2006年11月歌舞伎座夜の部

散漫な狂言立て

   

 昼の部の「先代萩」の充実ぶりにくらべて、夜の部は各優自分の出し物を並

べた結果顔見世らしい顔合わせがなく、狂言立てにも魅力がない。役者揃いの

大一座なのに残念である。

 最初は舞踊「鶴亀」。雀右衛門の女帝が九月よりもさらに元気で艶やか。踊

りというほどもない簡単な手ぶりに深い味わいを見せる。大ぜりで三人一緒に

せり上がって歩き出す、その第一歩のつま先の美しさ。あるいは「千代を重ね

て」と左右三つずつ体にふれるところ、「舞い遊ぶ」と右手をあげて上手を見

込んだ姿の立派さ。単なる技術でなく叩き込んだ芸の持ち味である。しかしこ

このところ雀右衛門は踊りばかり。とんとその声を聞けないのが残念である。

 三津五郎の鶴が、体を十分使って端正な踊りを見せる。亀は福助。

 つづいて「二月堂」。

 仁左衛門の良弁僧正は人品豊かで丁寧な芸。この張り紙はお前が書いたのか

と渚の方に聞くところ、椅子に座ったまま右足を出して両手で文書を持っての

きまりが滅法いい。引込みに花道七三で思わず天を仰ぐのが自然に客への挨拶

になっているのがこの人の芸風である。

 対する芝翫の渚の方はリアリズム一本やり。それがうまくもあるが、しかし

そうなるとこの話が嘘っぽくなるのも事実。作の底が浅いのだから仕方がない。

 次が舞踊の上下二本。上は菊五郎の「雛助狂乱」。雪の庭前で、白の着付け、

紫紺の長裃、燕手風の敵役仕立ての秋田城之助に補手が搦らむ狂乱。私は原作

を読んでいないので筋もわからず、おそらくは偽せ気違いだろうが、どこが狂

乱なのかもわからず、ただ立ち回りを見せるだけ。珍しい踊りというのみ。

 下の巻が、富十郎鷹之資親子の「五条橋」。

 この夏藤間宗家の素踊りで見せたもの。その時は下手からツカツカと出る富

十郎の弁慶の意気込みが素晴らしかったが、今度は法師頭巾に茶と黒の上着で

花道へ出るので見伊達がない。鷹之資が子供なのにしっかりしているといえば

足りる。

 ここまでは各幕ともに小品揃いで喰い足らず。最後の「河内山」の質見世に

なってようやく芝居らしい芝居が見られると思った。

 団十郎の河内山は、この場だけのことをいえば、せりふ廻しの例の舌足らず

の甘さが一、二ヶ所あるほかは、奥へ踏み込むという凄味、河内山に頼んでは

どうかと女中が後家おまきに勧めるのを聞いて心持ち反り返るところに、愛嬌

とユーモアがあって意外に面白かった。

 ところが二幕目になってビックリした。この押し出しの立派な河内山が急に

当て込みだらけの、わざとらしいせりふ廻しになって、喜劇になってしまった

からである。むろん少しでも面白く見せようという団十郎努力の結果の新演出

だろうが、これでは松江の家中がどんなにバカでも御使僧はニセモノと気がつ

かない方がおかしい。松江家十五万石もなめられたものだ。黙阿弥苦心の芝居

の骨格は崩れる。それでも一部の観客は喜んでいるが、ここに歌舞伎の今日の

陥穽がある。

 玄関先になっても、見あらわされて尻を大きくまくって、御使僧といわれる

と急に裾をおろす喜劇ぶり。お目当ての「悪に強きは」の名せりふも現代語、

(「娘の命を助けようと」)が混じる上に、カンで出て最後に低く凄味になる

というくり返しで単調。むろん在来のここのせりふ廻しの型は全く無視されて

いる。

 皮肉なことにこの喜劇的河内山に対して、周囲の役々がいいのだからますま

す新演出のバカらしさが目立つ。

 序幕の上州屋は、歌六の和泉屋清兵衛が舞台を締め、昼夜これ一役でも十分

存在価値を示した。つづいて右之助の後家おまきが大家の後家らしく、しかも

話の筋をよく聞かせて秀逸。小槙とおまき。昼の小槇とは大違いである。四郎

五郎は舞台で客席に向かって真横になることを除けばこれも本役。

 つづいて松江家では三津五郎の出雲守が、「遠慮に及ばぬ近う近う」の言い

方などリアルでいて格をはずさず、ハラがしっかりしている。しかも「まこと

に意外な御血色」でギックリ臭い芝居をしたりせずにハラだけで受けて苦々し

くワキを向く具合。「もっての他の御乱行」ではじめてヤッとなってくだけて

いく具合。渋い行き方でいてドラマの骨格をシッカリ掴んでいる。引込みの無

念さの怒りを抑えた芝居まで上出来。近来の松江候である。

 段四郎の高木小左衛門が本役。七日目にしてせりふが危なっかしいのは困る

が、立派に十五万石の御家老に見える。

 友右衛門が宮崎数馬でしっかりしたところを見せ、門之助の浪路、弥十郎の

北村 大膳と一家中揃っての好成績。夜の部で一番充実しているのは、上州屋一

家と雲州様のご家中である。

 

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