2006年2月歌舞伎座

       菊吉の世話物二本

 

 二月の歌舞伎座は、菊五郎と吉右衛門二人の世話物が見ものである。すなわち

昼の「湯殿の長兵衛」、夜の「人情噺小判一両」である。

 吉右衛門の長兵衛は、すでに何度か手掛けたものだが、今度あらためて感心し

たのは、この男の覚悟である。その覚悟は、まず序幕村山座で水野に呼び止めら

れての二言三言にはっきり出ている。見ていてこの男は命を捨ててかかっている

なとわからせる。

 つづいて花川戸の長兵衛の場の、ひとりになって煙草を吸いながらの述懐。

「先達ってから吉原や」が深いひびきをもっている。初代吉右衛門以来今まで何

度も聞いたせりふだが、今度ほど胸に響いたことはない。自分が死ねば天下の騒

動になるだろうという見通し、その時どれほどの死人が出るか、どれだけ妻子に

災難がふりかかるか、出来れば避けたいが避けることが出来ない。ただ自分一人

が責任を取らなければならない。そこには自分の運命を見つめて黙々とおのれの

責任をまっとうする男の姿があざやかである。まさに「捨てるその身は苦にもせ

ず、あとの難儀を思う」男がそこにいる。

 こうして見ると、ここには今日の日本人の失ったものが明確だろう。たかが男

達というなかれ、この覚悟が今の世にはどこもなく、誰にもない。その意味で、

この芝居は古めかしい芝居ではなくまさに現代劇なのである。

 対する菊五郎の水野も、心の底深く長兵衛へ恨みを含んだ苦々しさを持つ人間

になっている。何度も和解への機会がありながらこの対立が解けぬのは、この人

間の底深くすむ怨恨である。一方で殺すに惜しいといいながら、一方では断じて

許せぬ憎悪が見えている。しかもこの憎悪のもとは、長兵衛がかつて小者とはい

え自分たちと同じ武士階級に属していたための近親憎悪である。菊五郎の水野は

その憎悪の深さを粘液質に出して、さっぱりと思い切っている吉右衛門の長兵衛

との対照になっている。

 玉三郎二度目の長兵衛女房お時も情があってよく、長兵衛の着替えのところで

最初に足袋をはきかけての思い入れ、次に帯を持って、最後にしつけ糸取るとこ

ろと二人のイキがピタリと合っていい。

 段四郎の唐犬権兵衛、歌六の近藤登之助、歌昇の出ッ尻清兵衛、団蔵の公平、

菊十郎の坂田金左衛門と揃ってよく、ことに今度は亀寿の頼義、又蔵の慢容上人

がいいばかりか、吉之助の舞台番がとかく照れやすいこの役をみごとにやっての

けた。殊勲賞である。

 菊吉もう一本の世話物は、宇野信夫の「人情噺小判一両」。

 笊屋安七が善意でやった小判一両が、浪人小森孫市の武士としてのプライドを

傷つけて切腹させてしまうという悲劇。

 菊五郎の安七が序幕で暗い過去をもちながら善意に生きる笊屋を見せた後、幕

切れに吉右衛門の水戸家の家臣浅尾申三郎がスーッと下手から出る。その「笊屋、

参れよ」というたった一言で舞台がグッと締まったところへ、菊五郎が「ヘイ」

と肩にかついだ笊の荷をかつぎかえるのが析のカシラ。これが世話物の面白さ。

つくづく芝居は相手が大事だと思った。芸は相持ちである。

 二幕目料理屋になって、酒に酔った菊五郎の安七が人間はだれでも平等だとい

って申三郎に迫る具合、侍の一分にこだわっていた吉右衛門の申三郎の態度がガ

ラリとかわって詫びる具合。二人のうまさで、申三郎の一人よがりが実は偽善に

すぎないことがくっきりうかび上がる。

 そして大詰。二人が連れ立って小森孫市の貧乏長屋をたずねると孫市が自害し

ている。ここではじめて今度は安七の善意がかえって仇になったことがあきらか

になる。安七の主張も実は偽善にすぎなかった。

 私は六代目と初代吉右衛門の、この芝居を知らない。はじめて見たのは松緑と

三代目左団次だったが、今度のこの舞台を見るまでこの芝居の作者の真意を理解

していなかったことに気づいた。どんな社会にも人間の平等などあるわけがない。

社会が人間の集団であるかぎり不平等は存在する。それが社会の仕組みであり、

だからこそ人間は今日でも平等を叫ぶのである。平等は決して達成されることが

ない理想である。ひるがえってだからこそ人情が必要になる。

 その作者の真意が、安七の悔悟、甲三郎の涙ではじめてあきらかになった。菊

五郎の安七と吉右衛門の甲三郎の芝居が私の胸を熱くさせたからであり、それが

実に新鮮だった。「湯殿の長兵衛」とは違った現代性を二人が発見したのである。

この二人でもっといろいろの演目が見たいと思った。

 田之助の小森孫市の気弱さとブライド、権十郎の凧屋の手強さがよく、家橘、

右之助、吉之丞、松也と周囲も揃っている。

 さて、それでは他の出し物はどうだろうか。

 昼の部は「湯殿の長兵衛」の前に、芝雀橋之助歌昇の舞踊「娘七種」。幸四

郎福助の「陣門組打」、芝翫病気全快の女猿曳きに、橋之助菊之助の「お染」。

最近は雀右衛門、富十郎、芝翫の長老たちがとかく踊りばかりだが、もっと名

優たちの芝居の至芸が見たいと思うのは私だけだろうか。今でなければ出来な

い名人芸もあるはずだ。

 昼の部最大の問題は幸四郎の「陣門組打」である。今度はとんでもない新演

出がいくつかある。

 まず第一に、陣門の熊谷が兜をかぶせた小次郎を小脇に抱えての花道の引込

み。普通は顔を見せずに入る。ところが今度は七三まで行くと芝のぶの吹き替

えが兜を取ってスックと立つ。熊谷がその後ろに座って手をつかえる。これで

は本舞台の平山武者所が、敦盛と気がつかないわけがない。言語道断、前代未

聞の底割りである。新しい工夫、新演出、私は必ずしも反対ではないが、作意

もなにも無視したこの新演出は賛成できない。

 第二に、遠見のカット。これは別に在来もあったことだし、わるい案ではな

いが、こうなるといかにもセリ上げがバカ気て見えるのも事実である。

 第三に、「倅小次郎・・・」のせりふのカット。

 敵将敦盛(実は小次郎)を討つのになぜ熊谷が悲しむのかという理由をのべ

ながら、ウラに小次郎身替りの真実をそれとなく効かせた作者苦心のところを

カット。乱暴である。

 第四、幕切れ、敦盛の鎧をとって抱きしめる。ここら辺り幸四郎は全て小次

郎を討つことにしている。

 以上の新演出は、この一幕だけでは現代の観客に物語がわかりにくいと思っ

たためのことだろうが、観客は余計わからなくなる。改悪。

 福助の小次郎は前半柔らか味がたりないのは、女形だからと強くしようとし

ているため。研究不足。後半さすがにあたりを払う気品を見せたのに惜しいこ

とだ。

 芝雀の玉織姫、錦吾の平山武者所。

 夜の部は「小判一両」の前に幸四郎の「石切梶原」、玉三郎菊之助の「二人

道成寺」の再演。

 幸四郎の梶原は、最初の出のカットは困るが、それでも熊谷ほどの間違いは

なくてまずは無事である。調子がいい人だけにせりふでは聞かせる。

 ここでは歌六の六郎太夫が意外に義太夫味あり、情あって上出来。彦三郎の

大場、愛之助の俣野も手強く、芝雀の梢もさすがに人妻と見えていい。秀調の

呑助は持ち役。亀寿の奴菊平が締まっていていい。

 「二人道成寺」は、これも一昨年の初演と違って乱拍子がある。前回は鐘見

で玉三郎がスッポンからせり上がったが、今回は紅白の段幕があがると二人が

タテに並んで立っていて乱拍子急の舞になるという演出。しかし「二人道成寺」

は本家の「京鹿子」のもじりだから乱拍子だの急の舞だのという作品ではない。

こうなると二人がベタ付きで変化がなく、前回の方がよかった。細かいところ

は別にしてあとは大してかわりがない。

 かわったのは菊之助である。前回は玉三郎がいなくなって菊之助一人になる

ととたんにつまらなくなったが、わずか二年。育ちざかりとはいえ今度は玉三

郎と五分の勝負をしている上に、菊之助が一人で踊る花笠、ただ頼めの手踊り

の二ヶ所が面白い。ただ頼めは菊五郎もいいが、それ以上。大手柄。目を見張

る思いがする。

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