい。 秀調の又平は悪がきいて好演。 右之助のやり手、市蔵の家主がいい。しかし総じて南北の味わいに乏しく、 せりふ廻し、芝居ともに薄味である。 たとえば葛城の出に、例のぬかるみの件りがないのは、早替わりを早く見せ ようとするためだろうが、こういうムダが南北の楽しさだろう。 大詰鞘当。こういう芝居になると、役者の持ち味、姿かたち、せりふが問題 になる。三津五郎、海老蔵、亀治郎ともにもうひと工夫もふた工夫もいる。だ れの発案か客席天井から幕切れに花吹雪が散るのはこの劇場ならではのご趣向。 この花吹雪と海老蔵初役の不破の大目玉で客席が大いに湧いていた。 次は「かさね」。 海老蔵の与右衛門は、前回南座の時よりもよくない。よくないのはかさねの 顔がかわっての変化を強調しすぎて前半が弱々しい二枚目すぎるからである。 いくらなんでもこれでは女を殺しそうにない。ことにかさねの妊娠を知って、 「エッ」というのは失笑ものである。 しかし醜くなったかさねの二度目のくどきを聞いていて、段々殺す心になっ ていくところは、血走ってくる目が凄味があって美しい。 ことの私が驚いたのはかさねに鏡を見せた後、また鏡をグッとさしつける時 の残酷な凄味である。なんともいえないおそろしさで、これが南北の色悪だろ うが、そうなるとかさねの顔を見て手を振ってこわがる与右衛門が滑稽に見え る。こわいのではなくイヤなのだろう。そのくらい図太くなければ、鏡を見せ たときのゾッとするような残酷さとつながらない。 とかくこのリアルさと清元の踊りというバランスがわるい。 幕切れの連理引きはやりすぎ。しかし析が入って、つぶった左目を紅を差し た目じりから開けていく美しさにはびっくりした。舞台にこぼれる色気だった からである。 そういえば「不思議や流れに」で川を見込む形、「夜や更けて」の最後にハ ラハラと手紙を垂らして透かして見る形、ともに無類の美しさ。こういうよさ と全体のバランスが取れていない。せりふも素と時代とアンバランスで「足、 手まとい」など耳立つ。 亀治郎のかさねがさすがに一日の長。前幕のお国のあざと付かないように、 きれいにあざを取っているのも行き届いている。踊りもうまく、もう一歩色気 があればいいかさねである。与右衛門と違ってこっちはたしかに清元の踊りに なっている。今月の亀治郎五役中一番の出来である。
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