2006年3月歌舞伎座

十三代目仁左衛門十三回忌

      

 もうそんなに月日がたったのか。三月の歌舞伎座は、我当、秀太郎、仁左衛

門と松島屋三兄弟揃っての、父十三代目追善興行である。

 追善の狂言は、昼が「道明寺」、夜が「堀川」。

 「道明寺」は当代仁左衛門三度目。初役の時は父十三代目通りで、やる方も

必死なら見る方も手に汗握る思い、その緊張とその謙虚さで立派な出来栄えだ

ったが、二回目は元気がよすぎてこれならばたちまち館の騒動を解決しそうに

見えて神格にはなりにくかった。

 さて、三回目の今度は「小鳥が泣けば親鳥も」の上手向きで欄干に右袖をか

けての、親の悲しみを人間的に強調する出来になった。むろんそれはそれでい

いのだが、あまり人間臭いとこれまた天神様になりにくい。この役は全てを見

透していて、しかも現実の事件の局外に立つ。現実には無能力、無行動。それ

故にこそ神格を得る。時にリアルな感情をこえてこそ「生けるが如き御姿」に

なる。今度の仁左衛門には、その現実の事件とのスタンスが足りないように思

う。

 たとえば伏籠を出た苅屋姫と二重の上で、あるいは平舞台で、向かい合って、

しかしこれを避ける。心に愁いを持ちながら、しかし一つには勅勘の身の、わ

が娘とはいえ斎世親王の寵姫に正式には対面できぬから。もう一つは、現実の

親子の別れの感情を超えているからである。仁左衛門だとこの二重の枷が見え

にくく、ただ姫を嫌っているように見える。隠している心の愁いが足りないの

と、この現実を相手にせぬ心持ちが薄いからである。

 扮装も、仁左衛門の父とは多少違うニンのため、若やいで見えるのが損。今

の二枚目役者仁左衛門のニンからいえば、ウソでも老けてつくった方がそれら

しくなる。

 「暫時の睡眠」を「スイメン」といわずに「スイミン」というのも、観客に

わかりやすくというためだろうが、わかりやすくはなってもその分奇蹟が薄っ

ぺらになる。そうなると奇蹟劇の面白さが早替り劇になってしまう。仁左衛門

が出るたびに客席がどよめくのは、奇蹟の奇妙に感心しているのではなく、早

替りに感心しているのだ。

 芝翫の覚寿が前回同様傑作。宿弥太郎を刺して「さすがに河内郡領の」で三

段に押して行き、右肱を張っての大見得から「娘が最後もこの刀」の愁嘆の深

さ、大きさ、「あきれ果てたる」の三段に左足を落として両手を膝にキッパリ

きまった形の味わい、ともに立派な出来である。

 ただ惜しいことにこの覚寿にして三つのキズがある。

 一つは他人の芸の邪魔をすること。たとえば段四郎の宿弥太郎が芝居をして

いるところで、宿弥太郎が立田殺しの犯人と知る芝居をすること。前後のどち

らかに片寄せるべきだ。あるいは富十郎の輝国の出の前に腰元を呼んで手を洗

うこと。間が持たないからだろうが、これで段四郎、富十郎が損をしている。

行儀が悪い。

 一つは、とかく説明に過ぎること。たとえば芸が細かいのはいいが、それを

客に説明しすぎる。こっちに木像、こっちに本物、どうです、奇蹟がわかりま

すかという具合、この芝居で仁左衛門の丞相がさらに薄っぺらになってしまう。

 もう一つは、最後の辺りのハラがうすいこと。梅幸の覚寿は、ジッと動かず

にハラで泣いていたから客が泣いた。動きすぎる割にはハラがないのは初日ゆ

えか。

 以上三点。この傑作にこのキズ。惜しみてもあまりある。

 つづいて段四郎の宿弥太郎、秀太郎の立田がいい。段四郎は手強く、せりふ

尻がうまく、秀太郎の立田は前回より大きく、色気がある。さらに驚いたのは

孝太郎の苅屋姫。前回はあまりよくなかったが、今回は見違えるほどの上出来。

しっとりと、ふっくらと、大いにいい。第一、キレイに見えるのは芸の上達の

ためである。

 富十郎の輝国はせりふがよく、歌六の水奴、芦燕の土師兵衛、市蔵の贋迎い

といずれもいい。

 昼の部はこの「道明寺」の前に「曽我の石段」幸四郎、福助、東蔵の「吉野

山」。

 「曽我の石段」は、役者の持ち味で見せるものだから進之介、愛之助の若手

では無理。月夜のはずだが、照明も道具も真ッ昼間の如く、次の居所変りの対

面は昼のはずなのにだんまりの手がついている。台本も演出もきちんと整理す

べきだ。

 「吉野山」は、福助の静御前の前半が傑作。花道の「分けつつ行けば」で若

草を分けて歩いて、フッと東の桟敷の末辺りを見て雉に気づくあたり、振りと

振りのうつりかわり、流れがうまい。「谷の鶯」から鼓をうつあたりにも踊り

の面白さがあって、この前半は福助近頃の大出来。但しこの良さが後半まで続

かなかった。口を開けるのはそれまでのイキが切れるからだろう。

 対する幸四郎の忠信は、踊りがブツブツ切れるのと、手首に妙な癖がある。

先月の熊谷でも思ったが、時代物の役なのだから、もっとどっしりした体つき

でありたい。フワフワしている。東蔵の藤太は十分突っ込んでいい。

 さて、夜の追善狂言は「堀川」。

 めずらしく四条河原が出るが、これが大カットのためにどうして伝兵衛がに

せ金をつかまされたのか、横淵官左衛門を殺すに至ったかがわかりにくい。藤

十郎の伝兵衛は期待したがさしたることもなく、秀太郎のお俊もこの場は色気

が薄い。団蔵の横淵官左衛門がそれらしい。

 次が「堀川」。我当の与次郎はニンがピッタリな上に、十三代目の工夫した

型をよく写している。十三代目の型はリアルな生活感にあふれているが、その

細緻な段取りがむずかしい。裾のチリを門口で外へ尻を向けてはたくところな

ぞ、そのもっとも特色があらわれている。しかし今夜は初日のせいか、この段

取りがとかく遅れがちなのが残念。ことに母のくどきやお俊のくどきのうしろ

でバタバタするのには大いに困った。日ならずして手早くなるだろう。

 それに今夜はせりふの調子がいささか低く、きまりの型どころもはっきりし

ない。義太夫狂言のせりふのうまいこの人らしさが聞けなかったのも残り多い。

うまいのはお俊伝兵衛が着替えに立った後、上手の母親に膝をついて、「母者

人」とすがって泣くところである。妹思いの愚直な兄の悲しみがよく出ている。

 藤十郎の伝兵衛はさすがに前幕とは違ってその持ち味が生き、秀太郎のお俊

はまえのくどきでの煙管の火皿を簪で掃除する型の色気、後のくどきの情愛、

ともにこれも前幕とは違っていい。

 吉之丞の母親はこの一段のこの役が主役ともいっていい大役。肝腎の娘の情

にほだされてのノリのせりふがいま一つ。いっそノリでなく普通に言った方が

この人の芸風には合っているのかもしれない。

 夜の部は、この後が富十郎、菊之助の「二人椀久」、幸四郎の「筆幸」。

 富十郎の椀久が夜の部第一の見もの、その柔らかさ、体の中からリズムが湧

き上がってくるような踊りのうまさでうならせる。今さらではないが、この曲

の特色、振付の特異さがよくわかって感心した。雀右衛門との名コンビの時代

を思えば、幕切れの哀愁、ひとしおである。菊之助の松山は初役で仕方がない

が、体が硬く、動きが重い。

 最後は「筆幸」。

 幸四郎の船津幸兵衛は、今まで私が見た幸兵衛――二代目松緑、十七代目勘

三郎、富十郎、猿之助、団十郎の中では一番ニンにあっている。どう見ても貧

乏士族、しかも器用に世の中を渡っていく術のない男。そういう役にピッタリ

である。

 しかも気が狂ってからの、その迫真力、そのリアルさ。鬼気迫るものがある。

見ていて思わず体を避けたくなるほどである。

 ところが二つ問題がある。

 一つは、これほどの適役にしてせりふが黙阿弥ものの調子になっていないこ

と。もう一つは台本がいじってあって、それがかえって時代遅れに見えること。

以上二点である。

 たとえば「実に途方にくれるわえ」という有名なせりふである。はじめて松

緑の幸兵衛を見た時、私は一度でこのせりふを覚えてしまった。松緑のそれが

名調子だったからである。ところが幸四郎は、これを「実に途方にくれたわえ」

という。「くれる」ならば現在進行形、「くれた」ならば過去形。現在進行形

だから幸兵衛は自殺しようとするが、過去形ならば死ぬかどうかわからない。

そこに自分をかえりみる、なにがしかの余裕が生じるからである。

 こんな有名なせりふを幸四郎が間違えるのは、いろいろ台本がいじられてい

るからであり、一つには、清元の入る黙阿弥の芝居の調子をつかんでいないか

らである。幸四郎には、そこを是非きちんと研究してもらいたい。

 周囲では、彦三郎の金貸金兵衛、権十郎の茂栗安蔵、歌六の人力車夫三五郎、

幸右衛門の家主与兵衛、鉄之助、玉之助の長屋の女房がいい。

 他に秀太郎の萩原の妻おむら、友右衛門の巡査民尾保守、壱太郎のお雪、米

吉のお霜、清元は昼の「吉野山」とこれが志佐雄太夫、美治郎で、二段とも上

々の出来である。

 

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